〇「KYB」、覚えづらいので「空気を読むバカ」とした。空気を読むバカ、読まぬバカ、同じバカなら読まにゃ損損とならないのが天網の浅薄な人知では測れぬところ。
〇サウジのジャーナリスト死亡の件、サウジ政府が認めた内容には驚き呆れるばかりである。「口論となり、殴り合いの結果死亡」、そうではあるまい、秘密国家警察の類が噛んでいるのである「口論」ではない、「殴り合い」でもない、複数の圧倒的な力で抑え込み致死させる暴力が意図的に振るわれたということである。サウジアラビアとはそういう独裁国家なのである。またご多分に漏れず例によって金力でそのような負のイメージを払拭させようとしているようだがもはや取り返しがつくまい。サウジの実態が改めて浮かび上がったという意味でもこのジャーナリストの死は無意味ではなかったと思われる。
それにしても残虐な殺し方をするものである。このようなことが常態化している「ところ」に対してはすべてを拒否する。何億年前の生物資源頼りの狂宴もそろそろ終焉を迎える時がきているが、これでその終焉を前にその先もないことが判明した。因果応報そのままである。
10/20
「口論となり、殴り合いの結果死亡」、このような「説明」はどのようなケースでももっともらしく収まってしまうから怖い。対等な状態にない者が集団で暴行を受けても成り立ってしまうのである。今後、頻繁に使われないことを願うと同時にこのような「説明」がなされた場合には要注意だということである。
さらに言えば、国際関係論的な複雑な各国の絡みを説明して、それで何かわかったような錯覚に陥っていると、問題を指摘する一つ一つの言動をすべて中和させ、何が問題であるのかも不鮮明にさせることとなる。いわんや、その国の長の発言内容などはいくつもある判断材料の一つに過ぎないので、場合によってはその材料にもならないということである。
〇自分の子供に「まともな仕事などするな、小説家か山師にでもなれ」と言った陰謀政治家がいたようだが、実際自分の子供にはどんな育て方をしているのか、つい子供の顔を見たくなるような陰謀政治家の類がやたらと多くなっているように思われる。「民」には「清く」、「正しく」、「美しい」生活を強いて自らはやりたい放題。戦時中も軍の幹部連中は内部では天皇を「天さん」などと呼んでいたのである。(そのようなテープが実際残っている。それは親しみでも、当然尊敬の念でもない)要するに、天皇をいかに利用して「民」を縛るかということだけなのである。
〇マルチタレント、聞こえはいいがその実態は器用貧乏でどれもこれも中途半端。総じて、実のところ何もない。だからいいように使われるのであろう。
〇しかし、詐欺師が大盛況である。これで納得する物分かりの良い極楽蜻蛉ばかりでは国民主権も基本的人権も平和主義も風前の灯火である。
〇どこかの神主が、神社に訪れる外国人観光客に「信仰心も持ってほしいですね」とは、神道などはどこの国にもある民族宗教の一つなのである。仏教にしても日本ではいまだに「葬式仏教」の域を出ていない状況である。大方の外国人はキリスト教、イスラム教、仏教、その他の何らかの宗教を持っているのが「普通」である。「無宗教」などというのが「一般」として通用するのは日本くらいなもので、日本と世界の宗教事情をあまりにも知らな過ぎる。
10/16
〇「舌禍」ではあるまい、それは頭の禍すなわち根本的な思考の欠陥、欲望によって歪められた思考の瓦解から起こる問題である。「舌禍「というと「本体」は別のところにあるようだが、言葉を操ることと思考回路は同体である。
10/11
〇何かというと「性善説」だの「性悪説」が出されるが、そうではあるまい、本質なものとして何か確定的なものとして「善」だの「悪」だの有無を問題にしても何の意味もないし、それで「人間」を捉え切れるものでもない。「善」にも「悪」にもいつでも傾く全的「動態」として捉えるしか捉えようがないのが「人間」でもある。
