「ある日、その時」(70)3月1日ー

<掲載内容>

769.民主主義と「安定」とは相容れない 770.「固有なもの」を維持しつつ「共存」771.羽生結弦の姿に「国境がある」のか? 772.百田何某の逃げる姿に 773.「ブーメラン効果」?774.「曲学阿世の徒」とは 775.死んだ者も浮かばれまい 776.「蚊帳の外」どころか 777.またぞろ一事が万事ー日大の不祥事ー 778.飛べないコガネムシを見ていて

 

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778.飛べないコガネムシを見ていて


 飛べないコガネムシの姿がテレビに映し出されると、2008年に上演した「背中にナイフ」というピエール・ノットの作品を思い出してしまった。私の演出の舞台でもあったので細部にわたってフラッシュバックが繰り返された。飛べない羽を持ってしまった者にとって羽は背中に突き刺さるナイフのようでもある。このコガネムシも羽ばたきながら仰向けに落ちていった。最後には少しは飛べたにせよ、いっそ羽などなかった方がよかったのではないかとさえ思われる。飛べなければ歩いて行けばいいだけのこと。

                                 2018 5/31

 


777.またぞろ一事が万事ー日大の不祥事ー


 日大アメフトの不祥事、これはスポーツの単なる反則行為で済む問題ではない。これはスポーツマン失格、それがわからないのであれば人間失格である。それも大学という教育の場でもあるところでこのようなことが平然と行われているのであれば絶対に許されることではない。日大アメフト、監督の汚名はもはや払しょくすることはできない。こんなところでも「トカゲのしっぽ切り」と言われてしまう行為が当たり前のように行われているのである。これで現政権の「体質」を連想し、重ね合わせてしまった者も多いことであろう。「上」から「下」までどこを切っても金太郎飴である。「許されざる行為」を黙認していても、やがてその結果は否応なく現出してくる。その時にはすべては遅すぎるのである。現在でも議員失格、人間失格という者たちがのうのうと血税をむしり取り、さらに自分たちに都合のいいように法律を作り、憲法にまで手を出そうとしているということである。断ち切って終わらせなくてはならない要因は枚挙にいとまがないという現実だけは否定しようもないということである。

                               2018 5/18

 後日、日大アメフト監督・内田何某が辞任。「トカゲのしっぽ切り」も大中小があるのであろう。ようやく謝罪したというが、それも選手にけがをさせたということについてだけで自らの指示については認めていない。「壊してこい」、「殺しても云々」についてなどの監督の指示内容についてはまったく説明はなされていない。監督として、教育者としても話にならないだけではないが、このような人間失格者に導かれて優勝などしてもすべてにおいて人生最大の汚点となるだけであろう。しかし、女子レスリングの志學館にしても、この日大アメフトにしても基本的なところで大学としての範疇を逸脱している。大学などとはおこがましいのである。また内田の言うことが「真摯に受け止めて云々」、どこかで聞いたことがあるような紋切り型のセリフである。その内に「その点については記憶が定かでない」とでも言い出しそうであった。

 関係者も想定外であったであろう選手自身の単独会見で、「加害者」の選手は謝罪し、潔く真相を語った。覚悟の上であることは読み取れた。これだけの人間であればアメフトなどに関わっている必要など微塵もない。それにしても監督、コーチなどはスポーツをやる資格がないどころか人間として否定されて当然であろう。事の重大さが当初よりまったくわかっていない様子である。彼らの言動からは、戦時中「生き恥をさらすな、死んで来い、殺してこい」と国民や兵士を盛んに煽っておいて自らは生き延びた「指導者たち」を彷彿とさせる。何の反省もなく、まったく展開の余地のない者たちがいまだにこのようなことを繰り返していること自体が罪悪なのである。この際、被害者は大学に対して刑事訴訟をすべきであろう。そうでなければまた繰り返される。それから、今回の不祥事とは関係ない者たちが「風評被害」などと言っているが、そんな陳腐な言葉を遣って逃げることも虚しく恥知らずと知るべし。これはこの大学全体の問題でもある。現に、この監督は監督は辞めても大学の幹部職は辞めていないではないか。コーチは?選手は?コーチなども同罪であろう。こんなところでは良いものを持っていてもボロボロにされるだけである。日大などにもともと社会的信用などあったかどうかは知らぬが間違いなく信用は加速度的に失墜するだろう。

                                   5/22 

 案の定、ようやく出てきた監督、コーチの会見たるや国会の答弁と同様、それ自体監督、コーチの無能さの証明にしかならず、ほんとうに「事の重大さ」に気付いていないようだ。それにしてもよくこんな者たちが今まで指導的位置にいられたものである。「膿そのもである」者たちが「膿」を他人事のように転嫁して言う「カラクリ」はどこをとっても同質である。潔く真相を語った選手以外は人間としての質が問われる。

