「ある日、その時」(28) 2013年6月22ー

<掲載内容>

362.取り巻きの提灯記事に認知症のごとく 363.オウム真理教のような「ブラック企業」 364.「ねじれ解消」??「The Diet is twisted」??? 365.「ホリエモン」が朝日新聞記者にキレタそうだが 366.行住坐臥アイホン 367.エンターテイメントと医療産産業 368.「ナチス肯定『断じてない』」とは?

                                        (転載・複製厳禁)



368.「ナチス肯定『断じてない』とは?


 今更どう取り繕っても取り返しはつくまい。実際にやっていることは、改憲の方向で「狂騒、狂乱」は避け、国民の知らない内に多数派を構成し得る改憲派の「慎重な議論」を進めていることは容易に推定できることである。この「慎重な議論」というのが、政府が定めた法律に矛盾する憲法の規定は効力を失うとするナチスの「全権委任法」を何段階にも分けて国民が気が付かないようにもっともらしい名称に変え成立させていくことである。「ねじれを解消」した現在それはいつでも可能なことである。この「全権委任法」に該当する法律によって憲法を形骸化させていくのである。そのような実態が、ナチスの現代史的位置づけ、歴史認識もほとんどできていない者の口から「素直に」こぼれ出たということに過ぎないが、同時にこの程度のレベルの者が日本には数多くいるということが世界にさらされたのである。しかし、その弊害は計り知れないものがあるだろう。もはやバカとかアホとかあるいは人間的集約で済まされる問題ではないのである。以前、「サカキバラ事件(神戸連続児童殺傷事件)」というのがあったが、事件を起こす前に少年が母親に「僕、なんだか変だ」と訴えた時にその母親はヒットラーの「わが闘争」という本をその子に与えていたことを思い出した。この母親には機会あるごとにメディアにのる(ここではメディアの責任は言及しない)ヒットラーが歴史に登場した「世界の偉人達」として映っていたのであろう。恐ろしき無知である。やはり無知は罪悪で、罪は背負うべきというよりこれは因果応報ということが避けられないという証左でもある。

 ヒットラー登場前夜のドイツと現在の日本が酷似しているという識者もいるが、確かに状況は似ている。そして、人類には「ヒットラー」という「狂い」が生じる危険性は常にあるが、その出現要件が酷似しているからといってまったく同様の「こと」が再現されることは歴史上あり得ない。第二次大戦後、日本以外の欧州各国においては明確に「教訓化」されている一国のヒットラー的「狂気」が再び世界を席巻する可能性はどちらにしても「死産」か「流産」を余儀なくされるというのが現在の世界情勢でもあろう。したがって日本が思っている以上にそのような兆候に関して欧州各国は鋭敏に反応する。それがもはや人類の死滅の道でしかないからである。現在進行中の「時代」、時の様相を完全に「距離を置いて観る」ことなどは「人間」にはできないが、最近の日本の一連の動きに対して世界は当然のごとく要注意国家の認識さらにを深めていることは否定できない。しかし、それは飽くまでまだ米国の手の内にあることとしてである。ヒトラーの模造品も米国の手の内にある内は従属国家としてのよりよき実験材料、取引先でもあるが、少しでも手の内から外れれば容赦なく、場合によっては完膚なきまでに叩かれる具体例は現代史的にも周知の事実であろう。今のところ辛うじて米国の従属国家はさらなる従属国家を求めて経済援助の名の下に近隣、「親日」国に手を伸ばそうとしている。「美しい国」などがあり得るのは日本国内の妄想に生きる偽りの民の中にだけで、もはや観光レベルの話でさえ三百代言の言辞のごとく「白むもの」が蔓延してきている。ここに来て以前からあった「金がすべてのガサツなイエローモンキー」という日本人に対するイメージはさらに強まったことであろう。それは「奥ゆかし」さの奥には実は何もなかったということがさらけ出されたということでもある。世界に誇れる文化を持つ国が結果的には自らを貶める偽りの者達にどこまでも蹂躙され続けた必然的結果である。やはり行き着くところまで行くしかないのかもしれない。それが修復不能の奈落ではないことを願うだけである。

