「ある日、その時」 (20) 2012年5月5日ー

<掲載内容>

282.レビー小体型認知症並みのテレビ、疓(ダイ)メディアの報道 283.人間に生まれたから人間なのではない 284.この国の近未来?285.「小沢裁判」控訴という恥の上塗り、己を知らぬ愚行の極み 286.貶められてしまった「ノマド」 287.そんなに小沢一郎が怖いのか?288.ヴィクトリアマイル(G1)3連単 289.策士策に溺れるのは世の常 290.毒舌版「哲学者の言葉」?陳腐な盲蛇の戯言 291.「生活保護は恥」という再刷り込みに躍起となる御用集団ー「自立」という名の経費削減ー292.マスメディアが作り出す正体不明の「庶民」と「世論」

                                                     (転載・複製厳禁)



292.マスメディアが作り出す正体不明の「庶民」と「世論」


 そもそも「庶民」とは一体何者なのか?その遣われ方を見ていると「国民」とも「市民」とも微妙に違うようである。「庶」という字には「多くの人」、「もろびと」というような意味がある一方で、官位のない「平民」、「正妻ではない女性から生まれた子」、「本家から分かれ出た家」、「分家」という意味がある。それがこの言葉に仕掛けられた巧妙な「罠」ともなる。少なくとも独立した「自由意思」を持つ「市民」とでは言葉が前意識、無意識レベルに働きかける資質の分子構造そのものが違うのである。マスメディアが「親しみ」を込めて頻繁に遣うこの言葉の呪縛からそろそろ解放されてしかるべき時ではないのか。今では遅きに失する感さえする。

 そして世論」であるが、「庶民」などと併用してよく遣われるその調査数値のほとんどはろくに金もかけずに新聞社が1000名程度の「国民」に電話で行う「誘導尋問」に近い方法で割り出された数値であるといってもよい。それが大方の「国民の声」の実態なのである。「正式に行う」妥当性のある世論調査などはかなりの金額がかかるのでそんなに頻繁にはできるものではない。1000名程度で割り出した数値に新聞社がさらに「金主」の顔色を窺いながらその意向に沿うように「下駄をはかせる」というのがその実情であろう。したがって、「空気を読む」ことしかできない者、はっきりとした見解がない者達はこのような操作に簡単に乗せられることになる。そして、自らの手で自分の生首を絞めていることに気が付かないのである。いつまでもこのような愚かしいことをやっていたのでは民主国家云々どころか1%のサドと99%のマゾの国ということになってしまう。現在の見るも無残な「大手」マスメディアの醜態は単にその本質が現れたに過ぎないが、さらにそこに浮かび上がってくるものは「金主」から「大手」マスメディアに相当の「圧力」がかけられていること、そして自らも追い詰められて形振り構わず既得権益死守に突っ走っている姿である。そして、あろうことか各紙の記事内容はどれもこれも官報、政府広報のごとく一律で(この傾向は今に始まったことではないが)、少なくとも先進諸国と称される国ではこのような事態はあり得ないことである。これでは日本の「新聞屋」は命運尽きたと言われても仕方あるまい。まったくその存在理由がなくなっているのである。仮にあったとしても単なる権力の走狗という程度の意味合いしか持ち得ない。三大新聞終焉の時が具体的に近づいているのである。

 「面白いものがない」、「気持ちが悪くなる」、「嘘が多い」というのが最大の理由でもあるが、抗議の意味も含めてテレビ、新聞などを見なくなってどのくらいの年月が経つのだろうかと思う。買わなければいいのである、見なければいいのである。それが今一人できる最大の抗議であることを随分前のブログで私は提起した。取捨選択できる能力さえあれば情報源はいくらでもある。

 

                                                     2012 6/3

                                               


