<掲載内容>
(番外日誌20150120) 451.「人道支援」? 452.すべてはやっている振り 453.おめでたき者たちを統べる亡霊たち 454.マッチ・オイル 455.低所得者層は「てっぱんのうえでやかれて」 456.千三つ屋 457.御身もまた買われた命 458.税務署の前で459.外国映画の日本語吹き替え版は誤りの発端
(転載・複製厳禁)
459.外国映画の日本語吹き替え版は誤りの発端
何度も何度もついつい言いたくなる。それは外国映画にチャンネルを合わせる度に否応なく蒸し返されてしまうからである。外国映画の日本語吹き替え版は総じてとにかくひどい。「刑事コロンボ」などのピーター・フォークなどの声すら違和感を生じるのであるから、いわんやその他の多くのものは言うまでもないことである。折角の僅かな時間の気分転換も台無しにされるので簡単には収まらなくなるのである。まず何を言っているかわからない、何でもかんでもアニメの乗りでやれると思っている浅薄さ、それらしきことしかできない底の浅さ等々。たまりかねてスイッチを切るときの決まり文句は「小賢しい、つまらん芝居するな、ボケナス」である。もちろん、それは声の出演者達に対してであるが、それは実は彼らだけの責任でもない。そのようなものをよしとする、よしとさせるその周辺を含めた全体の責任でもある。
外国映画の日本語吹き替え版は学芸会になってしまっている。だから「錯覚」が蔓延するのである。海外の一級の役者の演技がそもそも何を言っているのか分からないような感情過多の、あるいは奇妙な声の「声優」によって身近にすぐ手の届く範囲にあるように思えるのである(私には想像力の欠如としか言いようのない不快感)。それが大きな誤りの発端である。そこにはとんでもない質の相違がある。
そんなことより要するに話の筋が手っ取り早く分かればいいんだという御仁は、それもまた一事が万事で、すでに仕掛けられた陥穽にはまっているのである。
2015 3/5
458.税務署の前で
先日、税務署の前で元気な老人が税務署員に「何であんなのを首相にしたんだ」などと言っていた。おそらく確定申告の提出に来たついでに言い出し始めて止まらなくなってしまったのであろう。「国会で、自分が質問されているのに質問者にヤジを飛ばしている。あんな首相は今まで見たことがない。誰があんなの選んだんだ。・・・」。私もその場に長くいたわけではないのでその程度しか聞き取れなかったが、あの調子ではその後もまだまだ続いたことであろう。吐き捨てられた「あんなの」という言葉には救いようのない響きがあった。大手メディアの取り上げ方とはまったく逆に首相の名前などはどこにも出てこない。この戦中派と思われる老人にはあまりにも厭う気持の方が強く、いつしか固有名詞が脳裏から消えていたのであろう。
確かに、何から何まで信用ができないということは言えるだろう。要するに、「あんなの」という存在、存在自体に信用が置けないのである。言ってみれば、嘘のコラージュ。粉飾、糊塗、捏造、何でもありの嘘のスパイラルである。
2015 2/23
追記:次から次へと出るわ、出るわ、これが「美しい日本」の実態であろう。戦後未曾有の無恥にして珍なる内閣として後世に名を残すであろう。もはや何を言っても恥の上塗りだが、その上塗りすら塗るそばからはげていく。あの老人も玄関先で「新聞」片手にこけているのではないか、それが原因で寝たきり老人にならないことを願うばかりである。
457.御身もまた買われた命
「御身もまた人間か」などという感慨は昨今とんと味わうことがない。日々、「御身もまた買われた命か」という思いばかりである。世論一つとってもこれがもしほんとうに世の中一般の問題意識の実態であるとするなら、正気の沙汰とは思えない。「無理が通れば道理引っ込む」ということがあるが、「無理」すなわち道理がないところで金自体に「有理」があるがごとくで、そこでは「道理引っ込む」などという感覚すらない。これでは今後ますます何が起こっても不思議ではなくなるということは余程のノウテンキでもない限り察しはつくはずである。それは身近な雑報、世間の出来事の類を見ても明らかである。手を拱ていても黙していても距離を置いても確実に火の粉は様々な形で身に降りかかってくる。何かと言えば「景気、景気」と景気がすべてであるがごとくに煽っているが、景気に踊らされる者たち、景気を煽る者たちにとっては戦争も平和もない。彼らにあるのは崖っぷちから落ちながらも「景気」である。そのような者たちを「昨日も今日も明日もない大人」と称するのである。見た目とは裏腹に彼らの実態とはせいぜい「飲む、食う、打つ、買う、売る」が唯一の楽しみの領域というお粗末なものである。言ってみれば、「貧相」なのである。金に蚕食され尽くされていて、「人間」と言い得るコンセプトでは重なり合うところもないので「御身もまた人間か」などという感慨が出てこないのであろう。見えてくるのは「餓鬼」の姿ばかりでは、「御身もまた餓鬼か」というのが妥当なところである。
