「ある日、その時」(33) 2014年5月14日ー

<掲載内容>

403.「どんな芸術も・・・」?404.「Kさんのおもちゃ箱」とは 405.侠気と熱と 406.見るも愚か、聞くも愚か 407.貧しき者たち ーネット上の安易なつながり、そして「共感」?ー 408.空言人の絵空事  409.Aの曰く、そして、日々戦場 <番外日誌20140621>サッカーが日本の現在の文化レベル <番外日誌20140625>キッチュはキッチュである。<番外日誌20140630>ブッラク企業まで「風評被害」としらを切る

                                                 (転載・複製厳禁)


<番外日誌20140630>

 ブラック企業に至るまですぐにわかる嘘を「風評被害」としらを切る浅ましさである。一介の経営者ごときが従業員の全人格に介入して思うが儘に動かそうとすること自体が精神的にも未成熟で低レベルな内容なのである。企業のカルト化、それは貪欲な成功主義者にとっては悪魔の手招きでもある。それについては以前にもブログで取り上げたので今更繰り返すまでもないだろう。遅かれ早かれ破綻は必至。


<番外日誌20140625>

 キッチュはどう意味づけても、たとえそこに何らかの価値を見出し得たとしてもキッチュである。キッチュに慣れ親しんだも者の人生もまたキッチュで、想像力の貧困な者には致命傷でさえある。キッチュは全感性に簡単に浸透してゆく。


<番外日誌20140621>

 日本サッカーは現在の日本の文化レベルの様態、在り方をも具体的に象徴している。後は何をか言わんやである。すべてにおいて、実のところものを知らない、知らされていない状態とは常にこのようなものであろう。いい加減マスメディアに踊らされるのはやめたらどうかと思うが、そこから脱却するのは容易ではなさそうである。


409.Aの曰く、そして、日々戦場


 久しぶりにAに会った。彼も人と会うのは私ぐらいらしく、喋り出すと堰を切ったようになる。しかし、とてもそのすべてを書くわけにはいかない。またそんな必要もないだろう。差し障りのないものを思い出しながら・・・

 Aの曰く「先日、電車に乗ったが、さすがに日本の三代新聞など読んでいる者は少なくなったが、それでも読んでいる奴がいるとつい気になって新聞名と顔を見てしまう・・・、やはりそうだろうなと納得する。今じゃ、みんな下向いて携帯電光掲示板ようなものいじっているから目のやり場がないということはなくなったが、週刊誌の吊るし広告を見ていると、ようこんなもの読む気になるなと思うが、読む奴がいるんだろうな。あんなもの見て読もうと思ったことある?」。今更私に聞くことでもあるまいと思ったが、私は「買う気すら起らない、すべて底は割れているし、何を言いたいのか、何を狙っているのか手に取るようにわかる。どうしても気になる事があれば斜め読みで充分。大したことは書いてない・・・」と答えると、「そりゃ当然だ。内容的には今も昔も50歩百歩だが、アホらしさが露骨になってきた」。私が「要するに買わなきゃいいんだ」と言うと「だから買わせるためにアホらしさがますます過激になるんだな、脂ぎったおっさんの妄想でも何でもいいんだ」。「通用するのは日本だけ」。「いやいや、そういうの多いな」。・・・・・またAの曰く「外じゃ何を食わされるか分からんので飯まで自分で作っている。どの店に行っても福島産なんかいつも大量に売れ残っているしな、何だかんだ言ってみたところでみんなそういうことだけは敏感なんだ。今までだって安心して食えるものなどなかったが、ここにきてさらになくなったという感じだ。長生きしたいなどとは思わないが、訳の分からぬ奇病で死にたくはない」。私も「国内産などという表示は今は何の意味もない、むしろ逆に勘ぐられるだけだ」というようなことを言った。

 Aは、「大手」マスメディアなどが日々さり気なく提示している「すべて」はその逆がほぼ正解に近いという。「大丈夫」、「安心」は「危ない」ということ、「危ない」はほぼ起こり得る可能性がないということである。ただし免罪符程度にあるいは全体を本当らしく見せるために1割程度の事実、実情に近いものも紛れ込ませるのでその注意も必要であるという。要するに「主権者」が最低のチェックも怠り、単なる「人任せ」ではどうなっても自業自得ということなのであろう。また、事実を糊塗、隠ぺいする者に一分の容赦も必要はないともいっていた。

