<掲載内容>
250.人の列 いずこの国の 松の内 251.「希望」という罠 252.テレビはロボトミー、新聞は腐った油? 253.雉は鳴かずとも打たれるだろう 254.ソフトランディングー軟着陸ー255.3人市虎を成す 256.月夜の蟹 257.お断りした「いい話」 258.ヒットラーとミーハー(lowbrows)259.「プロパガンダの天才」
(転載・複製厳禁)
259.「プロパガンダの天才」
その名をヨーゼフ・ゲッベルスという。アドルフ・ヒットラー率いるナチスドイツの宣伝相である。小児麻痺で片足の成長に影響が出て足の長さが一方の足より短く、終生足を引きずるように歩いていた身長150センチの美声を持つゲッベルスはいつしかヒットラーに取り込まれ、それまでに蓄積したすべての能力を彼に捧げることになる。そして、ヒットラーの死後、一家心中で幕を閉じるのである。現在でも使われているCMの技法はゲッベルスの考え出した手法でもある。宣伝とは気づかれないないように行い、大衆が心に抱いているいるであろう不安、疑問、欲望を遠回しに刺激し、爆発させる。彼は常に知能レベルの低い階層に合わせてた宣伝を心掛け、それが自分の意見であるがごとくに思わせる方向に、さらにはその感情さえも彼らによって作られたものであることを悟らせない方向に巧妙に持って行くのである。その手法は実に巧みである。それは洗脳ではなくマインドコントロールで、社会心理学の技法の領域である。現在でも、この社会心理学的テクニックを駆使して大衆のマインドコントロールは頻繁に行われている。「御用学者」とは何も原発村ばかりではなく、この社会心理学の領域にも多いのである。そして、ヒットラーを祭り上げたゲッベルスのように情報、文化の操作を担っているのである。テレビ、週刊誌等で談笑の中で繰り返されるもっともらしい言説が、いつの間にか自分の思考回路全域に広がっていることに気づかない者も実に多い。バカバカしい程の単純化と暗示で彼らがターゲットにしている階層はたやすく動くことを彼らはよく知っているのである。それによってどのような「事」が、「心情」が起き上がってくるのか、そして、その「事」、「心情」によって何がもたらされるのかを見れば彼らの意図する「こと」、「もの」は浮かび上がってくるはずであるが、そこまでは自分でものを考えない階層に焦点を合わせている以上、すでに彼らの思惑は十全に果たされているのである。ドイツ国内にいち早くラジオを普及させたのもゲッベルスで、現在でも多くの人々が毎日否応なく見ているであろうCM、既得権の大きな新聞、テレビのショー的ニュースの類は、未だに実質的に「ゲッベルス」の影響下にあると言ってもいいだろう。そして、「アドルフ・ヒットラー」はいつでもいつの間にかお茶の間から現れてくるのである。メフィストフェレスと契約を交わした者の言葉は、事実とは裏腹にとんでもなく自由で、「人々」を幻想に引き込み惑わせ酔わせるのである。もしその言葉に乗せられれば、それと引き換えに取り返しのつかない負を背負わされるのはそれに引き寄せられた者達の方である。今ほんとうに必要なことは、事実を見据えた冷静で堅実な言動で、人を引き付け酔わせる珍奇な言葉、虚言の類ではない。
※最近の世論調査のデータはさらに注意が必要である。彼らはいかようにも操作する。それだけが主な仕事と言ってもよいくらいなのである。(3月)
2012 2/18
258.ヒットラーとミーハー(lowbrows)