 291.「生活保護は恥」という再刷り込みに躍起となる御用集団

ー「自立」という名の経費削減ー


  「自立」ということは確かに生きる上に必要であり、且つ重要なことではある。しかし、弱者にただ鞭打つだけでは無能の行政、その国の社会的脆弱性を露呈しているに過ぎないことになる。現在、介護保険についても加齢とともに進む介護レベルも逆に「自立」の名の下に厳しくチェックされ介護レベルを格下げすることで実質的には大幅な経費削減を行っている。言い換えれば、今まで通りの安全性が確保できない介護にもなり得ることを民間レベルに丸投げし、今まで以上に責任を負わされた現場担当者がさらに削減された賃金で働くことを余儀なくされているというのが実情である。また、生活保護についても「生活保護費が自立どころか生活費にもならず、遊興費目的に消えているのが現実である。」(「週刊ポスト」6/1)などと受給者全体がパチンコ三昧をしているかのような書き方で生活保護費給付制限を煽っているようなものまである。そして、ほんとうに必要としている人々についての記述はどこにもないのである。このような動き全体を見ていると、国民の憲法で保障された権利を何としても再び「恥」に置き換えることでほんとうに必要としている人々までも給付から追いやることに躍起になっているとしか思えないところがある。今年度予算の生活保護費3兆7500億円、国の無駄な支出5兆円などを削減すればすぐに浮く話でもある。天下りでろくな仕事もせず年収2000万円も貰っていいる者から比べれば月に一度の給付日に一円パチンコでストレス解消するなどはカワイイものである。この際、ほんとうに「最低限度の生活を保障する」という「最低限度」について検討し直してみてはどうか。まさか刑務所生活以下ということではあるまい。そして、「健康で文化的な最低限度」とはどういう状態なのか、WHO(世界保健機関)の健康についての定義は「健康とは、完全に身体、精神、及び社会的によい状態である。」とある。病もなく辛うじて食えて寝るだけの生活を健康とは言わないのである。そして今、くれぐれもマスメディアといっしょになって貧者、弱者が貧者、弱者を攻撃対象にすることは避けなければならない。一円パチンコをやっているのは99%の国民がなり得る姿であって、そのような姿に給付制限の恰好の理由を得たとばかりに笑っている者達にこそ矛先を向けるべきなのである。

                                                  2012 5/27


290毒舌版「哲学者の言葉」?陳腐な盲蛇の戯言


 敢えて取り上げる程の本でもないが、ある意味では日本の文化レベルを象徴しているのでつい言いたくなってしまった。「盲蛇に怖じず」とはまさにこのことで、これでは日本文化など衰退の一途であろう。あんまりにも幼稚で低俗な、著名人を利用した自己暴露本の類で、それはお笑い芸人が書いているので当然だといえばそれまでだがそれにしてもあまりにもおそまつである。毒舌という以上は、そこにはそれなりのエスプリがあってしかるべきであるが何もない、ないことが丸見えでバライティか何かで喋っているようなノリの内容である。取り上げているいる人物はおよそ彼が普段考えたこともないだろう人物ばかり、言い換えればいくら悪口雑言を垂れても安全地帯にいられる対象であるということである。要するに、ダイジェスト版読者のダイジェスト版読者によるダイジェスト版読者のための単なる憂さ晴らし程度の何ともお恥ずかしい身の程知らずの言いたい放題といったところである。これを金を出してまで読むか?昨今の事情では、これも国の愚民政策の一環ではないかとさえ思ってしまう。

 「毒舌」などとはおこがましい。それは単なる「駄舌」と言った方がいい。「芸人」ならもう少しきちんと焦点を定めて体を張ってやるべきであろう。今ではもう何を言っても限られた者にしか答えない者達に向かってそんな下種な吠え方で一体何が得られるというのか、まったく無意味。死んでしまった者達の屋敷の塀に向かって立ち小便したくらいで何か言っているつもりになられてはただ騒々しいだけで傍迷惑。存在自体が五月蝿い(うるさい)のである。

 こんなことでその気になっている、またその気になれるのが今日の日本文化の負の転移性の一面でもある。すなわち何の積み重ねにもならず発展性もないものに自らはまり込んで行く営為、方向を敢えて選び取っているのである。下種は下種の勘繰り以上にはいつまでも脱し切れないから下種なのである。そして困ったことに下種は常に自分の方に他者を引きずり込もうとする。意味があるとすれば愚民政策の一環ということでしかないこのような「下種文化」にこれ以上日本が蚕食されないことを願うばかりである。

                                               2012 5/19

 

                                           