 すべてにおいて形骸化が進行性癌のように「人知れず」拡大しているのが現在の日本の実情でもある。

                                                  2013 8/5


367.エンターテイメントと医療産業


 エンターテインメントと医療産業に対する関わり方と捉え方見ているとその人間の蒙昧度とスタンスがよくわかる。無知蒙昧とは「普通」ではなく、それだけで罪なのである。「笑いあり涙あり」などのコピーだけをたよりに群がる人々。「笑いあり涙あり」のドラマを「抹香臭い」薄暗いドラマと比してエンターテイメントに「昇華」したなどと訳のわからぬことを開陳する訳あり芸能ライターなども含めこの国の文化レベルの低俗さは否めない。私はエンターテイメント性のあるものは好きであるがそれがすべてではない。敢えて「昇華」させることを拒否しなければならない内容もあるということである。「抹香臭い」ものもエンターテイメントも引き寄せて同時に味わい尽くすというエネルギーもスタンスも持ち合わせていないから現状を真っ向から引き受けることも見据えることもできないのである。「笑いが健康にいい」、「笑っている人には放射能は影響ありません」と聞けば笑わなければ損とばかりに「笑い」を求める。それは笑い飛ばすという意味合いの「哄笑」とは異質で、どこか病的で引きつっている。それは、暗い時に明るいものだけを求めるということが老若男女問わず人間の捉え方としては不健全で浅薄過ぎるということにも関連してくる。いつだったか前歯のない禿頭の御仁がテレビのAKBの選挙番組に真剣に一喜一憂している姿を見て改めて日本の現状を垣間見た覚えがある。この御仁もやがて医療産業に全身絡め取られて身動きつかなくなるのであろう。体だけならまだしも死を前に相変わらずAKBのテレビを観ているのであろうか。「抹香臭い」ことを嫌う傾向は実は本来の「生」を大切にするというよりはルーティン化された日常に容易に戻れることだけを希求する、すなわち「思考」の拒否を意味するといってもよい。現実の様相は実際には老少不定、しかし、日々生死を考えていたのでは「計算」が成り立たないとばかりに「死」を感じさせるものを排除することに躍起になるのであるが、それによって却って「計算」に狂いが生じることがあるのも自然なことである。その狂いと「抹香臭さ」を前意識の段階で関連付けて忌み嫌うのである。一時「プラス思考」などという俗流ハウツーモノが流行ったことがあるがこれにも決定的な「死角」があるのもそうした事情による。「抹香臭さ」のないエンターテイメントだけを追いかけ、現状を見ることさえできずにわれとわが身の姿も位置も見失い、挙句の果てに訳も分からずに人体実験のごとくに医療産業に貢献する。それが笑いもあり涙もある人生だとでも言いたげに聞こえてしまう。不可解である。現状を直視されては困るのはどこの誰か?簡単明瞭なのである。今では、人生を「笑いあり涙あり」の調子で矮小化されても何が面白いのかと思う者も多いことであろう。実際、福島には日々刻々変化するいつ果てるともわからない収めようにも収めきれない人間の力をはるかに超えた現状がある。そこでは現実を直視することしかもはや抜け出せる道はないのである。そのような状況の中で、歌あり踊りありの泣き笑い演劇を展開してもやる側の満足度の方が観ている側より遥かに大きく、やる側がいかにもっともらしい意味づけをしても「売名行為」だといわれれば甘受するしかないところがある。要するに「飢えた」人々の前で芸術・芸能一般が何の役に立つかということに尽きるのである。もしそのような芸能一般の活動が人々を現実から目をそらす働きかけの一要素になっているとしたら、それは「罪作り」なことをしているに過ぎないことにもなる。そして、現実的にそこでは意識の持ち様とは全く関係なく今後もさらに「原因不明」という名称の原発事故の影響は増え続けることは否めない実情でもある。おそらく放射性物質の影響であったとしても検証不能ということで原因不明となるか、新たな病名をつけて処理されることだろう。文明社会の進行速度と「深刻度」に比例して病名だけは多くなるのが今までの経緯そのものでもある。新たな病名をつけられ者は精密検査ということで医療産業にまわされ、そこで癌が発見されれば原因究明より外科的対症療法にすべてが注がれることになる。