以前、「神戸連続児童殺傷事件」(1997年)という事件があったことをご記憶の方も多いことであろう。14歳の中学生が自らを「酒鬼薔薇聖斗」と名乗って起こした事件なので「酒鬼薔薇聖斗事件」などと呼ばれてもいる。殺人現場は快楽殺人特有の凄惨なものであった。なぜ彼がここまでに至ったか、その前段階に至るまでの経緯を端折って簡潔に辿れば、彼が小学生の頃に小動物を殺害している時に異様な興奮を感じて射精してしまったことがあった。このようなことがあってから彼は母親に自分は何かおかしいということを告げているが、まともに取り合う事もせず、今までとおりの放置状態であった。そして、あろうことかこの危機的時期にその母親は彼にアドルフ・ヒットラーの「わが闘争」という本を与えている。この母親にしてみれば、歴史に出てくる「偉人伝」のつもりであったのであろうが、そのあまりの無知さ加減、ミーハー振りに私は驚きを通り越し絶句して、怒りを覚えたことがある。最重要岐路に立たされた子供が最後の危険信号を出している時にそれを察知しようともせず、それどころかさらに増幅させる方向で彼を追いやってしまたのである。ヒットラー自身も死体を見ると恍惚となっていた「人物」である。どのような過程を経ても一旦快楽殺人が思考回路にセットされてしまうと、その人間は人間を殺し続ける以外に性的快楽は得られなくなってしまうのである。つまり、快楽殺人は繰り返されるということである。治療の機を逃してしまった精神医療の虚しさえを見せつける事件でもあった。この段階に至っては単なる精神治療での回復は全く見込めないというのが実情で、人道主義的見地からの社会復帰を目指す矯正などはまったく無意味に等しいというより欺瞞でさえある。当時、精神医療の研究者としても見逃せない事件であったので、私も御多分に洩れずついついのめり込んでデータ収集をした覚えがあるが、利己的でしかない母親の作為的な母性と事実認識の欠如からくる無知と歪んだ虚栄心が今でも印象深く残っている。しかしながら、現在でもこの母親の愚を笑えないのが実際の状況である。有名であることだけを根拠に何をしたかも不明のまま仰せごもっともで鵜呑みにする。それ自体が異常なことで、異常なところから異常なものが生まれくるのも必然であろう。有名であることだけでその言動がすべて正当性を持つとは限らないという至極当然のことが忘れ去られているのである。況やこの場合はヒットラーである。このような人々をミーハー(lowbrows)というのである。彼らは市民ではない、飽くまでlowbrowsなのである。今でもこのようなミーハーの健在さを見せつけられる度に、さぞかしヒットラーも草葉の陰で狂喜しているであろうと思われることがよくある。ミーハーの気持ちを微に入り細を穿ち捉えることができるということは自らもlowbrowsであることの証左である。歴史に登場することだけを夢見て、圧倒的多数のlowbrowsを手中に収めたヒットラーも言ってみれば究極のミーハーとも言えるのである。
ある時、放置状態のままお金だけは渡されているが,まともに親との交流もない小学生の極度に鬱屈した精神が小さな生き物の生命を奪い取ることで恍惚となる。その突然の異変に彼自身も驚き、不安にかられて母親に訴えるが、それを忌まわしきものとして封印したまま、母親は「偉大な英雄伝」で彼の「矯正」を図ろうとする。この母親は、猟奇殺人者として名を馳せたエド・ゲインの母親ほどではないにせよ、どこかに男性性器に対する嫌悪感、もしくは息子の性的堕落を極度に恐れるあまり結果的には息子の性的衝動を封じ込める方向でしか接していなかったのではないか、そしていつしか捻じ曲げれてしまった彼の性衝動はその矛先を母親の目に適った方向で模索し始める。やがて、堕落の象徴でもあった男性性器は、殺人という密かな神聖な儀式を通して彼の中で<昇華>する。彼の劇画的名称、自己陶酔した言動はすべてはそのことによって意味づけられ、ネガティブな領域の中でポジティブに快楽殺人へと収斂されていくのである。一瞬間、彼は自分の「偉大さ」に天にも昇るような気持ちになっていたことであろう。