 コーヒー一杯の2,3時間の再会ではあったが、何があっても起きても不思議ではない俗臭、腐臭芬々たる世にAもよく耐えて生きてると思われた。

 

 しかし、最近、私の目の感度、位置は戦場カメラマンのそれに近くなってきていると感じる時がある。

                                                            2014 6/20

 


408.空言人の絵空事


 空言人の絵空事とは、もちろん空中楼閣であるが、トロンプルイユ(trompe-l’oeil)で地上にあるように見える。またそのように見せるために種々雑多な「御用」の者たちと多くのメディアが存在するといってもよい。この基本構造は何ら変わってはいない。権力の周辺に集い,嘯く(うそぶく)者たちの作り笑い、微笑み、深刻ぶった表情、論理破綻をきたせばすぐに「感情の虚偽」で繕うあさましさ、どこを取ってもB級映画の「詐欺師」並みである。「現実とはそんなに甘くない」という「現実」とはこのB級映画に出演できないことを指す。 

 昨今では、凡夫が詐欺師なのか、詐欺師が凡夫なのかと思える程であるが、その一方では、日々の自殺者である。彼らを簡単に「負け組」などと振り分けていると明日は我が身である。むしろ、彼らの方が恥もあり良識もある人々であるとさえ思えてくるから不思議である。どう見ても詐欺師でしかあり得ない厚顔無恥な者が自殺したという例を私は知らないからである。自殺者自身の意識は別にして自殺自体はすべて社会に対する無言の抗議でもある。そう見れば自殺者は今後もますます増え続けることはあっても減ることはあるまい。自殺者の数はその社会の無能無策を測る尺度にもなるが、それを「文明国では普通の数値」などとのたまう「識者」が現れるから困ったものである。物知りの 浮かれ腰、落ち着く先は 常に親方日の丸とでもいうべきか、敢えて言うまでもない。 もし生き残る者が常に鉄面皮で、良識の欠片もない詐欺師ばかりということであればその社会の破綻、破局は目に見えている。日本が実際に「沈没」するより先に人心の劣化とRS(放射性物質)の負の無限連鎖で荒廃することの方が問題となる。地球物理学上からも危うい所に位置する日本列島に50基前後の原発があること自体も不可解なのである。小松左京の「日本沈没」と時を同じくして1970年ごろから原発の建設は始まったが、現在では自然災害が〈自然対人間〉などという単純な枠の中だけで捉えることはできなくなっている。自然災害による原発事故はRS(放射性物質)の流出、拡散という事態を引き起こし、多くの大地、森林、山々が半永久的に死地化するということである。福島原発の現状を見ても、それを否定し得る明確な根拠も、論拠の提示できないのが現在の実情である。3・11以後の経緯は、RS(放射性物質)に関する妙に楽観的な見方をしている者のいかがわしさを見せつけもした。そういう意味でもRSとは実によいリトマス試験紙であった。40年以上も前の「日本沈没」という作品は今や単なるSFでも正月映画でもなくなっているが、さらに悪いことには人間的タームを遥かに超えているRS(放射性物質)のある原発が日本全土を包囲していることである。そして、忘れた頃にやってくる大きな自然災害というのは、常に人知を超えた計り知れないエネルギーを持っているものである。そして、それはあまりも「劇的」過ぎて一瞬映画を観ているような感覚を与えるが、次の瞬間には恐怖心など起こす間もなくすべてを飲み込んでいくのである。

 青天井 空言人の 絵空事  

正気付くのはいつの日か・・・

地獄を見るまで果てはせぬ・・・、

さあり、さありと成り果てん・・・

 

と、どこからか妙に明るい三部合唱まで聞こえてくるようである。

 

