144.つれづれに一言で片づければ(21)33件(386件)

〇「アメリカが嫌なら出て行け」とあのトランプが言ったそうだが、日本でも何を勘違いしているのか同じようなことを得意げに言う者たちがいる。アメリカが嫌いだとか、日本が嫌いだとか言っているわけではあるまい。彼らのやっていること、言っていることに問題がある、非があると言っているだけで、誇大妄想的な勘違いも甚だしいが、この感情論には悪質な作為がある。

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〇スマホなどのゲームは愚民政策の一つでもあろう。ゲームは昨今のアヘンであると思っている。

 

〇しかし、ここまで「国『民』」をバカ扱いした政権も珍しい。戦後最大の悪夢は現在であるということを明確に押さえておく必要があろう。

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〇レビューなどに得意げに書き込んでいる者たちがいるが、自分の無知、リテラシーのなさが全然わかっていないのであろうと思われる。要するに、自分を知らなすぎるのである。有名無名は問わないが、もう少し自らの思考を打ち鍛えてから言うべきであろう。だらしのないよだれのような内容が多過ぎる。

〇「新聞記者」、こういう映画がごく普通に作られることが望ましいことであり、社会的にも「健全」であることの証ともなるが、実際は、極めて不健全な社会になっているのである。日本文学研究者でもあり、国文学研究資料館長でもあるロバート・キャンベルも政治に関心を持つことがどういうことなのか、選挙に行くことの意味について若者に語りかけていた。ほんとうにこのまま行けば、ジム・ロジャーズ(世界三大投資家の一人)が言うように「安倍政権の政策は、日本の子どもたちの将来を滅茶苦茶するものである。日本が消えるのは50年後か、100年後か、残念である」ということになるのである。

※「大統領の陰謀」(1976年 米国)、「ニュースの真相」(2015年 米国)などの映画もすでにある。   

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〇「ニッポン無責任時代」という映画があった、1962年当時は笑えたことでもあろうが、それから半世紀以上経て、今やニッポン無責任時代そのものとなってしまった。後々、昭和、平成、令和を集約して「この時代はね、日本の『ニッポン無責任時代』」などと言われても仕方ないと思われる。そうであれば、修復可能な壊れ方であったということにもなり、大いに結構なことであるが、そうでなければ最悪な結末ともなる。

〇フェイカー(faker)が、フェイク(fake)、フェイクとかまびすし。フェイカーは、真実そのものを恣意的に相対化させる。

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〇本当に、本屋らしい本屋はなくなってしまった。コンビニ化した本屋に見識を求めても土台無理な話なのでこれ以上は言わないが、そのような中でも唯一、新宿紀伊国屋書店は全体的にその基本的スタンスを崩していないように思われた。要するに、錆び付いたら終わりということなのである。

 

〇何から何まで、異様な明るさ、軽さ、病的である。その裏が透けて見える。また、奥の方では、やたらとポジティブなトロレットが騒いでいた、「嘘、臆面のなさ、裏切りは満ち足りた生き方の三つの祝福」、「楽ちんに生きるために骨抜きで生きましょう!」「苦しまない生き方は、これ! 怠慢、忘却、無頓着、これしかない!」「やがて、あなた方を変身させる!栄光に飢えた戦争のマシーンに!ハハハハハハハー・・・」

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 〇日本では、自分は「無神論」であると思っている人々でさえ、実質的には民族宗教「神道」の信者であるといえるほどそれは生活に入り込んでいて敢えて意識するレベルではないから気付かないだけなのである。「神仏習合」などといってもどこまでが仏教か不明なものも多いが、それは仏教がそれ以前からあったその土地の民族宗教すなわち神道と融合した結果であると簡単に済ませるほど単純なものでもない。仏教徒が支持基盤となるか、神道の信者を支持者にするかの権力者の謀議は常にあったであろう。「神仏習合」とは聞こえはよいが、仏教徒にも神道信者にも取り入る権力者側の折衷案がそのまま残されているということで、仏教教理と神道伝承が宗教的に融合したなどということでは全くない。そもそも八百万の神を信仰の対象とするところは日本に限らず至るところにある民間信仰でもある。それが惟神(かむながら)の道ともなれば、明確な仏教哲学とはまったく相容れないものとなる。普遍的な哲学的問いに対しても答えられない民間信仰レベルのものはどのような権力とも結びつきやすい、というよりは利用されやすいのである。全体主義国家の再興を目論む者たちにとって、それは打って付けなのである。

老婆心:仏教とは仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。神道、密教、加持祈祷の類は仏教とは無縁。

