2009年10月のパリ滞在でピエール・ノット作品については2作品を観た。一つは「私は存在する。ーほっといてくれー」(再演)、もう一つは、「背中にナイフ」(日本では2008年に平山演出で上演)である。両方とも内容的には「きついもの」を持っている割りには、ピエールらしく音楽、歌も交えて軽く、「心地よく」観客に入り込む演出であった。それは、私の想像していた通りのものであった。そういうやり方もあり、ピエール・ノット作品について様々な演出方法が考えられると思っている。ただ、日本公演の場合は特にそうであるが、役者の「自分の実感」というもう一方の「嘘」を徹底的に洗い直すか、排除しない限りそれらの作品は成り立たなくなるだろう。役者に類型的私小説的世界の押し売りをされると、作品は変色しつつ重くなり、それらの作品が持っている観客の感情に揺さぶりをかける「抽象性」は壊れ、色褪せた具象性だけが鼻につき始める。要するに、「心」は究極の「抽象」なのである。それを薄っぺらな知識で実体的に捉えられては想像力は拡大、飛翔しない。ピエールの舞台は色褪せた具象性など微塵もなく、役者もその作品の「抽象性」を変色させることなく演じていた。
2009年11月