                                                     2014 6/7


407.貧しき者たち ーネット上の安易なつながり、そして「共感」?ー


 貧者にめくじらを立てるのも貧者で、直接いがみ合うのも常に貧しき者たちである。そして、ほくそ笑むのは・・・

 最近では、貧者の浮かれ歩きを目にすることはなくなったが、そこ彼処の薄闇から独り言のように、一人芝居のような会話が聞こえてくる。こちらに向けられた言葉かどうかも定かではない時に、耳からイヤホーンコードを垂らし、自由になった両手から様々なジェスチャーが突然現れるものだから一瞬身構えてしまうこともしばしばである。月天心 貧しき者が 蹲り、うずくまっているからどうしたのかと思えば、やはり独り言のような会話が聞こえてくる。ある時は激高し、ある時は陳謝し、自らを見据えることより他者とのイリュージョンに身を託す。イリュージョンに裏切りは存在しない。嘘に向けられた嘘に、あるいは嘘と本音の間に作り出された「思い込み」に明確な裏切りと言い得るものはありようがない。実際、勝手に裏切られたと思い込み、自らを犯罪に追い込んでいくというケースもこれまでにいくつかあったが、それもイリュージョンに突き動かされているとしか言いようがないものが多い。「優しい言葉」も「慰めの言葉」も「憎しみの言葉」も「共感の言葉」さえも発信者にその言葉の明確な根拠を見い出すことは不可能である。簡単に共感し、容易く唾棄するのはそうした事情に因る。そして、唾棄されれば全人格的に否定されたように錯覚する。もはやその時点で人間が人間を全人格的に否定することなどは「神」でもない限り絶対に不可能であるということが完全に忘れ去られている。他人の「気持ち」、「共感」などを追い求めること自体がさもしく「貧しい」のである。それは日々やるべきこともせず賽銭箱に小銭を入れて大願成就を求めているのと大して変わるところはない。安易な「つながり」、「共感」に一喜一憂するより自分自身を見つめ、叩き直す方が先決であろうと思われる。

 「知り合いと交流」、「情報をシェア」、「オープンでつながりのある世界」、素晴らしい世界への誘いのようだが陥穽(落とし穴)はいくらでもある。実質的なメリットは本人以上に「第三者機関」の方にあるだろう。かくして万人の「自分をわかってほしい」という「切ない思い」は発信と同時に現状報告と自主的告白ともなる。ただし、それに見合うメリットがあると思えば使えばいいだけのことである。

                                                    2014 6/3


406.見るも愚か、聞くも愚か


 これも以前取り上げたことではあるが、どうして後始末もできない、人間の手に負えない「原発」に再び手を出そうとするのか。ここでまた現実的正当性を説く経済的諸説など聞くつもりもないし、聞き飽きている。要はそんな次元の問題ではないのである。この「原発」に関しては、人間の能力をはるかに超えているものを人間が「操作」しているつもりになっているだけで、いわんやしたり顔で放射性物質に対する恐怖感を払拭させようとする有象無象の学者の講釈など当てになろうはずもない。不明領域、危険領域のあるものに関しては何事も大事を取るのが鉄則で、特に放射性物質はいくら危険視しても足りるものではない。原発事故などの放射性物質の影響については、どのように隠ぺいしようとしてもやがてその影響は白日の下にさらされるのは必至である。よく実態調査もせず何もかも「風評被害」で片付けようとする者たちは自国民どころか世界の人々も裏切っていることになる。彼らと彼らに同調した者はいつか必ず裁断されるだろう。原発事故について何をどう言いくるめてみても事態がそれを裏切る。現状から真相が漏れ出てくるのである。「放射性物質」は人間の姑息な糊塗、捏造などで太刀打ちできる対象ではないことを再確認すべきなのである。その超時間的エネルギーに人間的作為などは瞬く間に覆されてしまう。福島原発事故は日本にとっても最後の警告といってもよい。それを無視して突っ走ればどうなるか、再び事故が起これば死地は拡大し、もはやこの小さな国に戻る大地はない。

※最近の「吉田調書」に対する政府の動きを見ていても、「機密保護法」施行後はすべては「風評被害」として実態調査もなされないまま処理される可能性があるということを肝に銘じておいたほうがよい。吉田調書の「事故直後に9割にあたる約650名が吉田所長の待機命令を無視して”逃亡”云々」などの内容を原子力規制委員長も読んでいないということである。後は推して知るべしであろう。火のないところに煙を立たせるのも昨今の事情ではあるが、真の「風評」は起こるべくして起こるのである。