289.策士策に溺れるのは世の常


 策士というのはさぞかし自分を賢いと思っていることであろう。しかし、そのこと自体にすでに盲点、死点がある。現政府の「構成員」の中で政治家といえる者が一人もいないというのは余程の物好きでもない限り大方の共通見解でもあろう。それでは何と呼べばよいのか、その動きを見ているともはや政治屋でもなく、単なる策士が徒党を組んでいるだけともいえる。策士というのは一見巧妙な策を弄して敵対するものを窮地に追いやるが、その巧妙さ故に思わぬところに内部亀裂を生じさせていることに気が付かない。自分で仕掛けた罠に足をすくわれ、やがて自らの利権の死守に見境もなくなり振り回され、転げ落ちて行く。しかし、これほどまでに唾棄されるべき策士達と無能な人々が雁首を揃えたというのも珍しいことでもある。その理由については今更述べることでもあるまい。そして、多くのマスメディアの実態とは何のことはない、芸も身も蓋もない幇間、太鼓持ちの類に過ぎなかったということである。

                                                                                                                                     2012 5/15

                                            


288.ヴィクトリアマイル(G1)3連単


 ヴィクトリアマイル(G1)で3連単を的中させ、競馬ファンに拝まれてしまった。

 横山典弘騎手もドバイでホクトベガが自らの死をもって教えたことをよく自分のものとして人間的にも成長してきたのだろうと思う。無理のない人と馬とが一体となった良い騎乗であったと思う。レース後も人馬共にいい顔をしていた。おめでとう!これでドバイで散ったホクトベガも浮かばれるであろう。

12.ホエールキャプチャ 16.ドナウブルー 1.マルセリーナ

素晴らしい馬たちである。

                                              2012 5/13  午後の5時


287.そんなに小沢一郎が怖いのか?


 私個人は最初から小沢一郎という政治家を支持していたわけでもなく、むしろ彼とは異質の世界観を持っていたといった方がいいだろう。小沢一郎という現実の政治家を通して政治家がいかにあるべきかという在り方そのものに関心を持つようになったきっかけは私の師でもあり、元大蔵官僚でもあった人物が現役時代を振り返りつつ「小沢一郎はほんとうに政治家らしい政治家ですよ」と言ったことである。そして、この間のすべての動きの中でそのことを再確認できたことも彼に対する関心度と親近感をさらに高めたとも言える。同時に私の中にストンと入り込んで来たもの、それは現状の無残な日本の民主主義国家の実態そのものであった。わが師といえる人物がまだ現役であった頃からどのくらいの年月が経ったのか、その頃から小沢一郎は「敵側」の参謀が認知しざるをえない闘将だったのである。

 テレビ、「大」メディアとその周辺に徘徊する「識者」のそこまで堕ちるかという恥も外聞もない執拗な反小沢キャンペーンを見るにつけ小沢一郎をいかに怖がっているのかがよくわかる。「庶民」を装うテレビ、「大」メディアは決して「庶民」の側にはいないことを何度でも確認しておく必要があろう。それは民主国家、法治国家が何なのかさえ認識できない失禁状態の形振り構わぬ反小沢キャンペーンといっても言い程である。とても先進諸国に見せられる代物ではない。そして、いざ責任を問われれば彼らは準禁治産者でも装うつもりなのかと思われる程無責任であることも肝に銘じておいた方がよい。それほどに質が良くないのである。ここらでそろそろ小沢一郎も本当に名誉棄損でテレビ、メディアを悉く訴えてはどうか。ものには限度というものがあろう、そうすれば、その背後にいるスネイキィーな者達の尻尾もつかまえられるのではないか。彼らは民主主義国家の法治国家としての根幹を糜爛(びらん)させ、その国の憲法さえ無視することを「小沢裁判」を利用して今なお平然と行っているのである。本当に阿漕ないかさま師は誰なのか、それを見極める時に来ているのである。

                                                      2012 5/12


 286.貶められてしまった「ノマド」


 その本来の意味から外れ矮小化され空疎に再構成された言葉は実に多い。最近見かけるこの「ノマド」もその一つである。以前、私はまったく違う遣い方で「ノマド」をブログで取り上げたことがあるが、ここに来てその親しき者の無残な姿に再開したような思いに駆られて、ついつい黙っていられなくなって再び「ノマド」を取り上げることになった。

