「ある日、その時」(67)9月10日ー

<掲載内容>

737.またぞろ「人づくり改革」とは  738.やはり「儲け話」と「ただ」ほど危ないものはない 739.「一院制」云々で知れる本体、本性 740.「O157騒動」で 741.国辱的な「保守」742.アベ・シンドローム(Abe syndrome) 743.「憲法改正」という遣い方は不適切 744.「国家神道」を奉ずる者たちとは

 

 

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744.「国家神道」を奉ずる者たちとは


 わかりきったことを改めて言うことになるが、「国家神道」を奉ずる者たち、すなわち俗に「右翼」あるは「国粋主義者」などという美称で呼ばれる者の集団と民主主義とは完全に相反するものである。アメリカの若き研究者の指摘通り、「古代ローマ帝国の皇帝崇拝と日本の国家神道とは驚くほど似ている」のである。すなわち、国家神道に寄り添う者たちとは民主主義とはまったく逆方向で、上からの権力を振るうことによって強制的に統治する「帝国」を志向しているのである。現政権とその周辺はすべてこの「帝国」を志向している者たちである。選挙の時だけの「泣き」と「笑顔」と「ハイタッチ」、さらには日本酒などに騙されていたら後は何をされるかわからないのである。

 場合によっては、今度の選挙が民主主義下で行われる最後の選挙ともなりかねないところがある。それほど巧妙に仕掛けられた罠が至る所にあり、民主主義を装った反民主主義、非民主主義的な国家神道を奉ずる者たち、あるいはそれを装う者たちに牛耳られる可能性が大きいということである。要は、目先の目くらましに惑わされずに、「民権主義」とは真逆の「国権主義」を許すか許さないかの選挙であることを忘れないことである。

                                2017 10/12


743.「憲法改正」という遣い方は不適切


 「憲法改正」ではなく、「憲法改変」である。憲法改変についての是か非かまず問題なのであって、「改正」では変えること自体がすでに是という前提に立った話である。世の中が変わったから憲法も変えるなどとはとんでもないことである。そのことについては以前にもこのサイトで取り上げたが、簡潔に言えばすべては米国の都合に合わせてということなのである。何かというと米国に押し付けられた憲法だからとバカの一つ覚えのように繰り返すが、またぞろ米国の都合で変えさせられているだけなのである。恥を知れと言いたくなるような米国に対する媚びへつらいようはもはや「同盟国」などと言う範疇にない。こんな人間が世界中で恥の上塗りをしているかと思うと同国人としても恥ずかしい限りである。憲法とは、国の根本法であり、社会情勢が変化したからなどと簡単に手を加えられるものではない。そんなことは法律でいくらでも調整できることである。これは完全な確信犯である。こんな者たちが「日本を守る」とは、おぞましく、寒気立つ思いがする。

マスメディアもよくこんな言葉を平然といつまでも垂れ流していられるものだと思うが、その程度のことなのである。低劣である。

                               2017 10/8


742.アベ・シンドローム(Abe syndrome)


研究者にとっては格好の研究材料でもあろう。次から次へと生々しくも提供されるさまざまな病的傾向、そして、それが形作られた遺伝的、生物学的一般的感情傾向そのもの歪みと変異・・・この狂気そのもののとも言える「軽さ」が本人の感情のすべてに行き渡っている。そうかと言って、決してこの「軽さ」で自らの死に至ることはないという狂気の変種ともいうべきもの・・・この異様な反知性的「軽さ」こそ、変種のマキアヴェリズム派生体、日本的権謀術数の変種とも言えるものである。宗教が最終ビジネスと言った男と、政治が最終ビジネスと考えている者たちとは同一でこのシンドロームに入る。わかりやすく例えれば、戦後70年形骸化され続けてきた民主主義の中で限界点を超えて衰微する資本主義の陰りの下でいつの間にか育っていた毒キノコのようなものである。これは保守政権などではない。それ程限定的でもないので限定的に捉えているとポイントがズレる。したがって、このシンドロームの圏内にいる者の政策論争も公約もすべて無意味というより騙すための方便と見た方が賢明であろう。サイコパスの集団が増殖を繰り返すうちに作り出してしまった「もの」を見てもこのシンドロームの伝播力、感染力は強い。しかし、増殖率が高いとはいっても所詮は毒キノコで、食べるわけにはいかないので消去するしかないのである。

