「ある日、その時」(35)2014年8月2日ー

<掲載内容>

418.「流行作家」の限界性 419.騙すことの心地よさ 420.「心理」解析とは「真理」にあらず 421.人生の味わいを失った人々 422.「ガス抜き自在弁」 423.「75万部突破」?ー朽木の下、群盲は我が身を忘れー424.いつまで続くmonkey showあるいはMachiavellism comme les jeux de singe 425.依存症とは隷属のことである 426.9月3日

 

                                                  (転載・複製厳禁)



426.9月3日


猿芝居 猿も逃げ出す 夜郎自大

実行実現するのは集団的自衛権行使と原発再稼働と増税と・・・

誅求には覚悟すれば逃散などという手立てもあるが。

 


425.依存症とは隷属のことである


 「ギャンブル依存症」、「アルコール依存症」、「ドラッグ依存症」etc 、依存症に陥っている人々とは敢えて奴隷状態になっている人たちともいえる。賭け事、液体、わずかな粉末に全身全霊を支配されているのであるから当然「まともな会話」は成り立つはずもなく、話す内容の展開も完全に閉ざされている。あるものに依存するということはその時点で自らの自由の放棄と他者への隷属の始まりを意味する。憂さ晴らしから始まった依存症というのは絵に描いた様な隷属の始まりであるであると同時に秘かな愚民化政策の功の一端さをも窺わせる。そういう意味では、弱みを握られて決して逆らえない未成熟な大人の大量生産に依存症は欠くことができないものともいえる。実際、投票権だけはあるが名ばかりの「市民」では自ずと先は見えてくるのである。現在、「ギャンブル依存症」だけでも何百万単位でいるそうであるから、それに「アルコール依存症」やその他の依存症を加えればどうなるか、さらに少子高齢社会であることを考え合せれば投票率が低いことも、とんでもないない「人間」が突然登場するのも頷ける。思考停止状態の依存症の者が生活に追われているだけという、今後ますます多くなるであろうこのような現状を考えれば、「アホ」に考える隙を与えぬというすべての流れは戦略として功を奏しているともいえる。また、たとえ「考える隙」があっても群盲(非市民)ばかりということになれば「小人閑居して不善を為す」ということにしかならない。

 因みに、私は依存するものも借金もない。足かせとなるものも一切ない。

                                                2014 9/1


 424.いつまで続くmonkey show あるいはMachiavellism comme les jeux de singe


 Machiavellismなどはマキアヴェリ以前(15世紀以前)からあったことで世界史を見渡せば然もありなんという一つの統治様式であるが、一応民主主義国家であることを標榜している国が権謀術数主義を露骨に尚且つ平然と為し得ていることには御多分に洩れず違和感以上のものを感じざるを得ない。Machiavellismを似非民主主義のフィルターを通せばすべては遠回しな虚辞、歯の浮くような美辞麗句の類にならざるを得なくなるのは当然のこと。だから、何もかもが「猿芝居」にしか見えないのである。そして、重要なのはMachiavellismの信奉者は例外なく「似て非なる人間」とならざるを得なくなるということである。彼らの言動のほとんどは「虚言」、極まれに出る「近似値」は次の目的達成のための布石に過ぎない。どちらにしても騙されるのは徹頭徹尾大衆であることだけは確実なのである。それは権力的統治様式そのものからくる論理的帰結である。

