<掲載内容>
597.「自衛隊火器演習」に「感嘆」の「声」? 598.何をしても「記憶が定かでない」599.改めて「プロ」とは何か?600.「日本を元気にする」?601.命は短い 602.切り捨てられた「異類婚姻譚」603.日米軍需産業に貢献する北朝鮮 604.「シャブ漬けのまま衰弱死」
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604.「シャブ漬けのまま衰弱死」
もちろん、これは清原何某のことではない。
ある経済学者が、このままでは日本は異常な金融緩和というシャブ漬けのまま衰弱死してしまいかねないと言っていたが、「シャブ漬け」状態というのは経済に限られたことではない。恒産なければ恒心なしという意味でも経済状態が心身に及ぼす影響は計り知れないものがあるのは確かである。現に、息も絶え絶えな、休む間もなく働かされて「思考停止」状態でその日をかろうじて生きている者たちを「シャブ漬け」と言わずに何というのか。「死ぬほど働かされていますよ」という彼らに本当の生気はない。あるように見えるのは、それこそ「シャブ漬け」からくる一時的な「高揚」のようなものでしかない。このまま行ったら後は衰弱死しかないというのは冷徹な見方というより当然の論理的帰結である。
朝夕、疲れ切った「シャブ漬け」状態の隷属の民に垂れ流されるニュースと称される政府広報、その内に阿保の派手なタコ踊りも頼りになる偉いお方の行状に見えてくる。これもヒットラーの宣伝相などが使った陳腐な常套手段である。
2016 2/10
603.日米軍需産業に貢献する北朝鮮
多くを語る必要もないことであろう。北朝鮮が「本気かどうか」などという詮索は暇人に任せておけばよいこと。やっていることは戦の準備に「大義」を与え、軍需産業活性化に貢献しているというだけのことである。どこかでリベートを受け取っているのではないかとさえ思える程である。実際、「この世界」は何でもあり得る、実際に何でもやる「世界」である。そのことを否定したとしても虚しいことである。そして、そこで遣われる「大義」を飾る美辞麗句なども醜悪な凶険無道の化身でしかない。
※特に読売系メディアは日米の「首都圏も射程」などと煽っている。どちらにしても一旦開始されれば勝者のいない世界の終焉に向けた序曲になる。今までのような皮算用すらできまい。
ベトナム戦争時は松下電器が米軍の軍需産業に加担、その後も電器機器を扱う様々なメーカーが米軍に協力してきたことについては今更改めて言う必要もあるまい。「戦争屋」とその「周辺」はとにかく戦争をしたくてしようがないのである。しかし、賢そうなその皮算用ももはや自己瓦解しかもたらさぬところまできている。戦争とはどう言いつくろっても人類に英知がない証なのである。近未来映画(米国映画に多い)ですら何かといえば戦争である。宇宙の彼方から来ることが可能な「宇宙生命体」が宇宙の最低の生命体のところに攻め寄せるなどという発想自体が愚かしいのである。高度であればあるほど人類との接触など避けるだろう。そう思わないところがまた愚者の極みでもある。
2016 2/4ー2/8ー2/9
602.切り捨てられた「異類婚姻譚」
ある女史から久しぶりに電話があった。仕事の話などをしていると、突然、最近の芥川賞受賞作だという「異類婚姻譚」という本の話になったが、如何せん芥川賞受賞作などこの20数年手に取ったこともないので女史の話に受け答えもできずにただ聞いているより仕方がなかった。女史が言うには題が面白そうだったので気分転換になるのではないかと中も見ずに他の本といっしょに買ったが、開いて2,3ページで読む気がしなくなったという。こんな文化の香りも感じさせないだらしない文章がよく書けるものだと吐き気さえ感じたそうだ。「ラノゼ、わかる!吐き気よ」、「これが文学?一体何をやっているの、作家って」、「これ作家というより単なるいけ好かない主婦という感じじゃない。とてもいただけないわね」、「また騙されたわ、これじゃ駄目よ」・・・。女史の見解の中にはもっと辛辣で、本質をえぐるような内容もあったがここでは差しひかえる。それは、また違う機会に。私としては、後日、機会があれば女史の憤りの確認の意味で読んでみようとは思っている。
2016 2/2
601.命は短い。
肝心なものが見えかかってきたところで終焉を迎える、あるいは一生振り回されただけで終わる者、、忍び寄る終焉にどこかで折り合いをつけるために「諦観」に身をゆだねる、「欲望」にさらに火をつけ身を焦がす者など、人さまざまであるがとにかく命は短い、短すぎるといってもよい。そして、実のところ大方は何もわかるぬまま終わってしまうのである。やはり、「見えかかった」というのが限界なのであろうと思われる。狭い料簡の中で現実が見えているつもりの者は多いが、的確に見えているかとなると極めてまれであるというのが実情である。自分の「在り様」を正視し得る者もまれである。無様であろうとなかろうと正視することができたら、そのように「在る」こともないはずだと思われることが多い。
しかし、「命は短い」というこの一事で抑えようもなくこみ上げてくるものがあることだけは確かである。
残雪に 「而今」「而今」と 並びをり
而今とは、ただ今の一瞬間という意味の言葉であるが、酒の銘柄にもなっているようだ。とある街角の片隅で薄汚れた残雪の中「而今」という名の一升瓶が並んでいた。酒、酒席などとはまったく無縁となった今の私には、酒なども残雪に放置された而今のごとく意味もない。そもそも弛緩した酔(態)に而今は感受すら覚束なく、連綿とした混濁が現れるだけである。図らずも、「而今」が一本一本立ち並んでいる姿そのものが辛うじて而今の様相を言い当てているに過ぎない。
2016 1/31ー2/2
600.「日本を元気にする」?