〇16歳位から「死と向き合っていた」というより常に死の想念に取りつかれていた私にしてみれば、「就活」などさほどの意味もなく、まともにそれについて考えたこともなかった。そして、今度は「終活」などというコンセプトであるが、それについても今更何を改まってという程度にしか感じられないのである。言ってみれば、私には「就活」など端から存在せず、「終活」だけが常に存在し続けたということになる。ここで言う「終活」とは「死と向き合う」という程度の意味で、世俗的葬儀云々などの意味は一切ない。さらに言えば、「死と向き合う」などと言ったところで、死を直視できない以上、それはどこまで行っても死の観念と向き合っているだけである。余命宣告を受けても、老少不定に変わりはない。ここまで言うと、さぞ暗い生活を送っていたのではないかと思われがちだが、あにはからんや、思うがままにそれなりに手応えのある人生を送ってきた。
因みに、私は以前から定期的に書き換えた遺言を残している。
10/8
翌日、「就活」が経団連主導から政府主導になるということが報じられた。その内「終活」も政府主導になるのであろう。独裁的社会主義国家を目指しているのであるから何から何まで「政府主導」ということが当然の道筋であろう。後はそれでよいのかということである。
〇どこかで「超エリート精神科医」という「コピー」を見た。これは一体どのような精神科医なのか、おそらく何の役にも立たない精神科医かマッドサイエンティストの類であろう。「精神の領域」を扱う学問で「エリート」という言葉はまったく無意味なのである。
〇20年も30年も当該〇〇協会に出入りしていた者や記者クラブなどの忖度記者がまともなことを言える訳がないであろう。適当に目をそらしながらやり続けるしか飯のタネがないのである。だからと言って、嘘、ごまかし、怠慢が許されるわけではない。彼らもまた逃げ道を躍起になって探していることであろう。しかし、「食うために仕方なかった」などという言い訳は、常に「巨悪」に油を注ぐことにつながり何の言い訳にもならないのである。「食うために仕方なかった」ということで正当化できることは何もない。そうすることで手に入れたものが、たとえ「勝ち組」のように見えても、所詮は「負け組」なのである。その証拠に自身に心底「誇れるもの」が何もないであろう。もし、そうでなければ単なるサイコパスであるということに過ぎない。サイコパスはもはや人間の境涯にはいない者ということである。
※スポーツではあるまい、「勝ち組」、「負け組」というわかったような皮相的な言葉の遣い方は大嫌いなのであるが、ここでは長くなるのでわかりやすくするために敢えて遣った。
10/7
〇大のおとなが男女関係を問われて、言うに事欠いて「一線は越えていません」とくる、おそらく一線を跨いでいるのであろう。スキャンダル好きのその筋の者の質問、聞く方も聞く方だが、「普通の一市民」にとっては、その「本来の道」できちんと仕事をしてくれればいいだけのこと。子供ができたできない、誰と誰が関係しているなどとはどうでもいいことなのである。勝手にしやがれがホンネである。
〇「テレビは見るものではない」とタモリは言う。そして、「テレビは出るものだ」とも言う。要するに、「踊るアホーに観るアホー、同じアホなら踊らにゃ損、損ー」ということのようだが単にそれだけではない。確かに、テレビなどは観るものではなく、出た方が法外なギャラもあって楽して得する簡便な手段でもあろう。しかし、それは同時に、テレビを観る者とテレビに出る者に対する痛烈な皮肉にもなっている。「観ている」つもりでいつしかほんとうのアホにならないように気を付けるべきなのであろう。
「テレビは観るものではない。出るものだ」、本来のタモリの片りんを感じさせるアフォリズムである。
2018 10/4
〇ジャニス・ジョプリンの夏であった。思わず、ジョプリンの「サマータイム」を口ずさんでしまったが、汗が噴き出す、耐え難い暑さに太刀打ちするには丁度いい曲なのであろう。外科手術中の外科医が癒し系の曲、軽やかな明るい曲ではかえって手術ができないというのと同様である。
9/30
