<掲載内容>
755.今、ジョルジュ・ビゴーが日本にいたら 756.アホでも言う「考えるより感じろ」<20171002> 757.日本はバランス感覚を欠いたら万事休す 758.「一億総評論家」という風潮?759.歴史教科書から言葉が削除されている? 760.正直者はバカと見なすお国柄 761.日本を自画自賛する番組?762.現状は「完璧な」衆愚政治
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762.現状は「完璧な」衆愚政治
衆愚政治とは、今も昔も民主政治の堕落形態であることに変わりはないが、これほど「見事な」民主政治の堕落形態すなわち衆愚政治を目の当たりにすることはかつてなかった。要するに、大衆の大多数がアホであるなら、そのアホが選んだ者たちがアホであることなど敢えて言うまでもないことなのである。そのアホの一人がその気になって、さらにその土壌が整えば独走態勢から独裁政治に移行するのは当然の帰結である。しかし、その独走・独裁政治に歯止めをかけるのもまた「本来の」民主政治という形態より他にありようがないということも「難点」である。そして、何より「やばい事」は衆愚政治のど真ん中にいるという認識すらないことである。それは、健全に堕落一般を堕落しているようなもので却って質が悪い。それは自らの首に縄をかけられている者が笑み周囲にまき散らしながら自らの手でその縄を引くようなものであるが、本人は決してそうは思っていない。良し悪しの判断、思考の埒外に置かれた「もの」、「こと」によって突き進まされているだけと言ってもよいだろう。
民主政治は、いともたやすく「アホのアホによるアホのための政治」となることを肝に銘じるべきなのである。アホは常に目先の利害に絡んだ「思い込み」ばかりで、論理的思考展開が不能、世界の終焉がどのような形をとるかさえ思い至らない者たちのことでもある。
近未来のことさえ「仮定」については「申し上げられない」のなら政治に関わるのは辞めるべきである。それは無能の証にしかならないからである。しかし、その「仮定」の下に「再稼働」、「再軍備化」の方は着々と進めているではないか。
2017 1216
761.日本を自画自賛する番組?
何についてもそうだが、自画自賛するようになってはもう末期症状で、発展の可能性はない。最近やたらと「日本の素晴らしいところ」などを諸外国人の目を通して語るというスタイルや「再発見」という形で取り上げている番組が多いが、内容的にも皮相的な日本文化の紹介と言うより衰退の一途をたどっているものの自画自賛、糊塗するような面ばかりが浮き上がってくるのである。この違和感、不快感は当然のことで、むしろ異常でさえある。それは負の面ばかりが際立つ政権にそのマイナス面を払拭、相殺させるために補完的に使われているようにしか見えないからでもある。この「オカシサ」を感じないのであれば、センサーもかなりやられているということであろう。なぜこのような傾向が危ういのか、己の「良きところ」、「悪しきところ」を明確に把握できない者に先はないからである。わかりやすく言えば、大した根拠も、知識もなく、日本文化についても浅薄な「日本人」という「黄色人種」が「自分はすごい、すごい」と思い込もうとしているだけということになる。これでは手もなく足を取られ陥穽入りである。つまり、自ら蒙昧の中で将来を閉ざしているということになる。つい、「あなた」と日本の歴史も文化、風土も、国土さえも関係ありませんと言いたくなるのである。
2017 12/12
760.正直者はバカと見なすお国柄
「立法府の長」という行政の長が、仕切る政権に常に顔色を窺う司法が付属する三権「融合」の政治形態、はじめから説明責任などするつもりもない。この人間の言動、存在そのものが憲法を蹂躙しているのである。実質的に国民から政治的自由を奪い去り、権力に対する盲従、隷従が「平凡な幸福」の規範のような「錯覚」に陥らせる陳腐な手法に国民の方も徐々に丸め込まれているようである。言うまでもなくそれに全面的に加担しているのが「大手大衆メディア」である。日々流されている一見無味無臭の有害無益の内容をまともに受けていれば、すでに彼らの手中という具合にすべては「調合」されているのである。そんなこととはお構いなしに日々起こる事象に「素直に」、「正直に」反応する者は「空気を読めない」「バカ」と見なされる風潮をごく自然にいかに作るかが彼らの最大の眼目と言ってもよいであろう。「空気を読める者」とは実は思考に発展性がない、独創性がないことの証左でもある。正直者、素直な者も含めて、問い続ける者たちの減少、衰退はそのまますべての衰退の兆候と証にもなり得る。どちらにしても「上」から「下」まで詐欺師ばかりでは話にはなるまい。そして、そのほとんどは「強者」が「弱者」を騙すのであってその逆の方向はほとんどないというのが現実である。
見るも無残に汚されていく三権、これほどまでに汚辱に満ちた三権を露骨に「目の当たり」にするとは思わなかった。これは日々の現状がすべてを語っている。馬鹿笑いをしている内に首が落ちないことを願う
2017 12/6
759.歴史教科書から言葉が削除されている?