ミーハー(lowbrows)とは、いともたやすく怪物を生むのであるが、それに気づかない。そして、いずれは自分が生み出したものによって食い殺されてしまうのであるが、それでも気づかない者達のことである。
〇書き始めたらついつい長くなってしまった。 切りがないのでここらで休憩。他にも書かなくてはならないもの、仕上げなくてはならないものがあるというのに・・・、何でこれを書き始めたのか、それは「太陽のせいだ」とでも言いたいところだが、当たらずとも遠からずでそれは日本の現状のせいである。
2012 2/17
257.お断りした「いい話」
ある人物をスケッチしている時に、過去に誘いのあったいくつかの仕事の話が思い出された。なぜ断ったのか具体的な詳細部分はかなり忘失しているが、その時にはそれなりの理由があったのであろう。フランスなど海外からの仕事(演劇やライター)、特にライターの方は月収制でかなり具体的に細かな数値が提示されていたことを記憶している。日本国内では大学で教えてみないかという話や、劇団関係者から共にやらないかという協力の依頼なども戴いた。それぞれの時点で共通しているのが、できることならこれ以上煩わされるのは避けたいという気持ちであったと思う。ただ生きているだけでも,もう充分過ぎる程煩わしいのである。今後も自分の思ったこと、やりたいことだけを志向して行くつもりである。それが利他的なことか利己的なことか私だけでは判断できかねる。善かれと思ってしたことが裏目にでることは日常茶飯事なのである。利他的行為などとは言っても、厳密な意味でも、現実的にも阿弥陀仏にでもならない限り、少なくともそれを志向しない限り、それは為し得ることではない。偽悪を為すより偽善を為せという意味での利他的行為なら少しは現実味があるだろう。「いい話」の内容がだんだんそれてきたが、利他的行為を問題にするのであれば、まずそれをすべきは、生きることすら覚束ない99%の「貧民」ではないことだけは確かであろう。
2012 2/7
256.月夜の蟹
「月夜の蟹」とは、月を指させば指先を見るがごとし。それは、否応なく「中身を細らせる」方向でしか生きられないものたちの悲喜劇である。たとえ、いくら月そのものについて語っても、決して月を見ることはない、常にあらぬところにしか意識が働かない、「業」のようなものとして見えてくる。これは「「中身のない」ものが世界を小さくまとめることでしか生きられないという共通項で、ほとんど閉ざされていて展開は不可能である。ある意味では、結晶化の始まってしまったものの象徴とも言える。
2012 1/30
255.3人市虎を成す
3人市虎を成す、すなわち何人もの人間が同じことを言えば、それが事実無根のことでも信じられてしまう。現状でもよく見かけられることである。しかし3人寄れば公界(くかい)で、そこに意図的、作為、虚偽があればいずれは表出してしまうことも確かであろう。そこに及んで、すべては天網恢恢疎にして漏らさずなどとしたり顔で言いたいところだが天罰などを当てにしていたらいいように持って行かれるだけで埒が明かない。歴史解読にせよ現状分析にせよ、現在の官僚と為政者のごとく、その詐術を見抜くのも容易ではない。しかしながら、時系列的に表立って現れてくるところはすべて詐術と言ってもいいくらいに検証が必要である。その詐術をバックアップしているのが言わずと知れた御用学者、御用評論家の御用御用の諸氏と金主本位のマスメディアである。明解な検証能力がなければ真実どころか事実さえも見抜けないというのが相も変わらない実情のようである。