2015 2/20
456.千三つ屋
「千三つ屋って知ってます?」とその御仁が言う。知ってますよと言うと、「私は昔、不動産屋をやってましてね、不動産屋なんてものは千言ってほんとうのところは三つもないんですよ、大方が眉唾か嘘、実際その通りですよ。」と言う。その御仁今は違う稼業をしているとはいえ、人間そうそう変わり得るものでもあるまいという思いもあり、嘘つきが「私は嘘は言いません」と言っているようにしか聞こえてこなかったが、少し考えればその御仁はそういう思いが強くあったからその仕事をうまく続けることができなかったのであろうということで合点が行った。彼は「千三つ屋」を本当のことは千のうち三つしか言わないという意味にしか捉えていないが、その言葉には千のうち三つくらいしか話がまとまらないという意味もあることを付け加えておく必要もあろう。だからその稼業には強引に話をまとめようとしてどうしても嘘が付きまとうのである。
最近では、大手メディアに登場しているだけでその者のいかがわしさが漂ってくるが、その最上位に位置するのが何と言っても「株式会社 日本」の代表取締役かと思われる人物であろう。言っている千のうちの一つとして本当のことがないので千三つ屋とも言えないから尚困る。千三つ屋などといわれているうちはまだ人間の領域の中で是非を問える気もするが、一つとしてないとなるとやはり精神科のテリトリーであろう。そういう人物はたとえ審議に臨んだところで思うようにならなければ机の上で仁王立ちともなりかねない。要するに、討論、審議、協議などの類が成り立ちようがないのである。
2015 2/15
455.低所得者層は「てっぱんのうえでやかれて」
「まいにち、まいにち、ぼくらはてっぱんのうえでやかれて いやになちゃうよ」、一時流行った「およげたいやきくん」の歌詞であるが、もはや「みせのおじさん」と喧嘩する気概も海に飛び出す元気もない。どうせ食べれれてしまうのなら「てっぱんのうえでやかれ」るままにとばかりにすべては痛々しくもただ内向するだけであるが、それは歪みを変形、増幅させるだけで決して拡大展開する方向に向かうことはない。思考回路自体に拡大する余地がない上に、それを突き破る強靭な思考回路を形成させる時間もないのである。「てっぱんにやかれる」以外は、耳には始終「ノイズ」が流れ、目には色彩感覚を鈍磨させるような極彩色のゲームの小忙しい動きと結実しようのない果てることのない「ツブヤキ」の連鎖、そして後は飲んで食べて寝るだけでは何も生まれないどころか退化する一方であろう。小林多喜二も驚いたのではないかと思われる「蟹工船」ブームも一過性のものでしかなかった。「蟹工船」にしても「およげたいやきくん」同様、何とか生きようとする者たちに対する飽くまで個的に集約された「共感」以上のものを感じ取ることしかできなかったということであろう。要するに、そこでは「奴隷状態」の確認のし合いと虚しい願望に終始しているだけで、自己解放という領域においてすら、それを志向し得る新たな思考回路が付け加わることもなかったということである。実際、現状では多くの低所得者層は一寸先も見えぬまま、ただ明日の糧に追われていると言った方がいい状態である。そして、実は一寸下は地獄なのである。どんなに強がってみてもそれが実情である。そんな悲惨な現状から目をそらさせるには、例えばゲームなどに熱中させるのも簡便な一つの方法であろうが、要するにその種のもの(実は多岐にわたり、広範囲)の役割とは手っ取り早い話が大衆の白痴化である。白痴化した多くの老若低所得者と1%の富裕層と、それでは土台民主主義など育ちようもなく必然的に反民主主義に傾斜していく。
2015 2/8
454.マッチ・オイル
マッチ・ポンプとは意図的に問題を起しておいて自分でもみ消し不当な利益を得ることを意味する和製語であるが、最近ではどのような問題が起こり得るかも明確に察知し得ずに、さらにポンプが空なのか、水が入っているのかも確かめず揉み消すようで、挙句の果てにポンプに入れる水もオイルも区別がつかなくなる始末である。とここまでは不手際、愚策の非難の対象にはなるが、それはフェイントに近い。フェイントそのものとも言えるのは、実はそれだけではないからである。今一番喜んでいるのはどこか?そのとおり。実際に今、彼らのシナリオ通りに事は進んでいるのである。一見、愚行のように見える言動も彼らの手中に収まることで完結するのである。これで、戦争とは平和であり、平和とは戦争のことの言い換えでしかない積極的平和主義の道を確実に突き進むことができるのである。
2015 2/4
453.おめでたき者たちを統べる亡霊たち