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〇何についても「真摯に、緊張感をもって」、どちらにしてもヘラヘラとやりすごす, マリオネットかギニョールか そうかと思えば一方では、記者の当然の質問に「あなたの質問に答える必要はありません」とくる。これも前代未聞である。そして、何を話しているのかいつもの「米大統領と電話会談」、「電話会談」というより「電話相談」であろう。こちらの方は通訳付きで単語も間違いようがあるまい。

 何もかも、やった振りの大衆に媚びた騙しの印象操作ばかり、これで付いて行けば、どうなるか分かり切ったことであろうと思われるが、それが分らぬようにねつ造、改ざんが至る所に施されている。ここが、頭の正当な使い道を失った御用の衆の出番でもある。昨今では、御用の衆も雨後の筍のようで驚くばかりであるが、よく見れば、戦前復帰を本願とする集団に後押しされてようやく活路を得たような者たちばかりである。

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〇構成作家が習い性となってしまった哀れな「作家」、むしろ売文業者と言った方が的確かもしれないが、そうした金が目当ての書きなぐりを生業とする者、元々、「個」を深める作業とは縁もゆかりもなく、そこで使われる「文学的修辞」などとは単なる「目くらまし」として使われているに過ぎない。いかに時流に乗り視聴率、出版部数を上げるかが最大の関心事。いきおい、ある事ないこと事実に仕立て上げ、「やらせ」、「でっち上げ」などお構いなしの感覚になっていく。本屋も出版屋も背に腹はかえられぬとばかり店頭にそうした本を積み上げ、いかがわしい売文業者の大写しのポスターを張り付ける。つい、その面見てしまうが、やはりイカガワシサがにじみ出ている。

 

〇「ノートルダム」を「私たちの貴婦人」と訳して事足れりと思ってその気になっている日本のマスメディア、それに類する者たちのレベルの低さ、中途半端な専門バカばかりなのであろうと思われる。「役に立つ、立たない」を最大基準にしている傲慢さ故の無知から起こることである。反知性の象徴的な一端でもある。

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〇区議選前、例の杉田何某を応援演説に呼んで、高円寺駅前での一悶着、呼ぶ方も呼ぶ方でお里も知れるおこの沙汰。高円寺はまだ死んでいないなと思える意外な出来事であった。

 

〇「いっさい成り行き」(樹木希林)の本が売れているという。この題名のつけ方で彼女の生き方そのものが浮かび上がる。それは俗流「他力本願」などとはかけ離れている。(この言葉は半可通に頻繁遣われてもはや使うこと自体が反知性の証ともなっているが)、そうかと言って、もちろん「自力本願」でもない、敢えていえば「他力本願自力」ともいうべき「域」であろうか、言い換えれば自在の域でもある。ああしたい、こうしたい、あれも欲しいこれも欲しいは餓鬼の内ということである。

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〇WTOの紛争処理手続きの「最終審」は日本側の主張を退けた。もういい加減「風評被害」などという言葉で括るのはやめたほうがいい。近隣のおばさんだってそんなことはわかっている。だから、買わないのである。「政府困惑『あり得ない』」とは、まさにあり得ないことである。神がかっているのか、大ウソつきなのか、私利私欲の亡者の集団か。根本的な原因は何なのか?もう一度そこから考え直すべきであろう。どこまで日本の信用を失墜させるつもりなのか。

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〇新元号、騒いでいるのはマスメディアだけ、大方の皆さんは白々とした様子である。新元号の「令和」、「和」を命ずるとも読める。どのような「和」なのか?「和を以て貴しとなす」という「和」でもなく、「和して同ぜず」という意味合いもないようだ。「令」も気になるところである。私は仕方のないとき以外は年号は遣わないのでどちらでもよいのだが、もともと年号などというものは中国の皇帝の「時も支配する」という思想からきているもので私にはあまりなじまない上に不便なだけなのである。明快に2019年で充分である。時の権力者の思いなどを「時」に載せられてもただ重く、煩雑になるだけである。

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 しかし、万葉集についての知識もこの程度で仰々しく日本の文化について語るとは、取ってつけたような「日本人」である。「アベ友連」の涙ぐましい擁護もただ鼻白むだけである。

 

〇内閣府発表、〇〇省発表などのデーター、内容をそのまま信用している人がいること自体が驚きであるが、「学者」、「評論家」、「ジャーナリスト」などがそのデーターを根拠に論を展開しているのであるから話にならない。「まず、何事も疑ってみることです」とはノーベル賞学者である。批評もできないようなところに進展はなく、やがて衰退は避けられまい。実際、その実例は枚挙にいとまがないのである。

