<掲載内容>
491.「腐った蜜柑」??? 492.二度と手にすることのなかった本 493.仏教者が「日本を守る会」とは 494.存在自体が問題 495.川内原発再稼働、愚かの一言に尽きる。496.「国家不在の憲法論は非常識」とは?497.タレントのギャラ一覧を見て 498.8月30日 499.「張りぼて」の週刊誌の曰く・・・500.能ある鷹は爪を隠さず
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500.能ある鷹は爪を隠さず
「能ある鷹は爪を隠す」とは世によく言われることであるが、比喩にしても底の浅い割には人を分かったようにさせる効果はあるようだ。鷹は爪を隠している訳ではないやむなく一時的にしまっているだけのことである。譬えにしろそれを意識的に「隠す」となると話は別で、これは危険でさえある。ものごとは常に使用することによってしか現状維持もできなければ、むしろ退化風化することの方がはるかに多い。時と場合によって、あればの話ではあるが「爪」も使用していかないと、使いたいときには使い物にならないということになる。「雉も鳴かずば撃たれまい」、「見ざる、聞かざる、言わざる」、どれも「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」といった時代錯誤も甚だしい御仁が喜びそうなものばかりである。「能ある鷹は爪を隠す」もそれらと然したる距離はない。その使用範囲をみていると前意識のレベルですでに絡め取られているというケースをよく見受けられる。どんなに思っても、どれほど自分の中にあると思っても「やってきたこと」以外に人生はないというのが実情である。可能態とは飽くまで可能態であって無に等しい。そうではないと思ってみても、「爪」を隠し通せた鷹は能ある鷹どころか果たして鷹であったかどうかさえ危ぶまれるものである。人生は短い。「隠している」内にも終わってしまうこともある。だから、思った時に惜しげもなく出して行けばいいだけのことである。「思った時」とは瞬時の一回性である。それは何でもかんでも金につなげる商人根性とは別次元のことである。「言うと損するから言わない」という者を昔からよく見かけたが、一人としてそれ程の人生は送れていなかった。それ程のものは何もなかったのである。たとえ、深く隠し持っているということがあったにしても、それは「時間」の恐ろしさを知らないだけということにしかならない。
2015 9/6
499.「張りぼて」の週刊誌の曰く・・・
「張りぼて」の週刊誌が国会前のデモを「張りぼてのデモ」だとおっしゃる。さぞかし「貴いお方」の肝煎りなのであろう。そうでなければ「張りぼて」が我が身を忘れて果たしてそこまで言い出せるものか?今時、週刊誌のネタなど、どこが面白いのかと思うのが大方、それすら気付かずに息巻くものだから空ぶかしも甚だしい。すべてはズレているのである。後出しじゃんけんをした挙句に負けて、相手にいちゃもをつけているようなもの。その様、脳味噌がアルコール漬けになっているようでもあるが、今では酒のつまにもなるまい。「張りぼて」はすでに見透かされているのである。底が割れている者がどんなに騒いでみても、それで動く者たちとは虚しき者たち、先のない者たちということになる。「反原発」ということが、また「違憲問題」が「戦争回避の動きが」イデオロギーと何の関係がある。それ以前の問題であろう。イデオロギーを云々するのであればまず言葉の定義から厳密にすべきである。今に始まったことでもないが、週刊誌などの類は 買って読むほどの内容はほとんどない。大見出しの箇所など読めば「貴いお方」のホラ話を聞かされるだけである。いい大人がそれを真に受けていると今や簡潔明解な小学生にもそっぽを向かれ兼ねない。週刊誌のネタなどいくら仕込んでもせいぜい場末の居酒屋談義にかび臭い造花を添える程度が落ち。いい加減およしなさいよ、野暮なことと言いたくもなるが、そのみっともなさを見ていると、阿漕(あこぎ)な所業そのものが大人を成す主要素かとさえ思われてしまうのである。阿漕な行為は必然的に「人間」離れもたらし、やがては機の加減で完全に「人間」を離脱してしまったヒットラーの圏内に入ってくる。「歴史に<動かされた>偉人たち」(?)にも登場するアドルフ・ヒットラーとは実は完全なる「人間」失格者なのである。すなわち「人間」の境涯にはいない者ということである。そこが凡夫には奇異に映るが、それは本質的に似非「人間」世界でもある。
2015 9/4
498.8月30日
終戦記念日の8月15日は父の命日でもあり、「8月15日、我ら爆死せり」と詠んだ父の朋友知己の一人とともに忘失することはできない日でもある。そして、2015年8月30日、それは多くの人々にとって見る見ない、知る知らない、行動するしないとにかかわらず、さらなる「戦い」の日々の開始を意味することになった。