 また、今後もますます話題には事欠かないであろうブラック企業などと称される者達の跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)を見ていても、その内に「勝組み」「成功者」としてブラック企業社長の笑いあり涙ありの「奮戦記」でも出てくるのではないかとさえ思える。それが「昇華」されていれば笑って、泣いて「納得」するのであろう。 賢しら心ではなく、少なくとも私にとってはそのような人々は縁無き衆生でしかないように思われる。

                                              2013 7/25

 


366.行住坐臥アイホン


 歩きながら、座っている時、横になっても前後左右お構いなしのアイホン片手の喜怒哀楽。その様、異様である。常にその場には「人間」が不在で周囲をまったく見ていないというより、それは見ることができないかのようでもある。すなわち何を見ても「悟る」(「解読」といってもよい)ことなどは決してあり得ないのである。周囲に対する無関心はそのまま世界に対する無関心でもある。確かに、下手な香具師(やし)の口上のような街頭演説、TVなど見たくも聞きたくもないだろうが、騙されたくなければ、さらに言えば殺されたくなければ現実の読み取り作業は怠ってはならない。それは深慮遠謀、人間主義的見解(「人がいい、悪い」等々)などに巻き込まれることなく、ただ嘘を直感するだけでもよい。そして、それが許される範囲かどうかを見極め今できることをすることである。

 猛暑でさらに頭がやられたのではないかと思われる者が「愛国教育」を唱える。「愛国」より「愛民」が先決であろう。舌先三寸、お為ごかし、隠ぺいばかりで具体的に何処に「民」への配慮があるというのか、民を愛することもできないものが民に国への忠誠を強要する。本末転倒である。そのような国が「栄えた」例はない。亡びに至る寸前の狂気か、悪あがきか。これで「成立する国」とは転落する地点、方向が定まったということでしかなく、そういう意味では「動き始めた」ともいえる。ふとそんな思いに駆られながら夜道を歩いていると、車道を無灯火の自転車が突っ走ってくる、見るとアイホン片手にイヤホンをつけている。これはたまたま見る光景ではなく今や日常茶飯事である。本人は気が付かなくともこれは明らかに「自殺行為」なのである。そんな僅かなことからも見えてくるのは諸外国の「人々」との根本的違いである。それは現実的な「前後左右」の認識とその論理構成がもたらす近未来の察知能力である。アイホンは便利なのであろうが、日本の現状を見ていると数十万の否数百万の「人間」がそこが自分と外部との唯一の接点であるがごとくにアイホン片手に一方向にいつとはなしに囲い込まれながら行進している姿が重なってくる。そして、誰もが前方を、現前をまったく見ていないのである。やはり異様である。

                                               2013 7/19


365.「ホリエモン」が朝日新聞記者にキレタそうだが


 今更、展開の余地のない「大手」新聞などについて取り上げるのも気恥かしくなるが、その下部組織のような週刊雑誌の類もすべて同様である。そこに所属する「記者」という概念はむしろ「無料掲載渉外部員」、または「渉外係無料掲載担当」と言った方がより正確で、旧来の「記者」などというコンセプトとはまったく異質である。それでは以前には「本来」の「記者」という「ジャーナリスト」のコンセプトに該当する者がいたかといえばそれは稀にとしか言いようがない。「記者」ではない「無料掲載」担当の「渉外係」が広義の「大口有料掲載者」に関しては美辞麗句を並べ立て吹きまくるのは当然。無料掲載対象の話題の中心から少しずれたものについては勢い高飛車となるのも彼らとしては「普通の反応」なのである。彼らの書く「記事」の信憑性の度合いをどの程度に見るかは各自の勝手だが、私は10%未満、もしくはゼロかマイナス程度位にしか見ていない。彼らはたとえ書いた内容が誤りであったとしても紙面片隅に2-3行程度の謝罪文で済ませているのが常である。その程度の責任感しかないのである。「言論の自由」とは口から出まかせ、「操作」も含まれる、したがってその内容の精査・検討を必須条件としてしか成り立たないのである。「大手」新聞記事内容の類をただ鵜呑みにしていてはいつか「胃瘻(イロウ)」にもなりかねないというのが現状である。暑さ厳しき折、真の「自愛」とはいかに可能かを考えるべきではないか。

※「ホリエモン」が具体的に記者のどのような対応に「キレタ」かについては他を参照されたい。あまりにも然もありなんのことなのでここでは省略する。

                                                  2013 7/14 (7/16一部直し)


 364.「ねじれ解消」??「The Diet is twisted」???