                                                          2014 8/29


423.「75万部突破」?ー朽木の下、群盲は我が身を忘れー


 「75万部突破」、「100万部突破」等々、よく本屋の宣伝などで見られる広告であるが、今までこのような数値表示で買った本は一冊もない。内容紹介を見ているとさらに読みたくなくなる。よくこの程度で買う気になるものだと呆れ返る事が多いが、売れるとはこのようなものなのであろう。おそらく、楽しみ方、充足度の基準値が根本的に違うのであろうと思われる。昔、「Potboiler」という粗製乱造文学の作家を皮肉った芝居の演出をやったことがあるが、金が目当ての書き殴り、それ以外に書く必然性のない「いかさま師」、すなわち俗物のどこにでもいそうな人物設定であった。世の中にはそのようなPaperback writerが作り出す「いかさま」で事足りる者とそれでは「楽しめない」者がいるということに過ぎないが、俗物のことがよくわかるというのは自らが俗物である証でもある。俗物ではない者には俗物の描く世界は不快感を惹き起こすだけでまったく興味の対象外になる。非俗的領域の住人にとっては、「わかり易い」抒情に棹さすだけの実は「何もない」通俗小説、あるいは商業演劇(日本に特化したコンセプト)などの類は結局のところどこにも「面白味」を見い出せないままその捉え方、切り取り方の浅薄さだけが見えてしまうのである。これは他のジャンルにおいても言えることで、例えばハウツーものなどについても同様である。ダイジェスト、小冊子程度の知識ですぐにわかったつもりになる者とはPotboilerなどの恰好の餌食でもある。

 もし、「わかり易い」ハッピーエンド、あるいはアンハッピーエンドなものが常にベストであるなら、「日本人」は根本的には「水戸黄門症候群」から抜け出すことは困難であろう。何をどう取り上げても白地に赤で描く、またはその逆の描き方にしかならないからである。だから虹を描いても、地獄を描いても赤のグラデーションにしかならないのである。それは他の色彩の存在を知らないかのようでもある。観想など為し得ぬ者が観想のよすがとするような単色で世界を再構成しても何も見えてこないのと同様に、小動物を踏み潰していることさえわからぬ群盲が朽木の下で「仮相」の巨象に群れていくら撫でまわしてみてもその実態は何も見えず埒もないのである。

                                               2014 8/27


422.「ガス抜き自在弁」


 「ガス抜き自在弁」とは、主にテレビなどで適度に「庶民」に「ガス抜き」をさせるキャラクターの総称である。政治、経済などの社会情勢について分かったような分からないようなことをとうとうと意味ありげに痛くも痒くもない「毒舌」と称する気分操作を交えながらお茶を濁す者たちのことである。結局、後に何も残さないことをその主な務めとするのが「ガス抜き自在弁」である。彼らを買い被っているとえらい目に合うのは多くの視聴者だけである。彼らは「ガス抜き自在弁」として高額な収入を得るが、それを見ている者はただ馬鹿を見るというだけの話である。それは「踊るアホに見るアホ、同じアホなら踊らなにゃ損、損・・・」とばかりの操り踊りをしているかのようでもある。「ガス抜き自在弁」の大衆に媚びた自虐的な傾向は一時視聴者を惹きつけはするが、それは飽くまでそれまでのことで何かあるようだが何もない。実のところ終始一貫体制内の「ガス抜き自在弁」としてしか機能していないというのが彼らの実態である。

                                                     2014 8/24


421.人生の味わいを失った人々


 人生の味わいを失った人々、それはそのまま人生の「味覚」を失った人々でもある。何とも哀れでもあり愚かしいことであると同時にそれは危うい存在でもある。その国の現状を見るのに情報収集も専門筋の分析も必要ない。特に青年層に浸透している文化一般の様態を観察すれば自ずとその行く末は見えてくる。文化の低迷とは言ってみれば人生の味わい方を知らぬ人々の集積体が自ずと醸成する内容の浅薄さである。それは「エスプリ」のなさとも、センスのなさとも通底してる。

 その国の盛衰に大きく影響する少子高齢などという社会現象も因果応報、すべての必然的結果に過ぎない。今更小手先、詭弁の類の「抜本的」対策で修正できることではない。今となっては、人生の味わい方も知らぬ親に育てれた子が親を反面教師とすることを願うばかりである。