〇樹木希林と台風、そして貴乃花問題、報道するなとは言わないが、これだけしか報道するものがないかのようであるから異様なのである。能無しの能一つといったところであろう。
〇ゲームにはまっている某青年にどこが面白いのかその内容を聞いてみると、要するに一人でする「双六(すごろく)」のようなものであった。インドで起こり中国を経て奈良時代以前に伝わった双六、ただし、「電子双六」の方は目的達成までいくつものエピソード、イベントがあって達成までどのくらいかかるかわからないらしい。その青年はすでに2年くらいかかっている。
9/27
〇日本では、火山活動、地震学、地質学上の問題も最終的には「ガイドライン」に則って三権分立も未分化な裁判所が判断するようである。原発の再稼働も「ガイドライン」に則って「破局的噴火のリスクは容認できる」として稼働を認めたということである。この調子で再稼働が続けば、今後は何があっても後はすべて自業自得ということでろう。目先の欲にかられた亡国の時代の人々がもたらした悪魔の遺産、さぞかし呪われることであろう。
広島、福島さえ忘れ、欲望に目がくらみ、突っ走る。過ちは誰にでもあるが、二度も三度も繰り返すのを愚者というが、今後は愚者というより絶滅種と言った方がいいかもしれない。
〇極個人的な意見を敢えて言わせてもらえば、「有名人」の8割は「ろくでもない人間」であると思ってる。有名人であることが何の保証にもならないのである。そうかと言って「無名な人々」がいいという訳では決してない。匿名性そのものに「悪」を呼び起こし増長させる要因がある。その実例はネット社会ですでに実証済みであろう。
〇一面記事、社会面では然もありなんと思われる内容が多い某タブロイド紙の汚点ともいえるのが「貴乃花問題」であろう。既得権益側の日本相撲協会べったりの一方的な貴乃花に対する感情過多の「批判」とも言えないお粗末な内容には毎回うんざりさせられる。書いている者も耳目を集めてナンボの相当の食わせ者であろう。当方は読み捨てるからどうでもよいが、一面と終面はピンキリということか。キリで自壊の道とは。
要するに、「公益法人」である日本相撲協会も総点検すべき時にきているということであろう。もう先がないところまできているのがわからないようでは終焉は近い。
〇「新潮45」は論外中の論外、「デイリー新潮」などもひどいものである。「炎上商法」?そんな邪道は所詮自壊するしかあるまい。一度やったらもう終わりなのである。他のマスメディアにも同様なものが多々あり、ほんとうに呆れ返ってものも言えない状態である。特に最近の大手新聞社、出版社などマスメディアの凋落は目に余るものがある。つい、みっともない恥を知れと言いたくなるが、恥知らずに言ったところで話にもならず、とにかくとことん堕ちたなという実感しかない。後はどこから金が出ているのか?それだけである。これは、金の流れを見れば一目瞭然という典型的なパターンであろう。もっとも、金の流れなどは簡単にはわからないようにしているのは言わずもがなのこと。
こんなことをしているから戦後最悪の大量殺人、「相模原障害者施設殺傷事件」などが起きるのである。この犯人はまったく反省していないどころかアベの信奉者であることを自慢していたというではないか。なぜ思考停止状態の愚者をこのように誘導してしまうのか、安直に手っ取り早く彼らの存在理由に確証を与えるような扇動的な言動を繰り返しているからである。それは幻影以外の何ものでもないが、この犯人は今だに「正義」の「殺人」だと思っているのであるから、いかに幻影が人を動かす手っ取り早い方法であるかがわかる。このように、すぐに幻影にのめり込む単細胞的人間を増やすこと、すなわち扇動的な言動に従順な「兵士」を育てるという意味では発信側にとっては実は思惑通りであろう。犯人は信奉する者に対してあまりにも一途で従順過ぎたというだけのことともいえるのである。これがいつ一般化するかわからないということも知らなくてはならない。
この犯人には「障害者」もまた「生産性のない者」なのである。
9./24
