「ある日、その時」(65)6月21日ー

<掲載内容>

721.歴史への冒涜とはかくのごとし 722、「講演会」などに何かあるのか? 723.ファッショの「お飾り」724.投票率51.27%でも低過ぎる 725.無党派層を棄権に追いやる者たち 726.「こんな人たちに・・・」727.無党派層が落選運動すればいいだけのこと 728.一点の曇りもなく真っ黒

 

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728.一点の曇りもなく真っ黒


 閉会中審査、これで「一点の曇りもなく」真っ黒であったことが明確になったということである。何をどう言ったところで、言えば言うほどその「黒さ」は増すばかりである。

山口4区、神奈川2区、島根2区、東京3区、8区、11区、24区、16区、福岡8区、10区、和歌山3区、福井1区、秋田2区、愛媛1区、まだまだあるがそれは各自が調べればよいこと。もし彼らが再び登場すれば選挙区の有権者の責任である。中には戦前からの巨大な闇を背負った者もいるが、これ以上闇を大きくしないためにも彼らに居場所を与えてはならない。それが主権者の務めである。ヒットラーの手法でやればいいなどと平然と言った麻生なども、戦前から忌まわしい過去を持つ麻生炭鉱(現「麻生セメント」)、その麻生財閥の三代目当主であったことからも「ヒットラーの手法云々」などは極自然に出てくる言葉なのである。安倍の「こんな人たちに負けるわけにいかない」と言うのと同質である。このような人間たちが今なお政権の中心にいること自体が、それこそ不可思議な「取り残された島国」なのである。なぜ麻生が福岡8区なのか調べればすぐにわかること。

  最近、底の割れている「作家」だの、「評論家」などと称する者たちが、まことしやかに「分析」、「評論」などを書いているようだがどれも参考にするほどのこともない。特に、手を変え品を変えた「憲法論議」、中でもその改憲の方向に向けた微に入り細をうがったような手の込んだ「論述」、それ自体にすでにその安っぽい核心部分が透けて見えているのである。

                                2017 7/24


727.無党派層が落選運動すればいいだけのこと


 落選運動するターゲットはもうすでにチェック済みであろう。「許せない者」は落とせばいいだけのことである。彼らに主権者の存在意義を思い知らせるにはそれしかない。適当な人物がいることに越したことはないが、そのような人物がいないからと言って放棄すれば、それこそ口八丁手八丁のいかさま師の思うつぼである。適当な人がいるかどうかより、まず現実的にも「許せない者」をいかに引きずり下ろすかが最優先問題なのである。そうしない限り「闇」はますます大きくなるばかりで、手の付けられないものになってしまう。ほんとうに自分の意に沿う候補者など現実的にはほとんどいないというのが実情でもあろう、しかし「許せぬ者」を放置すればやがて自分の首も危うい、そのような時、「許せぬ者」と対峙する者に投票するという選択肢もあるという「大人」の選択、政治家以上に政治的な国民になること、その時に初めて国民は主権者らしき者になるのかもしれない。国民にとって、ほんとうに適当な人物とは自ずと育つものであり、また国民が育てなくてはならない。訳のわからぬ三百代言風の「出来合いのもの」にすべてを託していてはとんでもないことになってしまうことを今回の「安倍一座」の「三文芝居」はいやというほど見せつけてくれたのである。今後、「座長」の首をすげ替えただけで済む問題ではない。「座員」すなわち関係閣僚は一蓮托生を覚悟すべきである。

 落選運動と不買運動、これが主権者としては効果のある奥ゆかしい最強の方法でもある。落選運動にしても、不買運動にしてもアイデア次第でその効果はさらに期待できる。「相手」は話したところでわかる「相手」ではない、妄執にとらわれた者たちである。具体的に目に物見せるしかないのである。巷では、「論破」、「正論」などと「お子ちゃまたち」がかまびすしいということであるが、そんなことは「物好き」にやらせておけばいいだけのこと。要するに、主権者たる国民を騙し、裏切る者たちを二度と国会の場に立たせないこと。それだけのことである。