                                              

                                                                                                                                     2014 5/22


405.侠気と熱と


 立夏を過ぎてなお暁を覚えずといった日々であったが、風音の中でどこからともなく鉄幹の「人を恋うる歌」のいくつかの節が頭の中で流れ出した。 

「友を選ばば書を読みて六分の侠気 四分の熱」、今となっては侠気と熱など右を見ても左を見てもどこにも見当たらなくなった。侠気とは、強きをくじき弱きを助ける心だてのことである。いつの頃からか弱きをくじき強きを助けるような無粋者ばかりが跋扈し始めるようになってしまった。「おなじ憂いの世に住めば 千里のそらも一つ家 己が袂というなかれ やがて二人の涙ぞや」、現状は「右」だ「左」などといっている場合ではない。是か非かである。「右」だ、「左」だなどともっともらしく振り分け、問題の焦点をぼやかし、貧しき者同士を無益な争いに駆り立て漁夫の利を得ようとするのは一体誰なのか。もし損得に聡いのが取り柄であるなら事は明快であろう。

 「ああ、われ如何にふところの剣は鳴りをひそむとも 咽ぶ涙を手に受けて かなしき歌の無からめや」

「天地を恋うるなさけは洩らすとも」、「世をいかる はげしき歌をひめよかし」であることも充分わかってはいるが、鉄幹自身もどこまで抑えられたか。大声で歌い「酒に狂う人」とまでいわれているではないか。わたしは今では一滴も酒を飲まなくなってしまったので酒に狂うこともない。というより、今のわたしには酒に狂うということはそのまま死と同一線上に立つことを意味する。それはもちろん健康上の問題ではない。

                                              2014 5/20


404.「Kさんのおもちゃ箱」とは


 かなり前、私は、「それはKさんのおもちゃ箱のようなもの」という言葉であるものをたとえたことがあった。どこかに夢の欠片を感じさせる表現ではあるが、ある意味では残酷でもある。自分にとって一番大事なおもちゃは箱などには放り投げない。おもちゃ箱に入っているものとは、言ってみれば興味の薄れたガラクタ同然のものなのである。その人のおもちゃ箱に入れられたということは、もはや気が向いたら使う程度の対象でしかないということなのである。それでも行くところのない者には唯一の自己証明の場でもあったのであろう。しかし、それは同時に怠惰な愚かしい人間の温床でもあった。

 ある時、私の遣った表現をそのまま遣っているいる文章に出くわしたが、その文脈からは残酷な意味合いは抜け落ちていた。うまく「取った」つもりでもコピペのレベルとはその程度のものなのであろう。

                                                   2014 5/18


403.「どんな芸術も・・・」?


 「どんな芸術も何世紀もかけて作った自然の景観にはかないません。」繰り返されるありふれたコピーのような内容であるが、もっともらしい嘘であると言ってもよい。自然の景観を見て自己の世界観が根底から覆った者が果たして何人いるか、しかし、ほんとうの芸術といわれるものにはよくあることである。私は、自然の景観を見てというよりそこに身を置いてはじめて自分の世界観がひっくり返ったという日本人を一人だけ知っている。それはアフリカの大地でのことである。ネイチャーショックともいえる環境格差が彼を圧倒したのである。しかし、そのことには彼が日本を出ると思い立った時の「精神状態」も大きく影響している。彼ですら「自然」というより「芸術」に圧倒されているのである。「自然は芸術を模倣する」というワイルドの言葉を出すまでもなく、人間の精神的営為の結晶、すなわち芸術は様々な人間の自然の「読み取り」を指し示しているのである。その積み重ねがなくしては人間は「自然の景観」など「見る」ことさえできぬといっても過言ではない。何世紀どころではない紀元前の芸術は未だに生きて、われわれの五感の隅々に影響を与えているのである。実のところ芸術なくしては自然の享受の仕方もわからないのが人間でもある。たとえどのような素晴らしい自然の景観を見たとしても、それはそこにあるだけのことにしかならないのはそのような事情による。

                                                          2014 5/13


 

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