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 アベ、アベ友しかり、いつからこれほどまでに日本人は恥知らずになったのか。この「日大アメフト事件」もその一角の象徴的事件であるが、これはエコノミックアニマルが生み落としたものから必然的に生成されたものということに過ぎないのか。これは単なる「精神論」、「悪しき精神論」などでさえない。むしろ精神的レベルが基準値以下に退行した結果の単なる我執、妄執の類、愚鈍な亡者の常套と言ってもよい。このような凡夫たちの自分だけは何としても「勝ち組」に入りたいと思う「気持ち」が大中小の独裁者を生むことにもなる。すべては一事が万事で、謝罪、辞任で済みことでもない。日大も廃部どころか廃校が似つかわしいだろう。

 


776.「蚊帳の外」どころか


 実際、日本は世界の趨勢の「蚊帳の外」どころか家の外の路傍に放置されているといってもよいであろう。その状態について、まだわかっていないのかブラッフなのか、政権担当者はそのようなことはないと主張しているが、この政権の「主観」的主張など聞くまでもないこと、むしろ空疎すぎて罪悪なのである。わざわざ日本の政権担当者やその周辺が語るまでもなく、今や世界の動きそのものが日本の位置づけとその実情を雄弁に物語っている。愚行の果ての因果応報と言ってしまえば身もふたもないが、それが実情で路傍に放置された姿は語るも因果、見るも因果といったところである。さらには陳腐な常套手段の内憂から目をそらす外患のもっともらしい論調なども総じて幼稚、稚拙すぎてとてもお話にならない。もしこれで納得できるのであれば余程の能天気か自らの思考自体の幼児性に気付いていない者なのであろう。

                                   2018 4/27

 


775.死んだ者も浮かばれまい


 「私の記憶の限りございません」、「それについてはコメントできません」、これは巷間の凡夫の犯罪の取調室での問答ではない。国会で、過分の権限を持った者の「言い訳」、それで済むのか?済むはずはあるまい。逃げ切れると思っているのならどこまでも追い詰めるべきである。一事が万事で、ここで追及の手を休めてはこの手のことがさらに横行するだけである。偉そうに「大義」を振りかざすのなら根本的に自らの処し方が違うであろう。今でも、「李下に冠を正さず」などとしたり顔で言っている者がいるがそこにある欺瞞と確信犯的なものは払しょくできない。「ゲスの勘ぐり」に至っては、もはや論外でどこを見ているかと言いたくもなる。

 何か事が起きても、肝心なことについては「私の記憶の限りそのようなことはありません」、「それについてはコメントできません」では、それによって死なざるを得なかったような者たちは浮かばれまい。彼らの死も、生すらも抹殺されているのである。彼らは存在しなかったことになるのである。

                                  2018 4/11

 


774.「曲学阿世の徒」とは


 一般的な言葉の意味としては、真理を曲げた不正な学問をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとする者ということになるが、現状では、彼らの言説の骨子は、権力者や世俗に迎合するような内容を都合よく張り合わせ合成したようなコピペと同様で、たとえそれが一見学問的な体裁はとっていてもそれは飽くまで体裁で、言いたいことのすべては権力者、世俗迎合に感情的に集約されている。すなわち、「曲学阿世の徒」とは、世俗、権力者に媚びる者の総称ともいえる。またそのためにはいかなることも辞さない者たちのことでもある。したがって、それは飽くまでも政権擁護の徒であって、政権批判をする者たちに対して「曲学阿世」などというのは、的外れどころか根本的に言葉の遣い方を間違えているのである。これも自ずと「お里が知れる」という類であろうか。

                               2018 4/8


773.「ブーメラン効果」?


 一頃やたらとつかわれた言葉でもあるが、新しいコンセプトなど何もない。実際の在り様を敷衍化、細分化すること自体にはやぶさかではないが、さほどのことでもない場合が多い。「ブーメラン効果」なども要するに、「因果応報」、「自業自得」の水増し、言い換えに過ぎないということである。何かあるようなないような実質的には言葉の軽量化、すなわちオツムの軽便化以外何のあたらしさもなく変わるところもない。これで何か斬新なことを言っているつもりになっているとしたら相当オメデタイと言わざるを得ない。

 同様に、最近やたらと簡略系のカタカナ言語が多いのも気になるところである。これで何か言い当ててわかったつもりになっているということ自体が単細胞化の道筋にはまっているのである。それはあえて自分自身を貧相なものに仕立て上げてしまう「仕掛け」にはまるということでもある。