〇「仮定のことについては何も言えない」政府では「予算」も立てられないだろうし、「公約」も無意味であろう。「未来」のこと、「希望」などについてまったく語れないはずであろうが、それにしては「国作り」、「次世代に残す」などと「仮定」のことをよくしゃべる。要するに、肝心なことは何も話していないのに等しいのである。どのような極楽蜻蛉でもそれくらいは察知できるであろう。
〇前にも取り上げたが、老々介護どころか認認介護さえ余儀なくされる現状はそのまま不条理劇を観ているようである。まったくかみ合わない会話、当然発するヒステリックな奇声、罵声等々。しかし、これが国の「長」と言われる討論会ですらそうなのであるから驚きである。加計問題につて聞かれてゴルフのことが出てくると「ゴルフに偏見を持っているのではないか云々」、聞かれた質問の意味すらわかっていないのか、はぐらかすことしか考えていないのか、これである。これもまた超不条理劇としか言いようがないが、彼ら特有の薄ら笑いは追い込まれている証左でもある。このような会話そのものが成り立たない人間にいくら問いただしたところでまったく無意味であろう。「丁寧な説明」などたとえ地球が逆回転しても不可能なのである。小心者がパニック状態に近づくと放心状態の薄笑いと防御の薄笑いが自動的に喚起されるが、根本的にものを考えたこともないような人間の言動は常にステレオタイプで答えられる領域も決まっているのである。それでも言わざるをえなくなるとエンドレステープ状態になるが本人は何か対応できていると思っている。よく見ればすぐにわかることである。
〇ヘラヘラ男にヒョットコ男、そして無表情な茶坊主たちのせめぎ合い、女たちと言えば、微笑みで裂けた口を隠すのが精一杯の鬼女ばかり。話すことと言えば、胸の肉がいい、いや肩肉でなくては、背中の肉がないのは、いやいや尻の肉が最高などと 旅人が夜中に襖越しに聞けば逃げ出したくなるような話であるが、それを真昼間、骨をしゃぶりながら人目を憚ることなくやるから空恐ろしい。百鬼夜行どころか百鬼昼行の様である。自分の胸の肉を450グラム程切り取られるまでは自分のことと思えないように仕組まれているから怖い。果たして、それも運命とでも思えるのであろうか。どちらにしても根本理念を欠いた策士、詐欺師の闊歩をどこまで許すのかということに尽きる。
〇希望・希望・希望・・新しい日本を作ろう・・・と吹き鳴らされる進軍ラッパもすでに音程もズレ、奇望・危望と聞こえてくる。偏向誇大妄想狂詩曲 ラプソディ・イン・グレイの開始である。
2018 9/20
〇あらゆる領域の既得権益は更新もされず放置されると腐るだけであるという極当たり前のことがいつしか忘れ去られてしまう。既得権益の死守、そこでは真偽より損得のみが支配するから激しくなるのも当然であるが、どのように隠蔽してもいつか白日の下にさらされることになるのは浅はかな人知では計り知れない。それが可能に思えるのはやはり策に溺れる浅薄な策士だけである。政界、財界はもちろんのこと、学会、医療産業、それこそあらゆる業界の既得権益が常に問題となる。
〇しかし、「新しい日本を作る」?「具体的プラン」?「批判ばかりしていても何も解決はしない」?こんなオメデタイ誇大妄想狂に乗せられていては、やはり無残な最期しか在り様がないだろう。脳髄の根本を叩き直さないと手の施しようがない末期症状となってしまう。
〇樹木希林の訃報ばかり、本人も「もういい加減にしない」と言い出しそうである。そんな中での、石破茂と安倍晋三の討論会、新たな発見はほとんどないが、改めて問題が浮き彫りなったという意味でも再確認の意味でもこういうのはあって当然であろうと思われる。ただし、局側が両者の見解の相違を変に「まとめる」必要はない。どこにウソがあるか、真意があるかは、こちらが読み取ることである。しかし、相も変わらず、不整脈気味に発せられる表皮のような印象言葉の羅列、組み換え、これでわかるとはやはりオツム具合を疑わざるを得ないというより病的である。