地元の街では「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」という今やシャレにもならない歌詞に合わせた単調な阿呆踊り見物に所在なき者たちが群れていた。今、所在なき者とはやはり阿呆の証左なのであろう。
明日8月30日、安保法案反対の抗議行動のより一層の拡大展開を期する。
2015 8/29
※安保法案抗議集会は「最大規模」となったが、これは氷山の一角で今後は「最大規模」などという範疇では捉えきれなくなるだろう。
497.タレントのギャラ一覧を見て
売れているタレントのギャラが一時間200万だという。これは汗水流して働く低所得者の一年分の所得に等しい。これだけ貰っていればどのようなことでもやりかねないだろうと思われる。金で買われた男芸者、肝心なところは巧みに縫ってホンネらしきもの、多くは劣情の類をちらつかせながらお茶を濁すのが生業ともいえる。それにしても破格のギャラである。実のところ、彼らの会話はジャーナリスチックなだけで、内容的には井戸端会議、それ以下であってもそれ以上ということは決してない代物である。すぐに忘れても何の問題にもならない話と言ってもいい。むしろそれで感覚が鈍磨されるのであれば百害あって一利なしというところであろう。愚民政策の一翼を担っているだけでしかない「庶民」、「ナチュラル」、「ホンネ」の装いは単なる商い、時給1000円程度の者が半ば馬鹿にしながら笑っている「万人のおもちゃ」は時給200万円なのである。とても庶民感覚などわかりようがないというのがその実態であるが、どうすれば大方に受けるかを以前の苦い経験則から取り込み反復しているだけなのである。それをよしとするかバカバカしいと思うかは各自の勝手であるが、、「万人のおもちゃ」の内実は万人蔑視の裏返しということがよくある。代弁者のような顔をして劣情をからませて「ホンネらしきもの」を言い放つが、そのどれもが真情あふれる軽薄さとはおよそ無縁の小賢しい「商売」だけが見え隠れしている。要するに、似て非なる者なのである。
「売れてなんぼ」と言い切るだけの世界は、売れるためには何でもするという世界である。それはまた詐欺師の世界でもある。彼らの言動を喜び、信じる者はやはりアホと言われても仕方あるまい。底が割れたら仕舞の世界、底が割れても何とかやっているのは厚顔無恥の代名詞となってしまった政治屋くらいなものである。
2015 8/25
496.「国家不在の憲法論は非常識」とは?
これもまた御多分に洩れずの類である。ここで天下国家を論ずるつもりは毛頭ないが、ついそれでは国家とは何か?あなたの言う国家とはどのような国家を想定して国家不在と言っているのかと聞きたくなる。「改憲」することによって米国からの押しつけ憲法を脱却し、そこで初めて「独自」の国家としての体を成し得るなどと本気で考えているのか、それともそのように見せかけているのか。実のところはすべては米国の思惑通りのシナリオであろう。改憲は米国が一番したいことである。だから二枚舌の「議員」たちがやりたい放題なのである。黙っていれば「安保法案」の後はさらに米国隷属は深まるだけというのは余程の単細胞でもない限り明白なことであろう。この「御用学者」の「見解」は要するに、より強固になった米国隷属国家としての憲法論それが常識的であると言っているようなものである。このような流れの中で、さらに米国隷属化を強化する「安保法案」に反対している者の方が自らとそこにいる国の行く末を憂える事ができるほんとうの国民ということになる。それに反して、他国に身売り同然のことしている者、またそれに賛同する者を何というべきか、抗議デモをしている者たちではなく、デモに反対している者たちが結果的に売国奴、非国民の位置に立たされているのである。この構図が読めないといつまでたっても単なる「パシリ」で終始するだけということになる。
あまりにも理想的な世界に誇れる憲法9条、それは今まで意識するとしないにかかわらず安全の「護符」でもあった。今更ながら押し付けた者でさえ躊躇するほどの憲法である。しかし、押し付け自体にいつまでもこだわってその「護符」を「自らのもの」として拡大発展させることができなかったとするなら、そのことをこそいつか恥じることになろう。現状は拡大発展どころかその「護符」を割り、矜持も捨て、米国の一挙手一投足に一喜一憂しているだけというのが実情であろう。
「国家不在の憲法論は非常識」なのではない。国民不在の憲法論が非常識なのである。
国民の血税で賄われている者たちが何をご大層なことを言っているのかと思われることが多いが、勘違いされては困る。税金で食っているあなた方は国民の「しもべ」なのである。
2015 8/14
495.川内原発再稼働、愚かの一言に尽きる。