                                                  2014 8/23


420.「心理」解析とは「真理」にあらず


 世間を賑わす「出来事」について、登場する「心理学者」の「解釈」を読んでいると思わず失笑、噴飯ものがよくある。「分析」というにはあまりにも皮相的で、そうかといって何を語っているか、語りたいのか,これでもし何かを語り得たと思っているのならあまりにも「おめでたい」ということである。「心理学的枠組み」の中で語り得るものがこれだけだとするなら「心理学」とは一体何か、何か意味があるのか、どちらにしても「真理」に至る道どころか「真実」、「事実」などとも乖離しているのではないかと思われることの方が多い。多くの者もこれで何かわかったようなつもりになっているのならやはり何ともオメデタイ話と言わざる得ない。そして何となくわかった気にさせるのが「心理学」の役割であるなら、その役割自体が問題となる。大衆の「心理」を掌握する「術」を駆使すれば、大衆の制御は比較的容易でもあろう。黒を白にするのもグラデーションをつけるのも可能である。そこでは問題が問題化することもなくそれ以前に制御する側に都合のよいように問題が「感覚化」され歪曲化されてしまうのである。特に「ものわかりのよい」未成熟な大人をコントロールするのは手もないことであろう。                                   

                                                    2014 8/14


419.騙すことの心地よさ


 「我はなど思ひてしたり顔なる人謀り得たる」時は楽しいと平安期の才気煥発な乙女も書き記しているから鼻持ちならない「ドヤ顔」の人間の鼻を明かすのはさぞかし気持ちのよいことに違いない。「騙すことの心地よさ」とはその程度のことである。しかし、考えてみれば「嘘も方便」といった類の嘘から二枚舌の「大ぼら」までわれわれは嘘に囲まれているともいえる。許せる嘘については人さまざまとして済まされるもするが、許せない嘘というのは規模の大小にかかわらず個々の許容ですまされる問題でもなく被害も甚大となる。許せない嘘のターゲットも最近では「したり顔」の「強者」ではなく「弱者」が中心という体たらくである。これもまた「上」から下々まで金太郎飴状態であるというより、むしろ「上」が率先してそのような状態を作り上げているという節さえある。何かというと「弱者」がターゲットにされるということはその社会の脆弱性の証左であると同時に本来向かうべき方向に矛先が向けられていないということでもある。それはどちらにしても「したり顔なる人」の思惑どおりということである。いつまでも朝三暮四の猿ではしかたあるまい。

どこからか舞台の台詞が甦る 

「愚かな臣民どもよ!騙されることの心地よさが骨の髄まで沁み込んだとみえる。どうやら集いたるところも見失って、後は余の思うが儘・・・。」

                                             2014 8・8

 


418.「流行作家」の限界性


 「流行作家」とは、やはりそつなく、当たるような障るようなそれでいて何も当たらず障らず、結局のところ社会的諸問題に対しても「縫うこと」だけは巧みな売文を生業とした者と言った方がよいのかもしれない。「縫うこと」だけはしたたかであるということは必然的に「核心領域」も縫わざるを得なくなるものである。読ませる「技」も才能の内ではあろう。なるほど誰もが器用である。しかし「技」だけではすぐに飽きる。「ダイジェスト版」、「速読」、「ライトノベル」などで「充分な」者にはそれが手頃なものなのかもしれないが、やはりそれでは物足りないと思う者がいても何の不思議もない。またそうでなくては「肝心なもの」の深化、展開はあり得ないだろう。何でもすぐに分かったような感覚を与えるものとは実のところ右から左で何の役にも立たず養分にもならないということの方が多いものである。また単なる「慰み」、「娯楽」などとはいってもその皮相的な部分が実は「根本」部分と常に微妙な相関関係を形成している以上、「本物」あるいは「本物」を求める者にとってはただ「縫う」だけの「技」だけでは「慰み」、「「娯楽」としても成り立ちようがないというのも当然のことである。幸か不幸か「本物」、「偽物」の区別が不鮮明である者とは「本物」の「在り様」すら知らない「おめでたい」者ともいえる。実際、「流行作家」のみならず、いかにも「本物」らしきものが実はまがいものであったという具体例は昨今では「上」から「下」まで枚挙に暇がない。そして、多くの者は妙な「光りを放つ」まがい物に引っかかることはあっても、本物に引かれることは少ないというのも実情である。しかし、そんなことは何も今に始まったことではない。

 人はうそにてくらす世に なんぞよ燕子が実相を 談じ顔なる  

                                                   ー「閑吟集」ー

 

                                                     2014 8/3

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