要するに、大方の国民のことなど全く考えていない、お為ごかしばかりで実は何も言っていないということである。それに比べると石破茂はやはり保守本流であろう。こういう保守が出てこないと、すなわち、批判に対しても真っ向から受けて立って、それをさらなる展開に結び付ける「大人の作業」はできない。我執、思い込みだけでは衰退は避けられない。どちらにしても目先の利を最優先させる者たちにとって、操るのは餓鬼の方が便利なのである、だから現状はこうなっているともいえる。しかし、操られた餓鬼の所業の結果は火を見るよりも明らかなのである。その犠牲者は99%の国民であることは忘れないことだ。一人として例外はない。
〇目先の生産性の有無だけで価値判断を完結させるような社会はやがて衰退、衰微するのが必定。そのことによって必然的に単細胞人間を量産することにもなるが、単細胞系は大なり小なりすべてが絶滅種なのである。生産性の有無だけを考え、謙虚にあらゆるものから学び取ろうとする姿勢がなくなれば、それは人類滅亡の序曲となる。軽いノリで序曲はすぐに始まり、そして、始まったらもはや手が付けられない。
9/15
〇天才とバカは紙一重、知能レベルは小学校5,6年程度といわれる者と100%一心同体というのであるから後は推して知るべしである。それにしても何から何まで阿漕、あくどい様は比類がないが、どこにでも付着するこの超軽量の「たちの悪さ」は何だろう?イメージ操作以外は何もないといってもよいその全行動、だから軽いのであろうか。会談などといっても実のところ何を話しているのかも不明で、実際何もかも一歩も先に進まず、会って写真を撮るためにだけ行ったとしか言いようのないものである。さらにはそれに税金がどのように使われているかも不明である。
「プロの嘘つき」といわれる者と息をするように嘘をつく者と波長が合うのも当然ではあるが、それもしばらくの間であろう。すでにそこかしこで引きつりを起こしている。嘘つき同士の「信頼」関係など空中楼閣以外の何ものでもない。それは100%自壊する動態でしかないということをやがて思い知らされる。
※因みに、「息をするように嘘をつく」とは私がすでに2,3年前に遣ったたとえで、昨今ではタブロイド紙などにも登場しているが、私の場合は引用する場合には必ず「」をつけるので念のため。このような紙面だけではなく以前からこのようなことが他でも多々見受けられるので一言。
9/13
〇政府発表のコメント、今まで何かまともなことを言ったことがあったのかという「印象」しかない。それこそ「信者」でない限り真に受けている者はいないであろうと思われるが、「当たり前」のことでさえミステリアスである。そのような様を見過ぎてしまったのか、猫も杓子も逃げ口上ばかり上手くなっていく。正直者だけがバカを見る世の中では困るのである。教育上においても最悪のケースばかりを提示し続けてきている。それが「憲法『改正』」を急ぐ、歴史を修正する、詐術的な空疎な言葉の羅列も切りもない、あくどい冗談も度が過ぎるというものである。その挙句に「仮定については答えられない」とくる、これは自ら無能な政治家と言っているようなものである。
〇何度も何度も言っているが、日本はとんでもない地震「大国」であるにもかかわらずその狭い国土に原発をいくつも作っているのである。政官財の「ご立派」な講釈がどれだけ「無責任」なものであったかはすでに実証済みでもあろう。さらに地球環境の乱れで台風ですら従来のコンセプトではとらえきれないものとなってきている。「平和ボケしたタカ派」といっしょになって防衛費拡大などにかまけていると内から崩壊していくことにもなる。停止中であろうが廃炉にしようが狭い国土にこれだけ原発があること自体でもうすでに「負」の結果は出ているのである。そもそも本当に日本を守る気があるなら原発など作らないだろう。さらには活発化している地殻変動、変容している台風、このような時に「防衛」を整えるなどということ自体がファルスそのものなのである。それさえ気付かないのは論外中の論外であろう。
2018 9/7