何度でも同じ過ちを繰り返す者を愚者というが、富裕層間では過ちも儲け話となると過ちとは言わないようだ。安全基準にしても「世界最高水準の新基準に認められた原発から再稼働する」という程度。これにはただ呆れるばかりで、日本の置かれている自然・地球環境の特殊性がまったく考えられていないのである。日本の原発は、その安全基準が世界最高基準を遥かに上回っていて当然というところに設置されているという認識がまったくない。オメデタイ話である。狙われたらひとたまりもない原発をいくつも作っておいて、有事の際はなどと妙な危機感を煽る。少子高齢社会、自給率は落ちる一方、原発という爆弾かかえて一体何をするつもりなのか。そこにはアメリカの隷属国家としての甘えもあるが、都合が悪くなればアジアのことはアジア人に任せるということでいつ梯子を外されるかわかったものではない。とにもかくにもすべてに渡って日本独自の展開は失われてきていると同時に何をやっても付け焼刃のようなものではもう通用しないということである。
憲法問題にしても、アメリカから押し付けられた憲法ではなく日本独自の憲法などと勇ましいことを言っている者たちもいるが、実のところ、今の憲法ではアメリカにとって都合が悪くなってきたというだけの話であろう。今度はアメリカの押し付け「改憲」といったところである。名称は違っても「安保法案」は実質的には「戦争法案」とならざるを得ないのである。
もういっそのことアメリカ合衆国日本州東京郡大字霞ヶ関とでもした方がよかろう。
2015 8/11
494.存在自体が問題
このような人間の存在自体が民主主義の埒外なのであるが、それにしてもその所業は「本来」の日本人的気質から言っても「みっともない」、「見苦しい」の一言で片付くことばかりである。以前この男を三島由紀夫と重ね合せた「提灯持ち」がいたが、ここまで「義」もなく羞恥心のない人間を三島と重ね合せたところで合わさる箇所などどこにもあるまいと思われるが「提灯持ち」は強引につなげ合わせる。だから歪んでくるのも当然である。単なる詐欺師と然したる変りもなく、いざとなればどこに雲隠れするかわからないということが明々白々だという三島が一番嫌ったところだけはしっかりと隠し持っているから質が悪い。取りも直さずこれも戦後70年の一つの集約なのである。それを棚に上げてのもっともらしいご開陳、言う傍から言葉が口内で溶解しているではないか。何を駄弁っているのかと思われる「文化芸術懇談会」、自ら度量のない小人であることをわざわざ明かしているような「自虐史観」などという造語、己の卑小をさらに拡大させ未来を閉ざしているような造語を「呪文」のように繰り返すだけの「悪霊たち」にとり付かれたような救いようのない人々である。
愚者の言動にいちいち関わっている暇などないが、あまりの愚者振りについ言いたくもなる。滋賀4区のホストのような衆議院議員が、戦争に行きたくないというのは(すでに安保法案とは戦争法案であることを認めているのである)「自分中心、極端な利己的考えに基づく」と言っていたらしいが恐れ入谷の鬼子母神。一番身勝手な、利己的な者たちが「平然と」大義をこじつけて人々に犠牲を強いてきたのはどこ吹く風である。それでは戦争に賛成している者たちが利己的でないという証拠が一体どこにある?それ程の義があるのならまず自ら陣頭指揮を取るだけの覚悟が必要であるが、どれも自らの言い逃れ、糊塗、捏造にすら殉じることができぬ熱に浮かされたような亡者の群れである。金になると思えば武器で、そこで五体が飛び散れば今度は使える臓器で商いを考えるような輩。彼らを同じ「人間」だと思うとすべて読み間違える。国民の多くを棄民扱いしておきながら今更「あなたが主役」とは何の主役なのか。成長戦略とは棄民の肉弾攻撃、要するに、地獄の主役という意味なのであろう。黙っていれば何をするかわからない手合いである。若人を死地に追いやる愚にも付かないたとえ話の数々、そう思うのならまず自らがおやりなさいということである。
それから、必ずと言っていい程、反対するものに対して「それでは対案を出せ」と言う者がいるが、それはまったくおかしなことである。危ないと思えば、まず声を出して「違う」と言うべきであって、その時点で対案云々などは言う側の無能の証明である。「反対」というのは立派な意見である。対案の検討などはまず反対意見を出してからで充分である。そもそもさらに深められた対案を出すために審議、議論というものがあるのであろう。特に最重要懸案事項についてなど急ぐ必要はどこにもない。しかし、ここにきてまた性懲りもなく落ち目のひも付きタレントなどを使っての「巻き返し」、完全に末期症状であるが、逆にどこの誰がほんとうに自分のスタンスを持っているかいないかがはっきりするいい機会でもある。この際今まで以上に厳しくチェックを入れるべきで、それが民主主義の基本である。それを忘れて惰眠を貪っていれば民主主義など簡単に崩壊する。
2015 8/9
