「ある日、その時」(61)3月27日ー

<掲載内容>

690.「万博誘致委員会」のアンバサダー?691.気になる不明言語 692.内閣府調査の説得力のなさ 693.教育勅語活用「懸念ない」?694.議事録末梢、重要書類廃棄、公開拒否、種々の隠ぺい行為 695.「平和ボケしたタカ派」の勇ましい空論に踊らされれば 696.アベとは一体何者なのか?

 

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696.アベとは一体何者なのか?


 これもまた案の定、北朝鮮に対して冷静な対応が求められている時にサリンだ何だと騒ぎ立ているのがアベ自身ということである。騒ぎ立てているというより煽り立てているといった方がよいだろう。「こいつは一体何なのだ」と改めて言いたくなるのもよくわかる。ある者にとっては「死神」であろう。またあるものとっては「疫病神」でしかないだろう。感情的に煽る、この一事でも「首相」失格であるということは言うまでもないが、これで自分の本性をさらけ出している愚かしくも危険な陰謀から国民の目をそらそうとするのであるからさらにタチが悪い。今までもアベが「大丈夫」と言っている時は例外なく「危険な状態」であった。要するにこの男の言っていることをウのみにするのは非常に危険であるというより、そんなことをしていたら身がいくつあっても持たないということである。黙っているとどこまでも恥知らずに何でもするのがこの男である。現状は確かに国際的にも危機的状況ではあるが、そういう時こそ、すべてにおいて冷静さが必須条件となり、明晰な頭脳も必要となるのである。しかし、この男には現状と乖離した類型的な言葉に酔うことくらいしかできぬと見える。具体的であるはずの数値さえ抽象性を帯びているのである。

「放っておけば、こいつにもろにやられる」、「乗せられれば、地獄の一丁目はすぐそこだ」、「こいつは一体何者なのだ」等々  数のマジックとしか言いようのない2000人程度の世論調査の支持率に反して聞こえてくるのは反アベばかり。その一方で「一強でどこが悪いの」「教育勅語のどこが悪い」などというポイントのズレた方々もいるようだが、そのような戯言に付き合っている時間もない。

 戦後の問題としても、オウム真理教が出現したときにすでにアベ政権の出現は予期し得ることであった。ともに避けてきたこと、対峙せず素通りしてきたことが暗部裏面で潜行拡大していたことでもある。彼らの存在自体とその在り様が取りも直さず戦後の問題の「一面」を開示させる。それは多くの者にとって見たくない一面でもあろう。特に弛緩した精神にはなおのことである。なぜなら、それは弛緩した精神の内奥の宿り、常に増幅拡大を繰り返してきたものであるからである。アベ政権に賛同、媚びを売る者とは自らの欺瞞に目をそらして「究極のビジネス」に身を捧げる者、あるいは黙認加担する者ということにもなるが、それは命と引き換えであること知るべきである。そして、その先はないというところが今までと全く違うのである。

 チャーチルは、ヒトラーを誕生させてしまったヴェルサイユ条約を第一次大戦の戦勝国の失敗として明確に位置付けたが、アベのグループは歴史から学ぶどころか、自己正当化ばかりで敗戦時の国家体制に戻そうと躍起になっているのであるから自ら未来を閉ざしているようなものである。今後も繰り返される隠ぺい、情報コントロール、発展なき盲信。これは完全に狂っている証左である。教訓化できぬ者は確実に衰退するか、滅ぶのである。

 天罰とは、天網のこと、それは広く大きく疎にして漏らすことはないということである。すなわち因果応報なのである。そういう意味で、このままではやがて「天罰が下る」ことは避けられまい。

 

 桜を見て、紋切り型の言葉を並べ立てている場合ではあるまい。しかし、「臣民」が何人死のうがこの男の頭の中では簡単に整理できるのである。「今日のよき日に、余のために集いたる愚かな臣民どもよ・・・」、「従僕」に埋め尽くされる日を夢見ているだけの者どもである。

  因みに、この日「アベ閣下」のために新宿御苑に集められた「臣民」諸氏(芸能人、スポーツ選手など)は一万数千人だそうである。選挙に向けてのキャスティングと褒章授与のチェックであろうか。

                                 2017 4/15

 


 695.「平和ボケしたタカ派」の勇ましい空論に踊らされれば


 高いレベルの「外交能力」が問われている時に、「振り」ばかりの無能に等しい者が訳のわからぬことをやっているのであるから悲惨である。案の定、後先見境もない「義」を装った「敵地攻撃論」まで自民党の一角から政府に提出された。これは軍事の専門家も「平和ボケしたタカ派の空論」と一刀両断の内容であるが、アベにとってはこの時期に提出されたことで自分に対する矛先を少しでもかわすのに好都合なことくらいにしか考えていないであろう。そういう「人間」なのである。どちらにしても、現在は高次元での冷静な対応が求められている。できなければそれこそ「沈没」である。すでに目くらまし経済、目くらまし外交の結果も出ている。