一言でいえば、愚かである。言葉の削除とは思考の削除でもある。要は、将来「有望な」四の五の言わない下層労働者と兵隊には知識は無用ということであろう。歴史教科書から言葉が削除されて、覚えることが少なくなったと喜んでいる層はたとえ削除されなくてももともと大して変わりはないレベルの者たちであることも確かである。漢字もろくに読めない閣僚がふんぞり返っている「お国」である。後は推して知るべしであろう。何かと言えば、飽きもせず「朝日新聞」と「リベラル派」の陳腐な揶揄、これはまったく発展性のない自らの立ち位置をご丁寧に自己暴露しているだけなのである。言葉の削除、言い換え、やればやるほどその「闇」の形状、実態が明るみに出されることとなる。彼らごときの頭脳でそのすべてを隠ぺいできると思うことの方がオメデタイ。実際、その隠ぺい、小細工の仕方などを見ていると、国民に慧眼がそなわることをいかに恐れているかという「証」を見せつけられるだけである。戦時中を思わさるような「情報の遮断」と言う点でもそうである。目指すは神がかった黒き北朝鮮なのかとしか思えぬのである。彼らの一皮むけば薄気味の悪い「人間的」微笑みにいつまでも騙されていると「肉屋を恋しがるブタ」になりかねない。監視するのは我々であることを忘れるといつでもそのようなブタになっていまうということである。
2017 11/25
758.「一億総評論家」という風潮?
もう名前も出したくない芸人タレント監督のTが「一億総評論家」という風潮があるのは困ったものだというようなことをどこかで言っていたが、とてもそうは思えない。むしろ「一億総白痴化」の拡大細分化であろう。仮にほんとうの意味で「一億総評論家」であったならもう少しましな状態が現出していてもいいはずである。テレビなどの「一億総白痴化」の流れが意識するしないにかかわらず批判精神そのものを衰微させていったことの方が大きいと思われる。またそう考える方が現状の様々な問題をみてもわかりやすいのである。しかし、今まで一億総白痴化路線で食ってきた者が、テレビ離れ、衰退で製作費も削られ、その挙句に不評続きで思うようにいかなると、開き直って視聴者に向かって「それなら、お前がやってみろ」などと言うのは、追い詰められて身動きつかなくなると「対案を出せ」というオワコン政党とどこか重なる。今更、テレビなどという「泥船」に乘ろうなどと思う者は余程の酔狂な者か、自己制御の効かない顕示欲を持ち合わせている「さびしい」者なのであろう。Tに限らず、いつまでも「引っ張らずに」早く退場しなさいよと思わせる者たちが多すぎるというところか。
少し見まわしただけでも、「上」から「下」まで去り際を知らぬ、身の程知らず者たちであふれているではないか。要するに、みっともないの一言なのである。個的には欲で引き際を見誤る悲喜劇、社会構造的には、既得権益側のあがきと醜態が露呈され続けているだけである。
2017 11/15
757.日本はバランス感覚を欠いたら万事休す
地球儀を持ち出してくるまでもなく、相当のアホでない限り日本がバランス感覚を欠いたらどうなるかすぐに想像できることである。常に綱渡りを強いられる国でもある。地下資源といえばマグマくらいしかない、いつ地震、津波が起こるかもわからず、ほぼ定期的に台風のやってくる海上に浮かぶ細長い小さな「美しい」島国なのである。その島国で誇大妄想としか思えない狂信的な精神論で世界を俯瞰するようなことを青筋立てて訴えてみたところで土台は無理筋なのである。虎の威を借りて蟷螂がその気になってその斧を使えば踏み潰されるのは蟷螂だけである。現にやっていることは「トランペット」が音程の外れたトランペットで不協和音を奏でることくらいであろう。
ところで、「トランペット」はトランプの運転手もやっているようだ。ハンドスピーカーを持ったトランプに90ホン位の大きさで「ハゲー!違うだろ!」、「お前と俺との仲はその程度か!」、「俺はパールハーバーを忘れていないぞ!」などとでも言われているのか。彼らの「密約」など敢えて聞くまでもない程、明々白々なこと。異例中の異例である者「たち」の間もなく訪れるであろう終幕が「楽しみ」である。