 以前にも取り上げたがこの「ねじれ」というコンセプト、この言語操作でどの位置から発信しているのかは一目瞭然なのであるが、飽きもせずというのか、能無しの能ひとつというべきなのか、金のため魂を売り渡した者達の常態なのであろうが、「ねじれ国会」、「ねじれ〇〇」等々、とても民主主義国とは思えぬ未成熟な言語使用である。これで何か言った気でいる、またその気になっている者達とはどのような美辞麗句、筋立てをしても根幹部分に致命的な瑕疵がある。要するに民主主義国としては「普通」ではなく、危険であるということである。日本の多くのマスメディアが頻繁に遣う「The Diet is twisted」(国会がねじれている)ということについて民主主義国を標榜する諸外国の人々に聞いてみるとよい。何を言いたいのか分かるまい。分かったとしても逆に「ねじれていない」状態をよしとするお前の国は「one-party dictatorship」(一党独裁)なのか「Despotic government」(独裁国家)なのかと聞き返されるのがオチであろう。「ねじれて」困るのは実質的にも99%の国民ではない。1%の者達の口車にいつまでも乗っていたらわが家は火の車、それも火が点き始めれば我が家は保険金も下りない状態で一瞬の内に消失であろう。

 「彼ら」は、多くの者に偽りの「賢さ」を要求し、手足を縛る。その内に手足は壊死するが自然死のごとくそれとは気づかない。そして、「不自由」であることが「普通」のことのように思われてくるのである。

                                                       2013 7/8


 363.オウム真理教のような「ブラック企業」


 私は以前、まだオウム真理教が「活躍」していた頃に、これは企業経営者としては実のところ垂涎の的ではないかというようなことを言ったことがある。そして、その後ブログでも取り上げた。賃金なしの状態で一日中人を拘束してそれも上位のものに対しては絶対服従で言われたことはすべて命がけでこなして行く。企業経営者に限らず、居酒屋のオヤジでもそれは羨ましくもなるであろう。私はあの当時はオウム真理教の宗教内容について調べていたが、おそらくそれと同時進行で経営のノウハウと人心掌握術をオウム真理教から学んでいた者達は数知れないだろうということは想像に難くない。オウム真理教の類は、今でもそれと50歩100歩のものは枚挙に暇がないが典型的な俗流宗教で簡単にその土地の民間宗教を併合させ現生ご利益的方向、あるいは現世離脱の方向にもって行くのがその常套手段である。企業経営者はその人心掌握の要となる俗流宗教の部分に「拝金教」を持ってきただけなのである。それを右も左も分からぬあまりものを考えない中高生レベルの者を相手にもっともらしい空疎な「格言集」で、要は「金がすべて」という拝金思想で手を替え品を替えマインドコントロールするのである。このような「ブラック企業」と称されるところにいる社員の意識レベルはどうなっているのかということもあるが、自殺に追い込まれる寸前までいるいるということからもいかにマインドコントロールが行き届いているかが窺い知れる。「ブラック企業」とオウム真理教とは体質的にも同質なのである。戦後の経済最優先政策が「宗教は最終ビジネス」と豪語した教祖・麻原彰晃を作り出し、そして今、「ブラック企業」に巧妙に受け継がれているのである。さらに、驚くことに現在では「ブラック企業」以外でも文化系の「ひ弱」な優等生より元暴走族、ヤンキーなどを幹部社員として使う会社もあるという。その人間の「資質」にもよるだろうが、総じてそのような起用は邪道である。そもそも感性も知性も乏しい者の「資質」を企業側がどこまで見抜けるのかということにもなるが、実際に企業が彼らに求めているのは無思慮な鉄砲玉のようなパワーだけであろう。これもまた国内限定バージョンで少なくとも欧米では通用しない。企業にとって彼らとは使い捨ての「カンフル剤」なのか、その内寝首を掻かれないよう気を付けた方がよかろう。どちらにしても企業の質そのものが早晩問われることになるのは間違いないのである。

