<掲載内容>
346.「トモダチ作戦」で米兵が集団訴訟 347.運と才能とは全く無関係 348.「充実人生」、「老後の楽しみ」?? 349.ホスピス殺人事件 350.塀の外の懲りない面々351.愚直を装う策士達 352.今 神社の神木を切り倒すメンタリティとは 353.最近の取材で改めて感じたこと
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353.最近の取材で改めて感じたこと
やはり「蟹工船」などの本に老若男女が共感する理由がよくわかったということである。特にいつのまにか追い込まれやむなく就いた職業などには端的になおかつ露骨にそれが現れている。「蟹工船」当時よりさらに巧妙になっているだけにより陰湿でもある。社会的格差と共に否応なく入り込む「差別」意識が「底辺」で働くもの者達の中にも巣くい渦巻き隙あらば「目くそ鼻くそを笑う」がごとくの様相はさり気なく飽きもせず繰り返されている。しかし、ここで人間のメンタリティはいつになっても変わるものではないなどと半ば諦観気味に繰り言を並べ立てるつもりはない。むしろメンタリティは止まるところも知らず衰退・後退し続けていると見る方が妥当であろう。それは時折、目に入ってくる「ツブヤキ」のやり取りなどからも窺い知ることができる。そこに散見されるのはあまりにも無残な残骸という他ないメンタリティの構成因子そのものから来る想像力の貧困さである。金もなく、安酒と質の悪い脂肪で肥え太り、その上精神も貧困では「勝負所」はまったくなく閉ざされてはいるが、現状の貧困層の昼食時間もない残業ばかりのような職場では思考能力は自ずと低下するのは当然で、そこから発せられる「ツブヤキ」などもヘド同然にならざるを得ないのも納得できる。現状は敢えて愚民政策などを講じる必要もなく愚民化の方向ですべてが機能しているのである。しかし、愚民化路線で自ずと生み出された「兵士」などに一兵たりとも有能な「兵士」は存在しない。現在、低所得者層に限らずかなり広範囲な層のサンプリングの検証でも「衰退」、「後退」などがキーワードにしかならない。将来のことはすでに現在の内にあるとすれば楽観的な見解のすべては飽くまで主観、個人的な希望的観測としか言いようのないものに過ぎないと思われる。
2013 2/22
352. 今、神社の神木を切り倒すメンタリティとは
神社にある神木といわれるヒノキの大木の幹に穴を開け除草剤を注入して枯らし、切り倒す口実をつくり伐採する。とうとうここまできたのである。それはある意味で日本で現在進行中のすべての象徴ともいえる。これは、需要があればたとえ違法であってもその需要を充たすために供給手段を選ばないという倫理の欠如した終末資本主義経済の日常茶飯事に過ぎないかもしれぬが、もはや単にそれだけに止まらないところまできている。今、これだけ世界的に自然環境の問題がでてきている時に、日本でそれも神社の神木にまで手を出すメンタリティとは完全にある一線を越えてしまったということでもある。経済最優先の「再興」の名の下に隙あらば後始末もできない原発の全国的な再稼働を目論み、そして必要とあらば人間の何世代分の100年単位の樹木を次々と切り倒す。倫理なき資本主義経済の根幹でもある「後は野となれ山となれ」をそのままに突き進んでいるのである。もしこのような現状を伏せる方向で語られる「将来」や「夢」があるとすれば、それはどのようなものであれ崖っぷちで目くらましをくらわせているようなものである。私は必要以上に「日本人」を強調する「派」には与しないが、そのあまりのノウテンキな精神的荒廃に驚かざるを得ないのである。これではやはり何が起こっても不思議ではあるまい。日本列島そのものが外敵を想定する以前に現実的に自滅の危機に瀕しているのである。
2013 2/5
351.愚直を装う策士達
策士、ペテン師の類は例外なく人たらしであるということはAはAであると言っている以上の内容ではないが、口先だけで丸め込まれる者とは余程浮世離れしたものか、欲などに「目のくらんだ」者、痴れ者だけであろう。そうではない者達が騙される場合は口先だけではない「愚直さ」が巧妙に入り込んでいる。それは同情の対象でもあり、それを否定すること自体に罪悪感を感じてしまうものである。同時に相手に対して「愚直さ」を感じ始めると「ヒトがいい」、「裏表がない」、「一途なヒト」などということでその人間がどのようなことを言おうがその「人間性」そのものを受け入れざるを得なくなり肝心なことに関しては「眼がくらんで」しまう傾向がある。しかし、「人間性」などということも実際にはあって無きに等しいものである。言葉尻をとらえて茶化すつもりはないが「裏表がない」人間などが具体的にいたとしたらそれは「化け物」であろう。少なくとも四次元世界では到底成立不可能である。それは水木しげるですら描きようがない「妖怪」でもある。もし「裏表がない」という「こと」が現実可能態としてあり得るならそれは唯一、真実を語ろうとする者、志向する者の中にしか存在し得ない。「ヒトがいい」、「一途なヒト」なども実質的にまったく無意味な言葉で、そのような不明な言葉は実に多い。そして、死語、美辞麗句、ホンネと称する卑小な欲望の共有、露悪趣味の羅列、そのようなやり取りに一体どんな意味があるのか私には分からない。ただ、そこには「幻想」、「幻影」以外の何ものもないことだけは確実なのである。