En bref la face cachée de Abe est très dangereuse.Les mensonges sans cesse—-comme le nuage artificiel—
493.仏教者が「日本を守る会」とは
ただ単に「日本を守る」などというコンセプトで集約されるような偏狭な世界観は仏教にはない。要するに似非仏教なのである。1974年に臨済宗・円覚寺貫主の朝比奈宗源によって作られたというこの会は「日本会議」の前身でもある。後は推して知るべしであろう。江戸幕府の政務に参画した天台宗の天海を思い出させる。要するに行政の末端を担い、寺請制度などをつくり仏教を民衆の統制の手段として活用し、本来の仏教を否応なく歪めてしまった張本人でもある。日本でほんとうの意味で仏教が根付かないのもそこらへんが要因ともなっている。「現世御利益」なども民間信仰(神道)レベルの話で非仏教であることは敢えて言うまでもないこと。どちらにしても味噌も糞も区別できなくなっているようでは「認知症」の類と言わざるを得ない。亡者も「こと」、「もの」が的確に見えていないと言う意味では「認知症」の一種である。
猛暑が続く盆の折、亡者船に出っくわさぬよう気を引き締めた方がよさそうである。
2015 8/6
492.二度と手にすることのなかった本
二度と手にすることのなかった本も数限りないが、俗世間ですぐ騒がれる芥川賞受賞作品というわかり易いところで言えば「太陽の季節」(石原慎太郎)、「限りなく透明に近いブルー」(村上龍)、「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫)、などもそうである。芥川賞も売れ筋の青春小説を定期的に選ばないと身が持たないとみえて結構青春ものも多い。「青春小説」などと呼ばれるものにはあまり関心がない私としてはいつしか遠ざかってしまうのも自然な流れである。芥川賞作品も、戦前の石川達三、石川淳、火野葦平、戦後の井上靖、安部公房、遠藤周作、開高健、大江健三郎、北杜夫あたりまではその作品を読み直すことはあり得ても、それ以外の作品では余程何かの縁でもない限り手に取ることはまずないであろうと思われる。最近では二度手にするどころか一度として手を出さない、出したくない本ばかりになってしまった。
しかし今、ありがたいことに、逆に「いい本」、「内容のある」読み応えのある本が安く手に入る。場合によっては古本で100円、200円で手に入ることもある。著者に申し訳ないような値段であるが、100円の本で人生の転機を迎えることができたり、人生を豊かにする人が現れることで著者の苦労も少しは報われたと考える方が賢明なのかもしれない。しかし、世界レベルの内容を持つ文学書、哲学書が訳の分からぬ新刊書、劇画、漫画本より安く手に入るのであるから思えば不思議なものである。
2015 8/1
491.「腐った蜜柑」???
福岡の市議がデモ参加者に対して「腐った蜜柑」と言ったそうだが、その意識レベルたるや二の句が継げない。さらにデモ参加者は就活に不利などと脅しまでかけているから最悪のパターンである。どこの国の話かとも思われるが、もしこの程度で左右されるような者なら一事が万事で、たとえ就職したにせよその会社の主力とはなりえまい。不当な脅しの手の内に簡単に収まってしまうような者が一体何ができるかということである。一生びくつきながら窓際であろう。大体、この程度のことで面接官が不採用の判断をくだすようなところはどちらにしても行く末は危ない。そもそもそのようなことを面接官が聞くことはできないはずなのである。
しかし権力のパシリのパシリ、すなわち心底奴隷根性で充たされた者というのはどこにでもいるものである。どちらにしても権力の走狗というものは権力自体にやがて煮られるというのが歴史的実情でもある。それでも「奴隷」の、それも奴隷根性の癒しようがなくしみついた者たちの秘かな楽しみは奴隷でない人間たちが上げる声を「物知り風に」あざ笑うことである。忌まわしき歪みともいえる。
今後も、この類は手を変え品を変え出てくるだろうが、一種の悪あがきである。飽くまで冷静にいちいち彼らの「感情の虚偽」に乗せられている暇などあるまい。悪あがきとは,言ってみれば根拠もない無内容な撹拌(かくはん)である。したがって、「ああ言っていた、こう言っていた」ということだけではなく、情報の冷静な取捨選択能力が問われてくるということである。そして、思ったことを、やるべきことをやるということである。それは必ずその個人の重要な資質となってくる。「忌まわしき歪み」から発する罵詈雑言に身を委ねる者などはどのようなことを言ってもそれだけの人生しか訪れることはない。憐れであるが自業自得である。
寄らば「大樹」の陰で実は「走狗鍋」の煙も賑わっているのであるが、不思議なもので「走狗」というのは釜に入れられているのに風呂に入っているつもりになっているから怖いものである。
2015 7/30