このような発想自体が国家主義的なのである。もし、ほんとうに人を元気にさせる人々がいたとするなら、彼らは「日本を元気にする」ためになどしているつもりはまったくないと言ってよいだろう。彼らは「自分の思うままに」「思うところ」をなしているだけなのである。
「日本を元気にする」などと称してそれらしき人々を「救世主」扱い、あるいは「一般化」しようとする意図は何かということになる。「日本の元気」を根こそぎにしている「張本人」、その元凶についてはほとんど言及せず、そんなことより「日本を元気にする」云々もないであろう。そんな「重り」を勝手につけられた方もかなわないが、「思うところ」を「思うままに」常に更新し続けている者にとってはまったく関係もないことであろう。要するに「日本のため」などというコンセプトは彼らには皆無であると同時に必要もないことなのである。「国家」と自分を同一視するしか他に能がない空疎な人々は別にして、個々が自分の思うままに才能を開花させればいいことで、その結果として多くの人々を元気づけているということになればさらによいというだけのことである。そこに「国」などが入り込む余地はまったくない。否が応でも日本人である者が「日本人である」ことを強調してどうするのかと思うが、必要以上の安易な「強調」は自信喪失、空疎であることの裏返しでもある。
2016 1/30
599.改めて「プロ」とは何か?
現在、改めて問いたくなるものは枚挙にいとまがないが、「プロ」などというのもその一つである。簡単に言えば、「プロ」ということで何かが保証されることがあるのかということであるが、実際は覚束ないことばかりである。むしろ、生活のためにやむなくやっているのが「プロ」というだけで、経験則から割り出された要領ばかりが多く、悪く言えば手を抜く要領を心得た者が手慣れた「プロ」と称される場合の方が多いようにも思われる。「巧遅は拙速に如かず」などということも「プロの仕事」のように言われることがあるが、それも時と場合や内容にもよることで安易に一般化できることではない。「プロの仕事」などと呼ばれるものよりは「趣味」が高じた素人の方が内容的にはるかに優れているケースも多々ある。それは、「趣味」が目先の利害にとらわれずに嬉々として没頭できる自由な領域にあるからである。さらに言えば、今後新たな視点を獲得できるのももはや既成のプロ集団ではあり得まい。現在、「それで食っているだけ」の「プロ」などから得るものはあったとしても小手先の技術以外には何もない。単なる経験則、小手先の技術など時を待たずとも根底から覆されるものである。
なぜ分かり切ったことを改めて言いたくなるのか、それは現状がそうさせているのである。
2016 1/28
598.何をしても「記憶が定かでない」
それこそ何をしても肝心なことは「記憶が定かではない」のである。すなわち、責任回避、責任能力がないと見るのが妥当であろう。突然の「記憶障害」、「記憶喪失」、こんな人間の言動を信じ込む方が愚かというだけのことである。中には、泣き、叫び、土下座はする、頭を丸めるなど、ただ騒々しいだけの者もいる。この調子で今までひとを誑し(たらし)込んできたのであろうと思われるが、これで済むなら世はまさに悪人天下、実際、世の趨勢は悪徳に倣わなければ時流に乗り遅れると言わんばかりの勢いである。単なる「お人よし」と「無知」は無恥な悪人をはびこらせるだけで、罪であることを知るべきなのであるが・・・。
2016 1/27
597.「自衛隊火器演習」に「感嘆」の「声」?
それにしても自衛隊の火器演習を見て感嘆の声を上げているとはやはり「平和ボケ」の極みであろう。これは花火ではない、本物の殺人兵器である。一旦トリガーを引けば、銃口はいつでも自分にも向けられることになる。「平和ボケ」とは要するに想像力の貧困さなのであろう。それが単なるアドレナリンジャンキーなら言うもおろか、すべては自業自得。どちらにしても「すりこ木のような神経」であることに変わりはない。日常的に「生」を真摯に問う姿勢がなければ「すりこ木のような神経」はいつでも形作られる。それは、いたるところ断線している神経の集合体の様相を呈している。思考拒否、停止、言語能力の劣化、擬態語、擬声語で占められた世界に「救い」はありようがない。それはごく普通に「人間」の領域を逸脱しているのである。
2016 1/24