2013 2/2
350. 塀の外の懲りない面々
塀の中の懲りない面々とは、それ以外に生きようが残されていない、選択肢の少ない何とも「仕方のない」人々の群れともいえるが、一方の塀の外ではいくらでも選択肢があるにも拘らず敢えて自ら自由を放棄して選択肢の領域を狭めている人々もいる。俗に「亡者」と言われる人々、これはもう病膏盲に入りで手の付けようもなくおそらく死んでも治らないと思われる、縁なき衆生度し難しといわれるような類の面々でもある。何ものかに取りつかれた人間というものはよりよく展開するする領域を自ら閉ざしている者とも言える。彼らに「取りついている本体」そのものとはこれ以上分かりやすいものはないくらいに分かりやすい。すなわち倦むことのない欲望ということに尽きるのである。その欲望に関しては多くの者は同調し易いがその規模は「大衆」と「富裕層」の間には雲泥の開きがあり、その差は決して縮まることもない。大衆がそのようなことに同調すればするほど「富裕層」との格差が大きくなるという仕組みになっているからである。「金」、「権力」、種々雑多な固有の「欲望」に取りつかれた「善悪」の区別もできなくなった不自由な人々、それが塀の外の懲りない面々の実態でもあるが、彼らを「素っ裸」にすると実にその虚飾に満ちた「恰好」に反して例外なく「貧相」なものである。
ここでいう「富裕層」とは数億数十億円程度の資産家、秒速で1億円を稼ぐ等々のいつ塀の中に入ってもおかしくない面々などは対象外で、そのような人々とは及びもつかない桁違いな「層」のことである。日本ではおそらく100万人もいないであろうが、諸外国ではそれすら「富裕層」の埒外である。
いつか、忍び返しのついた塀に囲まれた豪邸の前を通り過ぎる夫婦の会話から「どんな悪いことをしたらこんな家に住めるのかしらね」という呟きが漏れ聞こえた。確かに「まともな」生き方では巨万の富は蓄積できない。もし、「まとも」であることが「無能」の証なら喜んで私は「無能」な生き方をする。埒もない「何ものか」に振り回され四六時中「取りつかれている」状態で生きるのは性に合わないからである。
2013 1/30
349.ホスピス殺人事件
昨年12月5日、介護福祉士・入沢亜加音(21歳)はホスピスに入所中の老女(当時85歳)のベッドに火をつけ殺害した。以前にも国の福祉行政につては介護職員の問題も含め取り上げたことがあるが、今後もこのような事件は後を絶たないことは容易に想像がつく。最近では、昨年の12月3日にこの問題についてブログで取り上げたが、煎じ詰めれば両者(容疑者と被害者)とも弱者を排除する脆弱な社会構造から必然的に生み出された痛々しい犠牲者ということになる。ベテランの介護職員でさえ自らの精神衛生管理は難しい世界である。若い介護職員が資格を取ったからといって仕事を維持できるとは到底思えない。介護業界は慢性求人難、人手不足である。雇い主も何か問題の起こることを恐れて経験年数、上級資格を要求するなどハードルを高くするが賃金の方は頭打ちでどのようにフル活動しても賃金は上がりようがないのである。これでは成り手は減少するばかりで質の向上など望むべくもない。福祉などという美名の下に善意とスキルアップ(自前)ばかりが要求されるが、そこにはワーキングプアがひしめき合っているというのが現状である。雇い主の方も他業種からの参入も多く、福祉業界とはまったく無関係な居酒屋、警備会社、不動産、塾経営者などをやっていた者達が「これからは福祉だ」とばかりに経営に乗り出してきたのが現在の高齢者施設の実情でもある。当然、雇用者側の多くも単にそれだけの「乗り」でこの世界に入った者も多いが、やはりその後の展開もままならずまた転職を余儀なくされる雇用者も続出する。就業後、1,2日で辞める者、神経症を発症する者などの事例は枚挙に暇がない。肝心の国のやっていることといえば美辞麗句に反して目先の経費削減のための小細工ばかりではあまりにも無策な施政としか言いようがあるまい。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ではないが、衰退の兆しは至る所に出ているというのが偽らざる日本の現状である。寂びれた街に「2020年東京オリンピックーーー夢の力が必要だー」という旗が凍てついていた。多くの弱者を切り捨てて見る夢などにどれだけの意味があるのか。おめでたさもここに極まれりである。
2013 1/18
348.「充実人生」、「老後の楽しみ」??