 「ノマド」は確かに「遊牧民」という意味はあるが、現在の「一般的な」遣われ方をみると単なる風俗小説の中に出てくるOLのような乗りの意味内容とでも言おうか、いくらそれを脚色してみても本質的にはフリーターの言い換え程度の内容でしか遣われていないということである。「遊牧民」をラテン語、イタリア語、スペイン語で置き換えてみてもその言葉を遣う側のその指示内容そのものが単なる我田引水的な閉鎖的意味内容しか持ちえないのであれば矮小化と言われても仕方あるまい。言ってみれば、そのこと自体が反ノマドなのである。「ノマド」とは根本的に違う「タジク」(定住民」の枠の中で「「ノマド」というコンセプトそのものがどのように成り立ちうるのか。実のところは、日本の「便利屋さん達」が「ノマド」という言葉をあたかも斬新なコンセプトであるがごとくに感覚的に体制内の自己合理化の方便として遣っているだけなのである。「ノマド」とは単なる「遊牧民」ということ以上に、徹頭徹尾反タジク(定住民)、すなわち完結性、閉鎖性からの離脱、自己を壊しつつ自己を作っていく変幻自在な生を徹底的に生きる生き方そのもの意味する言葉でもあり、すべてにおいて反権力的な動きそのものを指しているとも言えるのである。したがって、日本の「ノマドワーク」などと称されるものが意味するものとは雲泥の開きがある。日本で遣われている「ノマド」並びにその合成語はまったく意味不明な言葉と言ってもいいくらいで、むしろこれで何かわかったようになることの方が怖い。おそらく「ノマド」をここまで貶めたのもコピーアンドペーストの得意な売文業者であろうが、この程度の意識レベルでこの言葉を日本以外では遣わない方が身のためである。これは日本人が思っているほど生易しい言葉ではないのである。もし、遣うならそれなりの覚悟が必要であろう。

                                                  2012 5/10


285.「小沢裁判」控訴という恥の上塗り、己を知らぬ愚行の極み


 これで小沢一郎はさらにその名を歴史に深く刻まれることであろう。小沢一郎は法廷闘争を続ければいいだけのことである。今後、彼の法廷闘争はそのまま民主主義擁護の闘いとしてその意味をさらに強め、後世に貴重な教訓として銘記されることであろう。一方の愚かさもここに極まれりという感の、その後ろ盾も大方の知るところとなっている指定弁護士達はここでまた日本の司法の汚辱をその意に反して世界に知らしめることとなるのである。見れば指定弁護士達も結構な年の者ばかり、人生最後の締めくくりがこれではあまりにも情けないが、後世その汚名は払拭できないまま末代の恥として残ることになるだろう。それ程にこの「小沢問題」は大きいのである。

 しかし、目先の政治的効果にしか目がいかない者達、重箱の隅をほじくり返すだけが生きがいとする者達の為すこととは斯くのごとしで、小沢一郎を民主主義擁護の闘将として引き上げているだけということに気が付かないのである。賢いつもりが何とかの浅知恵、未熟な国家の未熟な為政者による未熟な国民相手のお粗末な三文芝居もそろそろ見飽きたところである。この際、最後まで徹底的にこの国の司法の穢れた恥部を白日の下に晒してもらおう。もはや検察も以前のような隠ぺい工作は通用しないことを肝に銘じた方がよかろう。指定弁護士達とその背後組織は自らの首を絞める選択をしたが、それも時代の趨勢である。

※指定弁護士:村本道夫、大室俊三、山本健一

 

                                               2012 5/9


284.この国の近未来?


 この国の行く末について御大層な題目で「識者」と称される者たちが「専門的」にそれ程の意味もない「具体的な検証」を繰り返しているようであるが、要するに「専門家」とは何のためにいるのかと言うことに尽きるのである。既得権益にしがみつくことが一義的なっている者達、またその周辺を徘徊しているものにとっては何をどのように言ってみてもその論調は的確な現状分析からはかけ離れてくる。昨今の大メディアなどの取り返しのつかない醜態はその恰好の証左であろう。さらに他紙並びに他誌については敢えて言うまでもない。単なる売文業者としてもよくもこんな無責任なレベルで「仕事」が成り立つものだと感心している。

 この国の行く末など「専門家」に聞くまでもない。巷に出てよく観察すればすぐに見えてくることである。老若男女の簡便で粗末な食事、高齢者の決して良いとは言えない千態万状の様態、これだけ見てもその国の近未来は見えてくる。最近では高齢者の犯罪も増えてきているとのこと、充分予想されていたことではあるが、これで何が見えてくるかといえば、その国の社会的脆弱さとその品位のなさである。民主主義国家云々以前に、社会的品位すら地に堕ちているというのが偽らざる日本の現状であろう。