 「保守」を単に「現状維持をすること」などと考えているととんでもないことになる。維持するだけでも補修、点検は常に必要不可欠なのであるが、そんなことはお構いなしにあるかないか不明な「人間的なつながり」、「土下座」程度で2選3選させているからこのような事態になるのである。西部邁も言うように「伝統とは、その国の歴史が残してきた慣習そのものではなく、その中に内包されている平衡感覚のことを意味している」、その「伝統」から大きく逸脱していれば改革を断行するのが保守なのである。保守が保守にもなっていない国、現状維持どころか、伝統さえもおろそかにする者たちには即刻退場してもらうしかあるまい。                               

                                      2017 10/5


741.国辱的な「保守」


 私は学生の頃から、能、狂言をよく観に行っていた。仏教、神道についても、特に仏教については学んだという以上のものを私の中に残している。そして、その当時傍らには言うに言われぬものに突き動かされるように読んだ海外の書籍、たとえばキルケゴール、カント、ヘーゲル、マルクス、フッサール、メルロ・ポンティ、サルトルなどの書籍もあった。母の影響もあって、華道、茶道の心得もいつの間にか身についていたので、その後思わぬところでその影響を再発見することもあった。それはそのまま今は亡き母の思いにもつながっている。日本の文化の質についても肌で感じることが多く、愛すべきものと感じている私が日本の「保守」といわれるものに共感することがないのはなぜか。特に現政権のような者たちが「保守」と称することには違和感以上のものを感じるのである。どうみても文化もへったくれもないような者たち、それが権力に群がる者たちの常道などと言って済まされる領域をはるかに逸脱している。単なる亡者といってもいいような者が「日本の伝統文化を守る」、「美しい日本」云々、などとくると、つい虫唾が走るのである。「保守」という従来のコンセプトはもはやまったく意味をなさない。むしろ今は、実質的に日本文化、国土の破壊者といってもいいような者たちが保守と言われているのである。さらにやっていることは日本の品位を落とすことしかやっていない。それでも「保守」と言うのなら、名を返上した方がよい。この体たらくであるから、少しでも思慮があれば「保守的」位置にいる者も「保守」擁護の見解から外れざるを得ないのであろう。実情は明確な「保守」も「革新」「リベラル」もいないと言った方が適切である。詐術のレトリックだけで作り出されたようなボケたような状況を明確にするいい機会である。

                               2017 10/1


740.「O157騒動」で


 食料品関係でこのような騒動を起こしたらまず廃業であろう。しかし、、今回の調査でもそうだが、かなり細かく調べたにもかかわらず感染経路が不明ということである。しかし昆虫類、ハエなどのことはまったく考えられていないようだ。店は自動ドア、食品はただ大皿に盛られて並べられているだけというのがほとんどであろう。お客の出入りでハエなどは簡単に入り込んでくる。ハエ一匹で簡単に店などはつぶれるのである。実際、私はそのような状態になった店を身近で見たことがる。近郊ともなれば家畜小屋もあろう、そのようなところから飛んできたハエであればO157などは簡単にばらまかれるのである。トングばかりに注意がいっているようではお話にならないが、これもまた一事が万事。それに推理力、想像力の欠如が加われば、ピンボケのままただただ右往左往するばかりであろう。

 因みに、私は棚にそのまま並べてある食料品(パン、惣菜類)を買うことはめったにない。

                                2017  9/19


739.「一院制」云々で知れる本性、本体


 2009年、小泉純一郎が「一院制」を取り上げたが、そこには安倍晋三も森喜朗いた。これは憲法上の問題(憲法43条)にもなることである。そのようなこととは別にスピーディーな「解決」、議員の削減などが全面に出て、利点ばかり強調され喧伝されていたが極めて危ういことである。独裁的色彩が強くなればスピーディーになるのは当然であるが、それでは民主政治とは遠ざかるばかりである。一頃、小泉などに乗せられたマスメディアがやたらと「ねじれ国会」などという文言を遣っていたが、どこの独裁国家かと思われたものである。「ねじれる」ことも、「時間のかかる」ことも覚悟しなくてはならないのが民主政治でもある。現状を見れば、「一院制」などにすればどうなるか、火を見るより明らかであろう。そんなことは中学生でもわかることである。