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〇テレビのディレクター、演出家、プロデューサーなどというものは、安吾を登場させるまでもなく、時流にいかにして乗るかが最大の関心事であって、実のところそれ以外には内容的に何もないと言ってよいだろう。そのことについては今もまったく変わることはない。逆に何もないことを逆手にとって商売にしているともいえる。だから、いつの間にかそれこそ「健全に」」戦争のプロパガンにもなってしまうのである。彼らには責任などという言葉すら存在しない。そのような在り方を選んでいる者たちなのである。その点では今の政治屋諸君とまったく相似形である。実際、海外のテレビドラマなどと比較すればその差は歴然としている。どれもこれも対象年齢は10歳程度としか思えないものばかり、日本には子供番組と子供ニュースしかないのかとさえ思える時がある。だからいつまでたってもどこまでも幼稚なのである。

 最近の報道と名の付くものの中には、「アホノミックス」同様、「アホウドウ」と言ったほうがよさそうなものが多い。ア報道は報道ではない。「報道番組と名乗るのをやめるべし」と女性ジャーナリストが激怒するのも当たり前であろう。

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〇「三本の矢」云々については、当初からこのサイトではその怪しげな領域を指摘していたので、どこぞのコピーライターのような「ジャーナリスト」、「評論家」、御用の筋の「学者」などがまことしやかにお題目のように唱えるその内容には笑止、辟易の繰り返しであった。そもそも三本の矢を持って的に向かうなど名人の域いるものだけである。その器量もないものにはまったく無理なのである。兼好法師でなくとも、「この一矢に定べし」という気概がなくては、矢はすべて的のない矢に等しい。現状は案の定というより他に言いようがあるまい。しかし、この程度の「大衆好み」の漫画ゲーム的比喩に引き込まれているようでは漫画的に崩れ去るのも当然なのである。その譬え、毛利何某の三本の矢であったにしても的外れも甚だしい。

 わかったようなわからないような類型的なコンセプトを泥団子をこね回すごとくに手を変え品を変え作り出す者とは、山師以外にはない。

 国会で、質問に対して「この場で申し上げることではない」と言う者、要するに国民は知る必要がないと言っているのである。無恥と無知と驕りがここまで重なると、それはただ単に不気味な「得体の知れぬ『もの』」となる。完全に「人間の境涯」から外れている。

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〇昨今売れる本といえば、「金運」、「強運」、「占い」、「金をもうける方法」、「ダイエット」、時代のキーワードを扱った「雑文」の類のようである。これでは文化云々どころか、何が起こっても唯々諾々と従う「民」ばかりが増殖するだけですべてにおいて展開、発展の余地は全くあるまい。明確な問題提起もなされないまま、問題が問題として浮かび上がりようもないからである。

 

〇一時、極めて頭脳明晰であったものが、ある時から凡夫以下のていたらくとなる。よくあることである。その原因の多くは、否、すべてといってもいいだろう。自己増殖させてしまった欲望である。さらに、亡者に至っては前頭葉は完全に機能不全状態である。このような人々を縁なき衆生というのであるが、救いがたき人間ばかりを増やしていては衰退、滅亡は避けられない。前頭葉機能不全状態の者の言語はすべてその場限りの場当たり的言語であるということである。

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〇ある御仁について、「サイコパス」ではなく「自己愛型人格障害」などと「分析」していた「専門家」がいたが、だから、人物の捉え方が常に平面的になるのである。たとえ、「自己愛的人格障害」であったとしても、それはいつでも「サイコパス」にも成り得るのである。そもそもそのような線引き、分類にどれほどの意味があるのか。あるとすれば、平面的に浮かび上がったものを頼りにするしかない領域での浅薄な人格定義である。

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〇昨今はまた、子供食らうというサトゥルヌスが頻繁に出没しているようだ。子供の受難の時代のようで痛々しい。躾(しつけ)?この字が読めない者は中高年にもいるようであるが、躾などは「親にもなり切れていない」者などには全く無理で、いわんやそのような者たちが躾と称して体罰などもってのほかである。サトゥルヌスのいる部屋に子供を投げ入れるようなものである。

 

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〇Bye-bye happiness  Hello loneliness・・  じゃないな、Good-bye happiness Hello darkness かロンリネス イン ザ ダーク。しかし、ここまで健全にダークサイドが跋扈(ばっこ)しているのは卦体(けたい)である。ダークサイドの妙に明るい「音」ばかりに気を取られて、その本体の拡大に気付いていないとかなり危険であろう。

 戦後民主主義の総決算がこれではあまりにも無残であるが、必然的な流れでもある。すでに早い時期から民主主義なるものは文字通り形骸化していて、脳死状態のまま延命治療を行っていただけと言った方が適切なのであろう。だから、今その形骸化した民主主義の息の根を止め、新たな出発を装った全体主義の再建が何か途方もなく新鮮に見えるのであろうが、それは陳腐な取り返しのつかない大きな誤りである。