 どこから金が流れているのかは知らぬが、アベ、日本会議関係の売文業者の必要以上に危機を煽る「邪論」を「正論」のごとく言い放つ内容には注意が必要である。彼らもまたは自らの言動に責任を取ることは決してないということだけは確かなのである。ただ「言い放っている」だけで、それに乗せられ者たちだけが被害を被るのである。驚くことに、今でも「首相が言っているのですから、ウソを言っているとは思われない」などと平然と言う「ジャーナリスト」?がいるのであるから恐れ入る、後は推して知るべしである。

                                 2017 4/10


695.議事録末梢、重要資料廃棄、公開拒否、種々の隠ぺい行為


 このようなことが国の中枢部分で平然と日常茶飯事に繰り返されている異常さ。どちらにしてもこれで先進国などとはおこがましい。国民の思考ゼロ状態の結果でもあるが、この思考ゼロの状態に巧妙に追い込んでいる(マインドコントロール)のもまた行政である。身の毛もよだつおぞましさである。この道の先に道はない。この方向では、「自分だけは違う」と思うこと自体も必然的に奈落を抱え込むことになる。飽くまで「希望的観測」でしかない明るく美しい言葉、「笑い」が異様に「あふれている」のも、それが単なるバブルである証でもある。あとは野となれ山となれの決して責任を取ることのないない政権の言動などに乗せられていれば悲惨な最期は避けられまい。それこそ自己責任、自業自得の結果ともなる。その時になって「どうしてこんなことに」などと言っても始まらない。最近の復興相の発言にしても、原発問題にしても、原発のある地域の人々は明日は福島の人々と同様で、いざとなれば切り捨て御免の恫喝を覚悟すべきであろう。「何が」美しいのか知らぬが、要は「美しい日本」を守ることが第一義で、国民の命は二の次、ということであるらしい。さらには、見るな、問うな、語るな、これを愚民政治、「民従」政治と言わずして何と言えるのか、たとえそれに異を唱えても見苦しい自己正当化に過ぎなくなるのが現状であろう。

 しかし、現に行われている「議事録末梢」、「重要資料廃棄」、「公開拒否」などの隠ぺい行為は過去の歴史上の事柄についても「都合の悪い部分」については同様のことが行われていたことを具体的に示している。

 

                                               2017 4/8


693.教育勅語活用「懸念ない」?


 おいおい!冗談は顔だけにしなさいよ!憲法や教育基本法に反しない形での「教育勅語」の教材活用を否定しないとする政府答弁書について「適切な配慮の下、教材使用自体に問題はない」。それなら何も「教育勅語」である必要はないだろう。なぜ「教育勅語」にこだわるのか?中国の儒教思想の徳目だけに注目して「どこが悪いのか」と開き直るオツムの具合を疑わざるを得ない「嫌中派」までいるのだから始末に負えない。要するにこの政権は、憲法、法に反するものでも「反しない」形でやることが可能であるといっているのである。よくぞここまでの悪行を強行できるものである。この反動、やがて現れるであろうが、新たなものも作れない、その技量も器量もないのはよくわかるが、そのようなことより何より国民を巧妙に「臣民」とすることが最大の目的なのであろう。中国の儒教思想による徳目の影でうごめく平田神道(平田篤胤の復古神道)。本居宣長以後の国学の主流とされた平田の復古神道などに展開の余地はない。

 「やまと心」の問題にしても冨士谷御杖の視座に立って検証すべきもので、そうでなければ「やまと心」の「疾患」ともいうべき「この上なく細やかな思いやり」と論理的屈折を経ることのない非倫理性、「狂信」などの共存の解明などできるはずもない。冨士谷御杖についてはこのサイトでも8年前に取り上げているが、御杖は宣長以後の平田と同時期の国学者である。

「教育勅語」を活用しながら再び短絡した平田神道を通して「やまと心」の育成を図ろうとすれば、日本人としての「アイデンティティ」なるものは世界レベルの「哲理」を見出せないまま、「やまと心」は「疾患」としかいいようのない様相を呈したまま逆行、退行しざる得ないであろう。何かと言えば、日本人、日本人として、まるで枕詞のように遣う「日本人」、なぜそこまで日本人を強調するのか、短絡した平田篤胤の復古神道を根拠にその気になって上り詰めているのか、そうでばければもはや自分には「日本人であること」しか残されていなのか、「日本人であること」が不確かであるかであろう。

 一番わかっていない者が「日本人のこころ」などと、したり顔で言ってのけるのである。その所業を見れば一目瞭然、今更、敢えてその具体例を挙げる必要もあるまい。限りがない。

                               2017 4/4

 


692.内閣府調査の説得力のなさー「社会意識に関する世論調査」?