しかし、世の中には騙す者と騙されたい者がいるだけとしか思えない様相を呈しているが、どちらにしてもそれは普通ではあるまい。異常の末に何かある。世の中は何かつねなるあすか川きのう「瀬」ぞ今日は「淵」になり・・・そして、また淵は瀬となるのか、危ういところである。
2012 1/26
254.ソフトランディングー軟着陸ー
世の中一般が、「下降」、「衰退」、「縮小」などの抜き差しならぬ負のスパイラルに吸い込まれて行くかのようであるが、それが偽らざる実情でもあろう。このような状況で打ち上げられる「希望的観測」、「予想屋的煽り」は胡散臭というより虚偽、目くらましの類としか思われない。現実的には離陸のあり得ないこの現実をいかに正確に受容してソフトランディングさせるかというのが大方の冷静な目を持つものの見解であろうが、このソフトランディング自体にどれだけの集中力と精神力、そして技術力が必要であるかが具体的に分かりにくくなっている。離陸にしろ着陸にしろどちらにしてもかなりの集中力と判断力が問われることに変わりはないが、重量オバーでコンピューター制御も不能、さらに破損した翼を持つ機体であれば尚更である。一瞬の隙、判断ミスが命取りとなりかねない。
時代に対する「下山」という発想もそこに弛緩したものが出てくると思わぬところで足をすくわれることになる。それはその「山」の捉え方によっても異なり、それによっては「下山」の方法も気構えも違ってくる。危険なのは「下山」というイメージがもたらす精神的隙である。吉田兼好は、高名の木登りという段で、人が高く危険なところを登っている時には何も言わず、人が降りはじめて軒下位の所に来ると、その名高い木登りは「あやまちすな、心して降りよ」と言ったそうだ。何事も「あやまちは安き所に成りて必ず仕る事に候ふ」と言うことである。ゆめゆめ油断は禁物である。尻餅をついたまま最期まで滑降では様になるまい。
2012 1/16
253.雉は鳴かずとも打たれるだろう
俚諺としてはもちろん「雉も鳴かずば打たれまい」が正しい。それ以外にも、「口は禍の門」などという舌禍、筆禍を諌める類の俚諺がある。実際にもそのような事例には事欠かないが、果たして鳴かなければ打たれなかったのかというと実はそうでもない。私自身は鳴いても鳴かなくてもそれ程変わらないと思っている。雉はその時鳴く必要があったのであり、そして、そこに猟師が居合わせただけの話であろう。最初から猟師が雉を狙うつもりであれば雉が鳴こうが鳴くまいがすでに命はない。現実的には一声すら上げられず、何もできずにその存在すら認知されずにいつしか抹殺されてしまうものの方がはるかに多い。そのようなことを考えれば一声でも発し、言わざるを得なかったことを言って果てる方が本望であろう。この俚諺はつまるところ体のいい「口封じ」で、適度に麗句をあしらった「脅し」とも取れる。たとえそれ程の意図も意味もなかったにせよ、この俚諺はいつか作り手の手元を離れ詐術としての効果を発揮することになる。何の抵抗も感じさせずに前意識の襞の奥深く根を張り、発話に対する脅迫観念を形作ってしまうのである。そして、多くの者が様々な場面でその戒めが身を守る唯一の賢い方法でもあるがごとくに一言も発することもせず人知れず消え去って行くのを見ていると、このお為ごかしの詐術的俚諺は一体誰のための何のための俚諺かと思えてくる。口は災いの元などと言って何もかも半端にしか語ろうとしないことをよしとしていると国内では通じても海外では通用しないということを肝に銘じておいた方がいい。その内、それが習い性となり自分が発するファジーガスで自分自身すら見えなくなってくるのである。
2012 1/12
252.テレビはロボトミー、新聞は腐った油?