 偽りの人ほど希望に満ちた明るいこと、お為ごかしを言うものである。暗い夜道で根も葉もない明日のことを砂糖と塩にまぶして喋られても、それに耳を傾けていればつまづくか転落するしかあるまい。今必要なのは、明日を語ることではない、今日を、今日を「実現した」一連の過去の事象を見据えることである。今までのことも責任を取れない者たちがどうやって未来に責任を取るというのか。「絶対に」あり得ないことを平然と言えるということは、神経障害、精神の病の類としかいいようがない。

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〇「統計の不正」、これではまったくお話にならない。国の根幹も揺らぐようなことをやっているのである。徹底的な追及を望む。逃げ切れると思っている御仁には敢えて言う。政治においては、「推定無罪」は判断の考慮に入れる必要はない。「推定」は有罪なのである。それは「権力」の強度に比例して「確定」となる。要するに、知らぬ存ぜぬでは済まされぬ「位置」にいるのである。法的には逃げ切れても「許されざる者」であることに微塵の疑義もない。

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〇「親権」を見直すのは当然であろう。そもそも「親」などには誰でもなれるのであるが「親になる」にはそれなりの「知性」、「愛情」も必要である。「愛情」が「知性」を凌駕することもあるが、「しつけ」には「知性」の裏付けないととんでもないことになる。「親である」ことにふんぞり返っているような親の「親権」などは見直されて当たり前で、子供を社会全体で育てるという意識も必要であろう。少子化対策などと言っていながら、必要なところには金を出し渋る「者たち」はそのあたりでもビクついているのであろうが。

 

〇「あのお方は国会というところで、とうとう現人神になったそうじゃ」、「そりゃまた、えらいこちゃな」、「いやはやどうなることやら、登りつめても先があるまいにのー」・・・・・

「森羅万象を担当する者」が、まともに質問にも答えられず、誤用と謝罪だけでは、先のあるなしの問題でもない。しっかり大地に立ってもいられず、そばに立っていた「朽木」に飛び乗り、上り始めたというのが実情であろう。後は美辞と巧言で粉飾するしか手はないのである。実際、見ているとそれだけである。

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〇美容クリニックの何某が、「ナチスにも功罪がある」と言う、これまた恐れ入り谷の鬼子母神。さらに「自分は他人のいいところしか見ないようにしている」とくるから始末に負えない。それなら、他人に対する一言居士風なつまらぬ説教、悪口雑言の類はやめたらどうか。要するに、ネットなどに溢れている根幹部分の検証吟味があまい、したり顔のコピペ人間となんら変わることはない。こんなことは敢えて取り上げることもないことではあるが。バカでかい声なのでつい。

 

〇「この道しかない」?飽くまで「自分にとって」この道しかないのである。これは全体主義国家建設の宣言でもあろう。こんな御仁の「思い込み」でしかないものに付いて行くわけにはいくまい。少なくとも民主主義「信奉者」にとっては。しかし、全体主義国家の前段階では常に民主主義的体裁を取るのが常である。したがって、民主主義「信奉者」がいつの間にか全体主義「信奉者」に移行しているのである。際限なき検証に耐えられない単なる「信奉者」だけでは民主主義は機能しなくなるのは当然である。甘い汁をちらつかせながら欲望と不安を増殖させることで検証の手を止めさせる、そこに「この道しかない」という「前段階」は何気なく作り出される。

 

〇キャッシュレス、すべてにおいて最悪である。これで便利になったなどと思っていると、やがてそのシステム自体が必然的に持っている負の側面にからめ取られることになる。マイナンバーにも懲りず、丸裸にされてそれでも足りぬとばかりに五臓六腑をさらす。本当に「個」というものを大切にせず、おろそかにする人々である。やはり「個」のない全体主義が一番似合いなのかもしれない。

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〇親し気なお兄ちゃん風の若者に、したり顔で確信犯的目くら蛇のような内容を開陳されるとこちらが気恥ずかしくなってくるが、これがユーチューブ辺りで人気があるらしい。要注意の一つの典型でもあろう。こんな皮相的な「見解」に巻き込まれているようでは先は見えている。

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〇数年ぶりに渋谷に出て、そのさらなる衰退ぶりを肌で感じた。スクランブル交差点での大音量、何を言っているのかも不明な言葉と、何の音楽かもわからないような音が90デシベルほどで四方で炸裂している。この街ももう完全に終わっているのだろう。要するに、すべてがイカレテいるのである。気分直しに、老舗の蕎麦屋に入れば頼んでもいないものの料金まで請求される始末。大丈夫か?ほんとうに。これは渋谷に限らず、一事が万事で、後は推して知るべしである。足元も見ずして、というより足元を見えなくさせられてオリンピックなどと浮かれていれば、闇は確実に拡大し、その闇に真っ先に飲み込まれるのは弱者である庶民一般である。経済効果?誰のための?このいかれる浮かれ具合、暗黒の序曲ともいえる。

 

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