                                                                                                        2017 7/10


726.「こんな人たちに・・・」


 周知のとおり、「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないのです」と叫んだ御仁についてである。もうすでに様々な分析、反応がでていて、その中には的を射たものから御用の筋の皮相なものまでと幅もある。私は、この御仁のすべてがここに隠されていると思っている。すなわち、彼には幼少期の岸信介の時代から「こんな人たちに、私たちは負けるわけにはいかないのです」という言葉は周囲によって呪文のように刷り込まれていたのである。「こんな人たち」とは、「選民的」に選ばれた自分たちとは異なる、「安保反対」を叫ぶ者たちであったり、ある時は一般庶民でもある。また、彼の意識にある「私たち」とは単に彼の所属する政党だけを言っているわけでも、もちろん一般市民を代表して言っているわけでもない。彼の中にある「こんな人たち」とは「選ばれた」自分たちの「意思」に逆らう「非国民」的存在に過ぎないのである。現にあの場で「安倍やめろ」のプラカードを持っていた年配の女性に「お前は朝鮮人か」と言ってすごんでいる安倍支持者の様子が映し出されてもいた。「負けるわけにはいかない」、これを選挙中の単なる選挙の勝ち負けを意味するように収めようとする向きもあるようだが、「節穴」、「浅薄」、「寿司友」の類であろう。これは窮地に立たされ、さらに直面しざるを得なくなった現実に向かって思わず放たれた長年培われた呪詛である。それは国民全体(すくなくとも90%以上)に向けられた宣戦布告でもある。言ってみれば、「美しい日本を守る」とはこのような者の呪詛の裏返しなのである。

 わかりやすくもう一度繰り返すと、「こんな人たち」とは、自分に刃向かう、あるいは自分を認めないすべての国民、「私たち」とは一族、同族のことで、間違ってもこの演説を聞いている多くの国民ではあり得ないということである。そこを取り違えると気付いた時には首が反転していることにもなる。

                             2017 7/6


725.無党派層を棄権に追いやる者たち


 実際、無党派層が選挙権を行使したくなるような人材がいないというのもわかるが、だからといって、それで実質的に自分たちと敵対するものたちをのさばらせることになっては自分が唯一持っている参政権の意味があるまい。選挙権をどう使うか、それが問題なのである。「ジャーナリスト」、「評論家」と称する者たちが「裏事情」をからませて「知ったようなこと」を言い、「誘導尋問」まがいのことをして混乱させたり、確信犯的行為を行っている者もいる。どちらにしても無党派層の参政権をできるだけ奪うことを主眼と考えている節がある。それは詭弁の類を駆使し、混乱させ、必要以上に面倒くさくさせ、できるだけ選挙権行使から足を遠のかせることである。現在の無党派層の状態は彼らにまんまとはめられている状態でもある。「政治家」が実際に行った事、やろうとした事について、「イエス」か「ノー」かそれだけである。それ以外は「弁解」、「謝罪」も含め一切関係ない。後は誰を選べば「イエス」になるのか「ノー」になるかというだけのことである。今回の都議会選挙の結果についても早速、「新人ばかりで不安」の声などと言うことを流していたが、一体誰が言っているのか、良ければそれを育てるのが主権者の務めでもある。出来合いの「政治家」については今まで何をやっていたのかが問題となるだけである。今回の選挙結果も、「主権者」をさんざん踏みにじったことに対する、その抗議の結果であろう。その結果について、存在理由も不明の「ジャーナリスト」田原何某が「ヴィジョンがない」とくる。それは「あんただ」とつい言いたくもなるが、実質的に、この手の者たち(※)が無理なく無党派層を棄権に導く「風」を作っているのである。それ以外にも「プラトニック枕営業」の得意な「政治家」、「評論家」、「心理学者」等々、取捨選択能力もなく彼らの言葉に頼り過ぎると彼らの罠にすぐにはまることになる。無党派層の参政権不履行も「自身の判断」と思わされていると言った方が正確であろう。実は緻密に計算され、「判断停止」状態、あるいは「自由意志」が作り出されているという面もある。それは催眠術的詐術と言ってもよい。

 こうした状況を作り出す一翼を担っている心理学者についても、少しだけ触れると、「意見をはっきりさせることも大切だが、時にはあいまいなまま、白か黒かで判断しないあいまいなままの受容は心の健康の一つなのだ」という見解がそのスタンスをよく物語っているであろう。要するに、心理学的解釈で何かわかったような気になるのは錯覚で危険でもある。それは「あれは月です」と言われて月そのものがわかったつもりになるのと同様である。「ブーメラン効果」なども同じである。そもそも「心理学」などは「第二学問」で一義的で本質的なものは何もない。したがって、詭弁、詐術の手段としても使われることも多々あるということである。

(※)「この手の者たち」については、この間の言動を基に具体的に名前を挙げられるが、それは各自が調べればよいこと。余程のことがない限り、趣旨に反することは避ける。

                                2017 7/5

 


724.投票率51.27%でも低過ぎる


 これだけの事があってまだ投票率51.27%とは低過ぎる。60%はあっても不思議ではないだろう。自民党が歴史的な大敗するなどとは当然のことで、どうでもいいこと。議席23でも多過ぎる。自民党などがやりたい放題闊歩しているのもすべては無党派層の選挙権放棄の責任であるというのは周知のことでもあろう。60%の投票率ではもともと自民党などは一挙に片隅に押しやられるような存在なのである。「落とせるものなら落としてみろ」と言っていたものが今度はしおらしく「厳しい結果を謙虚に受け止めて初心にかえって」云々、そんなことより、もういいから辞めなさいと多くの者たちが言っているのである。しかし、まだほんとうにはわかっていないようだ。要するに、もはや問答無用なのである。彼らには私利私欲以外には、実はもっともらしい明日などないということを見抜かれているのである。だから、今後もやればやるほどボロを出すことになるだろう。そう、私利私欲以外はボロしかないので常に取り繕うのである。今や彼にとって政治とは「取り繕い」そのものになっているのである。彼らの言う過去も現在も未来さえもすべて「取り繕い」なのである。