昔、とは言ってもいつの頃だったか忘れたが、毎日,朝日が昇る頃には人々は新聞を(読)んでは油を(売)っていたものであるが、昨今ではとんとそんな姿さえ見かけぬようになった。聞いてみると、新聞を片手に売れるような油もなく、それどころか油に砂や泥が混じっていて、そんな油を頭に塗った日には頭が腐るという話である。そしてテレビであるが、テレビが薄く大きくなってからというものほとんど見ていないという。中にはこの前の震災で倒れて故障して以来,枕元の隙間風を防ぐ程度にしか使っていないという者もいた。テレビを見ていると生きる楽しみがなくなり、自分の人生が奪われていくような気がするらしい。確かにテレビは間接的にロボトミーを施し、見ているだけで脳の前頭葉白質の一部が消失して行くのではないかとさえ思える時がある。実際に四六時中テレビ情報、報道に頼っている者の顔の表情、発話、言説はすべて共通している。今や、新聞、テレビの報道の利用価値はほとんどなく、すべてが一律で危険水域をとっくに超えていることだけは確実なのである。実のところ私は、テレビも新聞も、もはやロボトミーや腐った油ほどの存在価値さえ持ち合わせてはいないと思っているが、ただ彼らには必要となれば同一内容の繰り返しがいくらでも可能な大きな金主がついていることが無視できない危険なところでもある。わずかな文言を人々に刷り込ませるためにだけに何億もの大金が遣われるなどは日常茶飯事とも言えるのである。そのようなことを生業とするものにいくらまともなこと言っても通じるはずがないのは自明の理であろう。それでは我々には何もできないのかというと、そうでもない、日々の日常生活と共に力まず一人でも立ち向かえるものがある。それは、まず見る必要のないテレビはすぐに消すこと、まったく無意味である。そして、読む必要もないお上の御触書のような新聞は買わないことである。さらに拡大させることも可能であろうがそれは各自が自由に考えればいいことである。
2012 1/11
251.「希望」という罠
もし、我々が「すべての希望を捨てた世界に生きている」のであれば、それはある意味ですばらしいことである。なぜなら、「希望」とは現状を忘れ、やるべきともせず根拠もなく未来を夢見ることを増殖させる人間にとっては最大の罠の一つともなり得るからである。しかし、果たして「希望」が本当に捨て切れているのか、敵をみくびってはいけない。「希望」はどのようにも変容し人々の傍らに寄り添うことにかけては天下一品なのである。現に幻想とも言い得るような「コミュニケーション」を求めてツウィターに夢中になっている者の数は計り知れない。また、さまざまな領域においてブログを発信している者もいる。さらには本を書き、語り続けている者もいる。彼らが、すべてとは言わないが本当に「希望」を捨て切っているとはとても思えないのである。むしろ良くも悪くも勝手な思い込みの中で作り上げた「希望的」観測にがんじがらめなのではないか。それではこうしてブログを書いている私はどうか。それはきっかけはどうであれ,もはや日々の確認以外にはないと言えるだろう。それではなぜ公開するのか、それはブログをファジィーではない「他者」の介入を想定した「航海日誌」として位置付けているからである。そこには未来を夢見るような「希望」の入り込む余地はない。むしろ、もう一つの敵である「恐怖」との葛藤の方が強いと言える。
某作家が現在の様相を捉えて「カジュアルなニヒリズム」などという表現で括っていたが、これは昔から学生時代に暇さえあれば雀荘に入りびたっていた者たちの総称でもあろう。「カジュアルなニヒリズム」、何とも軽いいかにもと言う感じであるが、陳腐な新語である。実質的には「阿Q的」ニヒリズムであろう。すなわち、観念操作でいかようにも自分の都合の良い方向に持って行く、たとえ失敗であってもあらゆる手を使って成功と自分に思い込ませる。そして、常に自己の優位性に結び付け、あらゆることを受け入れてそれでも「自然体」を崩さぬことで何か「大物」になった、達観した気にさせる錯覚・幻覚状態である。彼らは死の直前になっても自己の在り様について明確な意識を持つことはない。なぜなならその「明確さ」を避け続けてきたからである。「カジュアルなニヒリズム」、この言葉のシニフィアンとシニフィエの間からだらしなく動物性の油脂がにじみ出てきて不快である。
2012 1/6
250.人の列 いずこの国の 松の内
人の列 いずこの国の 松の内 (魯孤)
風に飛ばされそうな飾り松、行き交う老若男女の出で立ちはどれもダウンにジーパン。マフラーさえも色を成さず。街からは完全に色彩が消えたが、白黒で切り取るほどの手応えさえも覚束ない。いつとはなしに子供が消えてしまった中間色の街。いくら花火を打ち上げても街のくすみは度を増すばかり。ダークグレーの、ライトグレーの奇妙な静けさ。嵐の前の静けさとも見える。
※魯孤:平山の俳号、異称。
2012 1/4