おめでたき民を統べる者の言動が通用するのはおめでたき民だけである。世界で同様の手口で事を進めようとすればどうなるか、ただ「滑る」だけで噛み合うこともなく軽くいなされるか利用されるか、どちらにしても思惑どおりにいくことはない。スピリットを育むことを怠った「拝金教」のゴーストたちの成れの果てともいえる。すべてにおいて最悪のシナリオを突き進んでいるにもかかわらずどこかで何度でもリセットが効くと思っているから始末に負えない。それがこの「おめでたさ」を形成している一つの要素にもなっている。それは同時にこの「おめでたさ」の怖い一面でもある。「バライティ」の乗りの中で、笑いの内に自らの位置さえもわからず終焉を迎えるようなものである。突然、バッサリとすべてが切られても現実感覚を喪失していてリセットボタンを押し続けているのではないかとさえ思える時がある。現状を「流し読み」しても歴史にリセットは「絶対」にあり得ないという極当たり前のことがわかっていないのであろうと思われる。それは事後処理、事後対応を見ているとよくわかる。歴史は繰り返しているようで同質、同形のものは一瞬たりとも存在し得ない。そして、元へは決して戻れないということである。
「結果がすべて」とおっしゃる御仁の結果はすでに出ているのである。それとも、それは「結果」ではなく「続行中」(具体的行為内容は不明)である限り「一過程」に過ぎないとでもいうのだろうか。そのとおり、歴史上で「結果」など出しようがないのである。ということはこの御仁の文脈の中の「結果がすべて」という言辞自体にすでに虚偽があるということになる。「『結果がすべて』とおっしゃる御仁の結果はすでに出ている」といったのは、この御仁の言動の因果関係だけははっきりしているということである。
2015 1/28
452.すべてはやっている振り
すべてがジェスチュアーである。まだ死んではいないがもはや死人同然。その亡霊のような者がやること為すことすべてが「振り」、ジェスチュアーなのである。「振り」、ジェスチュアーそのものがこの亡霊を動かしているともいえる。何があっても、起きてもそれに見合った「振り」をするだけでそれ以上のものはない、それ以外に在り様がないのである。あるのは次のジェスチュアーの見通しである。事あるごとにやっている「振り」のエンドレススパイラル。何かあるように見えるのはそのスパイラル運動の速度変化程度で、それを増幅、偏光させるのが大手メディアとその関連メディアである。
人生亡霊のごとく、やること為すことその場限りの言動で埋め尽くされているのでは、結果的には「後は野となれ山となれ」がもたらすものと変わりはない。それはそのまま「人間の境涯」にはいないという証にもなる。もし、それが人間そのものであるというのなら、「人間」などというコンセプトは無意味で、それを指し示す内容もないに等しい。そこには霊長目というのも怪しい、哺乳類ヒト科が現前しているだけである。どう思われてもこんな生き方だけはしたくないものである。やはりスピリットとゴーストとは根本的成り立ちが違うのである。
これは一体誰のことか、「例のヒト」である。敢えて固有名詞を出す程のこともあるまい。固有名詞の羅列などただ騒々しいだけで、耳目をひきつける安手の手口にはなっても俗化し易いので避けているだけである。
2015 1/25
451.「人道支援」?
しかし、意味不明の空疎な言葉が限りなく続く。こういうのを嘘の塊というのであろうが、もう少し巧みに事実も織り交ぜないといくら馬鹿でも気が付くのではないかとダメ出ししたくなる程事実無根である。「人道支援」で何かわかったような気になるのは日本国内限定であろう。「人道支援」の名目で渡された金をどのように使おうが相手の勝手で金の流れを追うことは不可能である。現在の国際情勢で限定的行為を除いて、具体的枠が不明な経済援助を「人道支援」などという言葉で置き換えて納得しているような「オメデタイ」ところはどこにもあるまい。憲法9条のストッパー的役割を巧言で緩めながら危険領域に一歩も二歩も踏み出してしまったことに変わりはない。もはやアイホン片手にまどろんでいることなど国内外を問わずできなくなってきているというのが現状であろう。いくら経済的詐術とはいえ、諸外国では大尽客のごとくに「人道支援」を行い、国内の「人道支援」は「絆」を頼りに募金で賄っているような実情ではあまりにもお粗末であろう。実際、あらゆる面でリスクだけが確実に高まっているのである。諸外国を「楽しむ」などという次元はもはや存在しなくなっている。どこに行くにも死を覚悟の自己責任といった具合である。愚行と愚策で自らの「強み」と「誇り」ともいえる憲法9条を「巧み」に無視して、挙句の果てにまんまとド壺にはまってしまった恰好である。これだけ飽きもせずいつまでも御大層な嘘で託けるのも異常だが、すでに異常などというコンセプトを通り越している。
それにしても、改めて言う程のことでもないが肝心なところで大手メディアの1%の立ち位置と一緒になって合唱しても地下にいる99%には決して光は当たらないのである。
2015 1/22
(番外日誌20150120)
今でも芥川賞・直木賞受賞作品ということで買って読む人などいるのだろうか、もしそうなら余程他に読む本がないのであろうと思われる。世に名著の類、読んでおいた方がいい本は古今東西一生かかっても読み切れない程たくさんあるが。