※因みに、中高生レベルとは必ずしも中学・高校生とは限らず「大学生」・「大人」も含まれる。

<追記>ここで遣われている「マインドコントロール」(和製語)の指示内容は他者の行動の指針となる精神活動そのもの入り込み操作する行為すべてを指している。したがって「洗脳」(訳語由来不明)などとの峻別は煩雑にもなりそれほどの意味もないと思われるので敢えて避けている。もう少し正確に言えば、ここでは自由選択がないまま視野狭窄の状態を操作された「自然な流れの内に」作り出し他者を否応なくある一定の方向に導く精神的操作全般を「マインドコントロール」という言葉で置き換えているのである。そこでは「洗脳」という物理的行為も程度の差はあるにせよそれに包摂される。

                                                 2013 6/26


362.取り巻きの提灯記事に認知症のごとく


 取り巻き連中の提灯記事でその気になっているというより継ぎ接ぎだけの「衣服」を身に着けて過去、現在、未来の時間の混在化の中で積み重ねが成り立たぬ認知症的状態にいる者、程度の差こそあれどの世界にもいる者たちともいえるが、そのような者たちをでっち上げる提灯記事を書く方も書く方でどの程度分かって書いているのかと思われる程の酩酊である。酩酊状態が金まわりを良くするのか、金まわりの良さが酩酊状態を生むのかは知らぬが、そのような提灯記事で飾り立てられてその気になっている者を見ているとつくづく時代に生きていない、生きられなくなってしまった者達の実相を見る思いがする。時代を真に受けとめられず、受けとめようともしない者達が時代の表皮に浮き上がってくるのはいつの世もさして変わらぬことかもしれないが、時は完結を拒み、「生きとし生けるもの」は歴史の「永遠」の無化作用、全体化作用の中に身を置くしかないのが世界内にあるものの在り様でもある。己が位置づけを忘れた娑婆気ばかりの「俗物」とは。現実的には私利私欲の過度な自己顕示欲に取り付かれた者ということにもなるが、「俗物」は自らを「俗物」とは認知し得ずそれが人間の「本性」であるがごとくに思っているが、実はそれ故に俗物なのである。名声、欲望に囚われ取り付かれた者と「豊かさ」への志向とは常に相反する。彼らに自由闊達の領域は存在せず、いくら「善行」、「正義」、「希望」を装っても結局ところ負のエネルギーに集約される志向性しか持ち得ぬのではないかとさえ思える。彼らの言う「建設」とは飽くまで「自己の建設」であってそれ以外の世界の「解体」である。そして、やがて「解体」に余念がなくなる。すなわち平和とは戦争ことであり、戦争とは平和のこととなるのである。

 嘘を嘘とは思わなくなるのは精神障害の一種でもある。それは娑婆気の多い「俗物」の防衛機制とも思える。「生き抜く」ための嘘がいつしかほんとうのこととなり、真実を覆い尽くす。虚偽の上に虚を積み上げても「実体・実態」」からは遠のくばかり。「虚」を「虚」として、嘘を嘘として捉えられなくなってしまってはもはや手の施しようもなく、自浄作用も完全に機能停止となる。

 ここで取り上げた「俗物」とは一日の労苦を終え、湯船に浸かって「娑婆の極楽」などと呟く者達とは異質である。

 世界を「精神病棟」と捉える演出家もいたが、今やそれは医者のまったくいない「精神病棟」と化している。実際にも、すでに認知症患者が認知症患者を「介護」しているというのが現状としてある。すなわち、それは自己認識する者が不在のまま、積み重ねも成り立ちようもなく終焉へと突き進んでいるということを意味する。

                                                  2013 6/25

 

 

 

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