今日できなかったことは明日もできない。時間ができたら、余裕ができたら、いつかしようとなどと思っていることは一生できないものである。たとえその機会が与えられても時間の経過がもたらしたものに立ち向かえるほど人間は強くもなく、能力もない。「充実人生」などと訳の分かったような分からないような言葉の指示内容がどれほどのものかは知らぬが、「知足」すなわち「足るを知る者は富む」ということであれば何もお題目のように唱える内容でもあるまい。また「老後の楽しみ」などという発想そのものも後ろ向きで、楽しみそのものを敢えて終焉の楽しみとして位置付けているようなものである。それでは何をやってもいわゆる抹香臭さは払拭できまい、と言うよりほんとうの「楽しみ」ということが分かっていないのではないかとさえ思われる。
現状の日本の負の問題に関しても「団塊の世代」は大きく関わっている。にも拘わらず「団塊の世代」といわれる人々が自分だけの老後の確保と楽しみだけにしか余念がないというのも情けないことである。個人の意識の持ちようなどとは関係なく各自は否応なく時代の責任を背負わされているからである。自分のことしか考えない「大人」からはやはり自分のことしか考えない子供しか育たないのは当然といえば当然のことである。子は親の鏡とはよく言ったもので、次世代に都合のいい期待などは持たぬ方が身のためである。そして、ほんとうの意味で人生の「楽しみ」というものはすでに今までの生き方の中で育まれ見い出されるものであって改めて老後に発生する「楽しみ」などは存在しない。本を読み始めたからと言ってところで賢くなるとは限らず、情報、知識を得て「もの」が見えるようになる者も限られている。また年を取ったからといって急に読み取れる知恵など身につくものでもない。そもそも人の「生き死に」が生命保険会社の類が提示する人生プランに沿って展開するのであれば、哲学も宗教も必要ないのである。すべてのもくろみは向こうから外れるというのが世の常でもある。
2013 1/12
347.運と才能は全く無関係
以前、今は亡き著名な演技派のベテラン女優と話していて、彼女は「雨の日に出てきたものと、天気の日に出てきたものとは違う」というようなことを言ったことがあった。誰が言い出したかは知らぬが「運を引き寄せるのも才能の内」などとしたり顔で言っている者には単に自分が運がいいだけであることを知らないのである。さもなくば傲慢である。どのような分野でもその時代であれば認められなかったものがある時代には承認されることなどはよくあることである。自分の誕生時期を選ぶことはできない。ただ時の差異しか見いだせない同質の内容がある時期には認められ、ある時期には認められないとしたらそこにあるのは運、不運しかあるまい。同等の才能を持ったものでもベテラン女優の言うとおり雨の日に出てきたものと、天気の日に出てきたものとは自ずとその在り方、質も違ってくるのである。運は才能の内ではないのである。運は自分自身ではどうにもならない,才能などという領域とはまったく別のところで予測不可能な自然現象のように動いている。雨の日を天気に変えるなどは呪術師か詐欺師の類でもない限り不可能である。また、雨の日に開花する才能は天気の日には開花しにくいこともよくあることで、その逆もまた真である。だからといってそれを俗流運命論などで割り切るつもりも割り切れるとも思っていない。そこから先は自らの生き方の根幹部分に抵触する思想が選び取ったスタンスの問題になってくる。
2013 1/7
346.「トモダチ作戦」で米兵が集団訴訟
これもまた当然過ぎる程当然な行為であろう。そして、こういう形でしかほんんとうのところ切り込めないのが日本の実情でもある。彼らに自国民と同様の巧妙な隠ぺい工作は通用しない。彼らは3・11以降の正確な放射能データーを米軍当局、若しくは関連筋jから手に入れているはずである。そしてそれをどこまで知っていて東電・政府が隠ぺいしたかが問題となるのは当然であろう。その当時東電・政府が正確な発表をしなかったこと、結果的に事実を隠ぺいしたのは明らかなことで、それは今では国内でも周知の事実でもあろう。しかし、肝心なのはそこから先の行為、それをどうするかなのであるが、国内の動きは鈍い。原発事故当初、日本国内では「放射能は笑っている人には影響ありません」などといった世界の失笑ものがまことしやかにまかり通っていたのである。「ストロンチュウムは飲んでも大丈夫」などといっていたマッドサイエンティスト、すなわち「ジョカー」のような原発学者が平然と授業を行っていたのも目にした。その他の有象無象の金で買われた「学者」、「評論家」、「文化人」と称される者達の虚言も枚挙に暇がなかった。つくづく恐ろしい国だと思ったものである。どちらにしても誠実に関わろうとする者がまともに生活できなような国はろくでもない国なのである。さらに人々の意識面、社会の構造面から見てもその自浄作用が機能しないような社会ではこのような「外科的手法」も必要であろう。それは問題点を冷徹な論理しか通用しない世界に白日の下に引きずり出すことでもある。そこでは土下座の謝罪も懇願も何の意味もなさない。残念ながらこの国は海外からのこのような訴訟が先兵としかなり得ない国なのである。
2013 1/6