 「現在の社会に全体として満足しているか」との質問に「満足している」と答えた国民が65.9%あったという。そして「社会に満足」過去最高66%という「結論」をはじき出した内閣府調査(時事通信)。その説得力のなさというべきか、いかがわしさというべきか、あまりにも実情と乖離した数値は一体何なのであろうか。つい、どのような方法で、何人の国民を対象に、どのような質問形式でなされたのかと聞きたくなる。この「現在の社会に全体として満足しているか」という質問にしてもそうだが、「全体として」といわれると焦点を絞れなくさせてしまうが、それを「『社会に満足』過去最高66%」ということでまとめてしまうのである。これもまた「印象操作」であろう。 政治、経済、その他のどの分野をとってもまったくと言っていいほど国民レベル、視座で納得できるものは一つとしてないというのが実情である。どうしてこの時期にこのような目くらましのような調査を「権威」を装って、さも具体的な数値であるかごとくに発表する意味があるのか。あるとすれば選挙対策以外に在り様があるまい。毎度のことであるが実に手際が良く、手が込んでいる。その巧妙さは日に日に増している。

 このパーセンテージをそのままうのみにすると危ういというのは言うまでもない。具体的であるようにみえるこのような「数値」には常にマジックがある。現在の内閣府であればなおさらである。もし、その数値が現状を正確に伝えているとするなら民主主義政治の堕落した形態である衆愚政治ということになるが、伝えるべきことを伝えなかったマス・メディアの罪はさらに深い。

「現在の社会に全体として満足している」、これが意味する内容をほんとうにわかっているのかとも思われるが、これがほんとうならどこまでもオメデタイ人々で、「民が主である」という観点からすれば衆愚というほかない。そして、目をふさぎ、耳をふさいで愚民を大量生産する衆愚政治は必然的に独裁体制を生む。

 「道徳教育」なるものも衆愚をさらに体制にとって従順で扱いやすい人間に仕立て上げるものであるなら誤りである。「道徳」などというものが「強者の都合よきものが形に現れる」だけで、実のところ強きを助け、弱きをくじく精神を養うということでは、良き社会を作ることにはならず、人生に何らかの貴重な意味を見出す手がかりともなる倫理学、哲学も育つはずもない。すなわちより良き「人間」が育たないのである。ただ偏狭な視野しか持たぬ「兵隊さん」たちを大量に作り出すだけではその国の文化も衰退するだけであろう。

 このままいけば、やがて、「言論の息の根は止められる」。すなわち「都合の悪い」思考回路はすべて断ち切られるということになる。

 「酩酊した頭」には、格闘技とスポーツ、賭け事、そして騒々しいだけの「お笑いトーク」が流れるだけでは・・・

 

                                     2017 4/1


691.気になる不明言語


 世の中には、何気なく遣われている言葉でわかったようなわからないような、それでいてその言葉の遣われ方でその言葉を遣う人間の世界観の全体が垣間見られるということも多々ある。

 たとえば、「脇があまい」、「人間的にすごい」、これは渦中のボウ国の首相夫人について遣われていた表現でもあったのでさらに際立った。その内容は推して知るべしであろう。これで何か気の利いたことを言っているつもりになっている者の思考回路、根本的なスタンスまで推し測ることができる。結局のところ、内容的には何もないというより、そのような表現を遣うことで自分自身の様相を余すところなく語っているのである。「脇があまい」、「人間的にすごい」などという表現で問題、内容を人間事象に矮小化することにはほとんど意味がない。むしろ処世術的「忖度」だけが浮き上がるだけである。

                                 2017 3/29


690.「万博誘致委員会」のアンバサダー」?


 やはり、その在り様をよく物語っている。要するに、彼らは男芸者、幇間の域を出るものではないということであろう。「風刺とか、下から上の人たちに何かいうのは、笑いの取り方としては一番安易で楽なこと云々・・・」と聞いた風なことを言っていたが、それは単なる処世術でしかないことを明々白々と物語っている。政界の魑魅魍魎、海千山千の千三たちと同位置で、とても「風刺」などできまい。偉そうにお笑いの「本質論」をぶっていたお笑いタレントであるが、やはり「万博誘致委員会」のアンバサダーという「役どころ」では「一番安易で楽な」ことはかえって難解で一番避けなければならないことになる。できることと言えば、たわいもない戯言を言って「盛り上げる」ことしかできまい。しかし、これこそが一事が万事ということで、結果的には「強き」を助け、「弱き」に目隠しをすることになるのである。「一番安易で楽なこと」とは実は金にもならず、処世術上一番避けたいことであるに過ぎないのである。大体、一つの批判に、感情的に反応すること自体がその先を明示しているのである。「アンバサダー」、予期した通りたいした驚きもなく、さもありなんというところであろうか。言っているそばからメッキが剥がれ落ち、本体自体が自己証明することになろうとは。しかと見届けることにする。

                               2017 3/28

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