15.大道芸人 ギリヤーク尼ヶ崎のこと 

 毎年来ていたギリヤーク尼ヶ崎からの年賀状もいつ頃からか来なくなった。「ニューヨークに行ってきます。」「パリに行ってきました。」いつもパワフルな文面であった。確か、彼の良き理解者であった弟さんの死の知らせを受け取ったのが最後ではなかったかと思うが定かではない。彼の踊っている姿も2001年の新宿での青空公演以後は見ることはなかった。時折、親しい者との間では彼の話題も出たが、彼の歳のことも考えると、もしやの話まで出る始末。そんなところに数日前、ドキュメント番組で彼の踊っている顔が大写しになった。何よりも80歳を過ぎて今なお大道芸人として生きているその姿に改めて納得した。

 30年近く前、私は「芸人達の午後」と題して、彼のパフォーマンスとフラメンコとマイムを構成・演出したことがある。フラメンコは当時新宿のセンタービルのオープンホールでレギュラー出演していた橋本ルシア、マイムはフランス仕込みの並木孝雄、これは好評で再演となった。(今は亡き※夏際敏生も絶賛していた)その後、ギリヤーク尼ヶ崎とは高円寺の自宅のパーティーで会って以後会う機会もなくなってしまった。

 そして、最近になって、彼が2002年東京都が導入した大道芸免許制「ヘブンアーティスト」には「大道芸人の立場を向上させた」として一定の評価をしつつも、「芸を審査する」というシステムに反発し、申請はしていないということを知り、ギリヤーク尼ヶ崎「健在」なりと喜んでいる。そもそも「芸」を「お上」に審査されて喜んでいるようでは「芸人」としても「芸術家」としても未だし(いまだし)であろう。

 私が彼と接していた当時は、彼の踊りの芸風は「鬼の踊り」(画家 林武)と言われていたが、その芸風が1995年以降(阪神淡路大震災以後ー焼け野原で鎮魂の踊りを舞うー)「祈りの踊り」に変わったということである。これは意外でもあり、不思議でもあった。と言うのもジャンルも全く違うフラメンコ舞踊家として展開してきた橋本ルシア自身の踊りも「祈り」が中心となってきているからである。もし生きていれば、マイムの並木孝雄もどのように変貌したのかと思う。

 

※ 夏際敏生 劇団駒場で芥正彦と共にアングラ演劇運動を指導(1967年ー1976年)。詩人、スペイン バルセロナ国際舞踊フェスティバルで特別賞を受賞。

芥正彦は東大全共闘オーガナイザーとしても活動。寺山修司と「地下演劇」誌を発行。

 

                                                                                                                                                                                  2010 7/8  平山勝

                                                                                                

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