                                  2017 7/3


723.ファッショの「お飾り」


 現在の政権については、多くを語る必要もないほどファッショ化は進んでいるということはどこを見てもうかがい知ることができる。それは多くの者が感じていることでもあろう。そこにはまた一方でマフィア的に浸透している「日本会議」の存在もある。「有るような無いような」日本精神、言ってみれば大衆受けするような浅薄な「精神」を誇大増幅させて、それを拠り所に互助会的に拡大されている組織でもある。要するに利権の組織内分配で絶対に部外者、すなわち一般国民は外されているのである。親分子分の「契り」を結べば、憲法違反だろうが、法律違反だろうが「力」でかばうという構造である。国民としてはこれ以上彼らの思うがままにしておいては決して身のためにならないことだけは火を見るより明らかである。少なくとも、今、我々は民主主義国家の中に「いるはずである」。それにしてもファッショの「お飾り」でしかなような評論家、学者、ジャーナリスト、作家、俳優、タレントなどの有象無象の手の込んだ「小細工」の数々、微に入り細を穿つ涙ぐましい「努力」、生きるためとは言え無益な「営み」である。そこには新た「発見」などまったくあり得ない。

                                  2017 7/1


722「.講演会」などに何かあるのか?


 私などは、今まで講演会なるものに行ったことがない。その人間の書いたもの、言ったことなどをみれば一目瞭然で、それ以上のものに興味がないからである。実際に以前、ある著名な作家が自らの講演に来た者たちに講演会などに来る時間あるならやるべきことがあるだろうというようなこと言ったことがあった。因みに、私はその講演会にも行っていない。それは後で文書で知ったことである。最近では、講演を「キャンセル」された、「言論弾圧」があったなどと騒いでいる者たちがいたが、転んでもただでは起きない根性は見上げたものであるが直接的にも間接的にも権力の介入として言論弾圧があったわけではない。講演会を主催する方も、受ける方も実のところ安易な、「小商売」程度の領域で問題意識も緊張感にも欠けるからそのようなことになるのである。「左翼系」の者たちから「抗議」があった、「右翼系」の者たちから「抗議」あったなどということで腰砕けになっていたのでは話にならない。その程度のものなのであろう。「」をつけたのは実態が不明であるからである。主催する方も興味本位のテレビの「2級」ディレクター並み、受ける方も顔をつなげるものならバライティーでも何でもいいというような感覚なのであろう。どちらにしても講演会などで得るものはないという証左でもある。お笑い芸人の芸もない「客いじり」で「なんぼ」の世界と大した変わりはない。

                                2017 6/26


 721.歴史への冒涜とはかくのごとし


  日々見せつけられている公文書の隠ぺい、変造等々。このようなことが平然とまかり通っている現状を見れば、過去のある時期の歴史を都合のよいように変形、歪曲することなどいかに容易であるかが手に取るようにわかる。それはやはり何をどのように言い尽くしても歴史認識としては決定的瑕疵(かし)を持つ。やがてその瑕疵自体が増殖し新たな展開可能なあるべき真の営為、世界観までも台無しにするということになる。ここまで露骨にねつ造、隠ぺい、すなわち歴史への冒涜が行われているのを現前で見続けることになるとは、「ある意図」を持った者が歴史を読み変え変形させていく過程を今現前で生々しく見せつけられているのである。読み取る側にもそれなりの知的レベルと想像力があればどのような状態であっても見抜くことは可能であるが、大方は残念ながら与えられたデーターの読み込みさえままにならず、さらには想像力さえおぼつかない。そこで、今までの悪しきマインドコントロールを解くとばかりに三百代言風の大口のマインドコントロールを施されると 今まで個的な別問題で委縮していた自身にも力がみなぎるようにも思われ、いつしか内なる「自虐的なるもの」も「他虐」的なものへと転化され、大したいわれもない「全能感」に満たされる。それは、愚者の安易で怠惰なありふれた経緯でもあるが、歴史への冒涜とは、「目をつぶされ」、「耳をふさがれた」愚者を思うがままにその気にさせ巻き込む陳腐な常套手段ともいえる。一部の賢い亡者たちにとって愚者とは「人間」ではなく、自由に操れる「エネルギー」の一部に過ぎない。彼らが愚者に対して必要以上に「人間主義的」なものを口にし、それを全面に出す時、それは愚者がエネルギーとして燃やされる最期の時でもあるということである。

                               2017 6/24

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