 どちらにしても、今また「一院制」などを持ち出してくる者たちは危険である。調べればすぐにそのバックは判明する。

                             2017 9/16


738.やはり「儲け話」と「ただ」ほど危ないものはない


 儲け話、すなわち「経済最優先」の結果がこれである。そして大学無料化、「ただ」にして何をどのように指導しようというのか、すぐに役立つ目先の実利重視の企業と一体化した産学共同路線の低レベル教育によるヒューマノイドの大量生産であろう。これでは文化もへったくれもない。そうでなくとも文化レベルは落ちる一方なのである。時間ばかりかかる一見無駄に見えているものが実は燃え尽きることのない底力を養うのである。小手先だけの目先の技術を磨くだけでは先細りになることは目に見えている。企業戦士などの美名でその気にさせ、さんざんこき使った挙句に今度は燃え尽きる前に兵隊として駆り出し文字通り燃焼させるのである。彼らの言ってる着飾った「もっともらしいこと」のすべては、国民のためではないことを前提にして考えないと取り返しのつかないことになる。

 今やっていることは、どれもこれも国を滅ぼす方向にしか向いていない。それがわからないようでは話にならないのである。そして、それを止めることができる者がいないのであれば、「他に適当な人がいない」のであれば、この国の滅亡はやはり必然の成り行きなのであろうと思っている。そのことで私は悲観も楽観もしていない。在るように在るだけである。そもそも現在は、自分だけ助かりたいと思うこと自体が不可能であると同時に無意味なのである。

                             2017 9/15


737.またぞろ「人づくり改革」とは


  よくもまあ次から次へと悪びれもせず何かありそうな見せかけだけの大言印象操作、詐欺師のレトリックそのままである。実際、何一つ「中身」のあった例がないが、執拗に繰り返すことで何かやっているように見せかける。これもまた、大衆は小さなウソには敏感だが大きなウソに簡単に引っかかるというヒットラーに倣ってのことなのであろう。よくヒットラーを持ち出す失言大臣もさることながら、ヒットラー語録を片手に政を行っているような、歴史に何一つ学ぶことをしない彼らとはやはり一線を画す必要がある。同じ過ちを何度でも繰り返すからである。

 「小さなウソ」ということでは、最近のつまらないスキャンダルに目くじら立てて騒ぎ、煽るマスメディア、そしてそれに乘る柄にもない者たち、肝心の問題はどこへやらである。政治家などが聖人君子であるはずもなく、叩けば埃の一つや二つ出てくる取りあえずの大衆の代表であるということに過ぎない。だからこそ身ぎれいにしておく覚悟が必要であるが、要はどのようなことを国民ためになしたかがすべてで、プライベートなことをいちいち取り上げて問題にすることでもない。「人生いろいろ」、「あんたもそうでしょう」それで終わりなのである。個人的問題について「説明責任」云々、いい加減にしなさいよ、大衆の手なぐさみのような芸能人でもあるまい、そんなものは聞きたくもない。それよりもっと重大な問題の説明責任の方を追及すべきであろう。今現在まで、肝心なものの説明責任は何一つなされていないのである。

 ここにきて内閣支持率が上昇したと大手メディアグループが騒いでいるが、何のことはない北朝鮮の影響である。支持率変動と北朝鮮のミサイルは密接な関係があることは今では周知の事実でもある。北朝鮮が「がんばる」ほどアメリカは日韓に武器も売れるし、言うことはあるまい。日本の防衛費の膨張に文句を言う者もいなくなる。そのことについて下手に抗議すれば「非国民」扱いという構図をつくりだすのが狙いであるが、すでに出来上がりつつある。何だかんだともっともらしいことを言ってみても利するのは「軍産複合体」とその関係筋の「パシリ」だけなのである。国民などは徹頭徹尾その「だし」以外の何ものでもないが、「人づくり改革」でロボット化してしまった判断停止の疑似人間にはもはや何も見えないという寸法である。

 

※「パシリ」:この場合の、「パシリ」とはかなり広範囲である。上は「ヘッド」からほんとうの使いっパシリまで、「御用」と称される「学者」、「評論家」、「ジャーナリスト」、「作家」なども含まれる。あらゆる分野に存在するが、「褒美」を受け取る者から思い込んで身銭を切る殊勝な者までと範囲も広い。

                               2017 9/12 


 

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