                                         2018 4/4


772.百田何某の逃げる姿に


 百田何某の逃げる姿が新書の表紙になっていた。「逃げる力」とかいう題であったと思う。百田何某にぴったりでもあり現在の政情、世情とも重なり合う。いざとなれば「逃げる」、これである。その姿にすべては表れている。すなわち言いたい放題、やりたい放題、やったもの勝ち、後は野となれ山となれ、責任など取るなど愚の骨頂とでも思っているのであろう。素早く世の趨勢に媚びて、やばくなれば手のひら返しでとんずらである。その逃げる姿は力でみなぎっている。真偽は知らぬがこれが売れているいるというからやはりまともではない。

 しかし、現状は居座り続けながら「逃げ回る」者たち、すなわち、いかに責任回避をするか、その技に長けた者たちがうごめいているがそれも限度があり、やがて何らかの形で「出て」くるだろう。

                              2018 4/1


771.羽生結弦の姿に「国境があるのか」?


 次から次へと尋常の神経では考えられない「議員」とその取り巻きが登場してくるものである。このような者たちが今の今まで暗躍していたであろうことは容易に察知できる。最近の文科省に圧力をかけていたという御仁についても、蓋を開ければやはり案の定、というよりその筋しか他にないのである。それは、見方を変えれば権力の中枢に対する「取り入り方」の常套手段でもあろう。この御仁は以前にも「ちびまる子ちゃん」(映画)のポスターの「友達に国境はない」という文言にクレームをつけたということがあったというがそれだけではあるまい。この政権の中で、こういう御仁が文部科学大臣政務官、参議院文教科学委員長で教育、文化行政を担ってるのであるから日本の民度の低下が加速するのは当然である。

 羽生結弦の姿にも「国境を設ける」ようなことを言い出しかねない感性の持ち主は、この赤池何某くらいなものであろうが、この御仁を任命している者、選んでいる者も同様である。要するに、感性そのものの劣化、すなわち知性の欠如が一般化してるのである。やっているレベルが低すぎる、実のところ何もわかっていないのである。教育、文化を担う者がこの程度ではすべてはさもありなんというところである。

 

                                 2018 3/25


770.「固有なもの」を維持しつつ「共存」


 「固有なもの」を維持しつつ「共存」するしか人類の進むべき道はあるまい。もはや「帝国主義的」な世界観はいかなる形態を取ろうとも頓挫するしか道はなく、終焉を迎えているのである。「アメリカファースト」などにも表れているように、それは世界の中心たろうとした国の「中心の位置」が不鮮明になりつつ、ズレ始めているということの証左に過ぎない。中国、ロシアなどの最近の「自己主張、喧伝」なども同様である。潜在する、あるいは顕在化している「大きなうねり」、言ってみれば「世界秩序」に逆行する「指導者」はどれほどの大義を唱えても、たとえ亡者であったにしてもその「エネルギー」を備蓄、増殖させることは不可能であろう。要するに、世界のダイナミックな発展過程から乖離しざるを得ないのである。今、「吠えている」帝国主義的な世界観から脱却できない「指導者」の足元は例外なく底なし沼である。すなわち、どのようにもがいても「徐々に」沈み行くしかないということである。今までのあらゆるコンセプト(概念)を極限まで集積させてもそれは防ぎようがないだろう。ここでまた、過去への回帰という正当化と美化しかもたらさない安易な方策に傾くことは二重に逆行することにもなる。自ら進んでスタート地点から逆走、迷走するようなものである。

                                  2018 3/11


769.民主主義と「安定」とは相容れない 


 民主主義は「放置」、「放任」すればすぐに「全体主義」に傾く。何かというと「安定」という言葉をあたかも「正義」のごとく使っていることがあるが、その根幹にある意識構造がやはり不安定要素が「ない」ことを是とする「ねじれ」の「ない」「独裁国家」志向に根差していると思われる。それは易きに付く、最も安易な道筋である。甘言はもちろん、一見当たり障りのない言葉にもひとつひとつ検証が必要になっている時代なのであろう。いつとはなしにある方向しか見えなくなっているというのはやはり極めて危険な状態である。以前からそのような傾向はあったが、今さらにそれが強くなっている。民主主義をほんとうに育てる気があるなら「安定」「不安定」は問わず、「ねじれ」もいとわないくらいの気概が国民の側になくてはなるまい。今頃になって「アベ一強」云々ではあまりにもお粗末、未成熟過ぎる。

 世界的に見れば、国民国家の主権の推移、主権が新たな形態を取りつつあるともいえる現状は過渡期特有のカオスも必然的に現れるであろう。

                               2018 3/8

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