 今日もまた、歩くこともおぼつかない老婦が老父を車椅子に乗せて押していた。そして、いつもの四つ辻ではまた認知症の妻を認知症の夫が大声で怒鳴っている。夜は夜で自分の位置さえ分からない老人がライトに浮かび上がる。今でも老人の行方不明者は後を絶たない、これが日々何気なく繰り返されていることである。アイホン片手に「独り言」を繰り返している者達にはまったく見えない事象でもあるが、今後もさらに確実に増え続ける現実の1様相なのである。

  古言にある「一葉落ちて 天下の秋を知る」、そして、「近きを以て遠きを論ずるなり」というところか。

                                                                  2012 5/8


283.人間に生まれたから人間なのではない


 人間に生まれたからといって誰でも人間になれるとは限らない。スイスの動物学者ポルトマンは「人間ほど未熟な脳を持って生まれてくる動物はいない。人間は生理的に早産だ。」と言っている。早い話が、オオカミに育てられればオオカミに、「悪魔」に育てられれば「悪魔」にもなるのである。放任しておけば何になるか分からない危険な動物なのである。未熟な脳を持っている以上、自然に人間にはなり得ないのである。すなわちきちんとした教育がなされない限りまともな人間になることは不可能であるということである。そして、何より子供の最初の教育者は親である。親の為してきたことのすべてが無意識の領域も含めてそのままその子に移され、吸収され増殖していく。要するに「親の因果が子に報い」というようなことがその言葉通りに起こってしまうということでもある。どのように取り繕ってもその子はその親との交流によって成長した人間であることに変わりはないのである。

 人間を危険な動物にしないためにも、もう少し謙虚に子供の教育を考えるべきなのではないか。少なくとも乳幼児期、児童期までの子供の放任主義、学校任せなどは親の怠慢以外の何ものでもない。産めよ増やせよの無策な少子化対策の中で、父性も母性も希薄なまま子供の教育もろくにできない親のもとではとてもまともな人間形成がなされるとは思えない。それはいつでもオオカミや「悪魔」を登場させる要因にもなり得ることを意味する。

                                                  2012  5/7


282.レビー小体認知症並みのテレビ、疓(ダイ)メディアの報道


 今後もテレビ、疓メディアの報道と「市民」と呼び得る人々との交信、関わり、すなわち相乗作用はあり得ないだろう。もし、あり得るなら自らのセンサーのモニタリングをした方がいいと思われる。国民全体の30%位が辛うじて「市民」と言える国でしか成り立たない事態である。例えば、統合失調症の多くは自らが精神の病に罹患していることに気が付かないことが多い。明らかに常軌を逸している者が相手のことを「常軌を逸した行為」と言うのと同様で、ほとんど自分のことが見えていないのである。残りの70%の国民が何らかの精神的疾病を持っているとしたら、たとえそうであっても少なくともそれを自覚している人々であってほしいと思いつつも現状を見るたびに広義の「精神的病」に振り回されているいると見た方がある意味では納得できてしまうことの方が多いのが残念である。これでは社会に目は向かないはずである。そして、これから高齢者の数はますます増え続け、当然脳血管性認知症、アルツハイマー型認知症、糖尿病性神経障害などを発症する者も増加の一途をたどることであろう。それを考えると30%の市民意識の確保すら覚束ないように見えるが、それは今いる30%の市民の今後の動き次第でもある。

 歩きながらアイホンに夢中になっている若者たちの間を無燈で走る抜ける自転車、おそらく崖っぷちに立たされてもアイホンをやり続けているのではないか思わせるその姿を見ているとなぜか憐れになってくる。結局のところ実態不明、正体不明のものに振り回され、自分が仕掛けた罠に自分自身がはまって行く、そして、いつなぜ自分が死んだのかも分からず消えて行く、実質的に殺されたにしても「幸せに」死んで行くのではないかとさえ思われる。そこには現実を見据える目がどこにもないのである。アイホン結構、「小さな幸せ結構」ただし、足元にはくれぐれも注意した方がいいという至る所にある「足元注意」の話である。しかし、この単純明快なことが難しいのである。

 

                                                    2012 5/5

 

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