※「トランペット」とはトランプのペットと言う意味で遣われていた言葉である。「トランプの運転手」というのは米誌の風刺漫画より。この点については、755「ジョルジュ・ビゴー」でも取り上げたが、このような風刺画が日本では皆無となってしまった。これは何を意味するのか、わかり切ったことである。何気ない批判精神の喪失、これはあらゆる領域での衰微と堕落を意味する。
2017 11/5
<20171002>
トランプ札は切りもなく、トラペットは吹くばかり、二階の犬はくぐもるだけで足摺岬、地下のひょっとこ金勘定で踊り出し、ひょいと目をやりゃ、菅の間に番犬数匹身を潜め
756.アホでも言う「考えるより感じろ」
街を歩いていたら、男二人の会話が耳に入ってきた。「ブルースリーが言っていたけれど『考えるより感じろ』って、やっぱりほんとうだぜ」・・・。何もブルースリーを出さずとも誰でもよく言うセリフである。しかしである、「考えるより感じろ」とは誰でも何となくわかったようにさせるが、感性とは知性によってもその質はかなり違ってくるのである。因みに、ブルースリーはワシントン大学の哲学科に進んでいるが、同じ言葉でもある程度のことを踏まえた者が言うのとそうでないのとは雲泥の差があるものである。考える機会もあまりないと言うより考ようともしない、考えるということがどういうことなのかもわからない者が「考えるより感じろ」などと言ったところで「底」はスカスカなのである。それはその人間の「文脈」でわかることである。これもその気になってアホが使っていると失笑を買う言葉である。手垢が付きすぎて新鮮味も、インパクトもない言葉と言ってもよいであろう。
今はむしろ、感情的に受け取り、流されることを警戒いなければならない時である。「感じることより考えろ」というのが現在の実情でもある。
2017 10/21
追記:「考えるより感じろ」などとわかったようなことを言っているから「印象操作」に手もなく引っかかるのである。思考的にも打ち鍛えられていないものが使うべきではない。
755.今、ジョルジュ・ビゴーが日本にいたら
今の日本にジョルジュ・ビゴーが時を超えて舞い戻ってきたら、さぞかし面白い風刺漫画を描くのではないかと思っている。私の想像図と照合してみたいものである。現在、風刺漫画もほんの一部の紙面で辛うじて息づいているようだが虫の息である。恐ろしいほどの批判精神の衰退の一面を物語っている。さすがにジョルジュ・ビゴーに匹敵する風刺漫画となると皆無に近いが、それでも以前は俗に大手と言われる新聞も含めてどの紙面もそれなりの風刺漫画があったものであるが、今はまったく見なくなった。それに呼応するかのように内容も平坦というより、むしろ凹んでしまってどこの町内会の回覧板かと思わせるほどである。くだくだともっともらしく紙面を埋めてはいるが、肝心なところで正鵠を得たものなど全くない。やはり金主は「お国」なのであろう。その「お国」を動かしているのが「国を守る」「責任」などと一番欠如しているものを連呼はするが、とても「右翼」とも呼べない「国粋主義者」でもない単なる「ならず者」としかいいようのない者たちでは衰退するしかないのである。彼らは右翼流(筋の通った正統派右翼)に言えば「ほんとうに日本人か」と聞きたくなるほど「保守」でも「右翼」でもない。単なる場当たり的な人気取りポーズの「得票マシーン」で、当然内容も空疎で、たとえ内容があったにしても虚言に満ちている。だから決して「ポピュリズム」でさえないので、西部邁流に言えば、それは大衆迎合主義ではなく単なる軽薄な人気取りの「ポピュラリズム」ということになるのである。詰まる所、私利私欲以外に何もない者たちということになる。要するに、彼らにとっては政治が「最終ビジネス」という位置付けなのである。したがって、選挙ともなれば口先から日ごろ考えたこともないような言葉が出るは出るは、その顔色は人を喜ばせるためにやわらぎ、こびへつらいは底なしということになる。しかし、そこには倫理も倫理性も微塵もない。むしろ、ないからできることでもあろう。
金主の割れた浮ついたマスコミ用語に振り回されるのではなく、ここは本当の意味で思案のしどころであろう。
2017 10/16