<掲載内容>
227.九電会長夫人の暴言に見る日本人の意識構造 228.ダライ・ラマ14世は何のための来日か?229.目のやり場もなく、目に付くこと 230.「冷温停止、年内達成は可能」は全くの嘘 231.いつか、パリでレオナルド・ダ・ヴィンチと 232.ペットビジネスの危うさ 233.軽佻浮薄は性に合わず 234.凡夫の凡夫たる所以 235.アルバトロスとアホウドリ236.「散逸構造」と心の様相と・・・237.不可思議な日本の「左翼」ぺシミズム
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237.不可思議な日本の「左翼」ぺシミズム
日本には「保守本流」と言い得るものも存在せず、したがって、「左翼」も「右翼」あるようなないような極めてその存在が希薄である。そして多くのマルキズム的思考回路を持つ者たちが、その方程式、または「敷衍式」であらゆる状況を裁断、分析・展開して見せてはくれるが、いざ行動となると自己の「殻」に閉じこもって黙ってしまうか何やら呟き始めるだけというのが実情である。ネグリとハートの「帝国」を話題にし「共振」したのであれば、アントニオ・ネグリの「行動」も倣うべきであろう。少なくとも、それなりに範を垂れる必要がある。オートノミズムに「共振」する者であれば日々の抵抗は欠かせないものとなる。そのような具体的行動も取らずに「ペシミズム」に陥っている暇などないはずである。だから、すべては行動が伴わず言ったまでの話で終わってしまうのである。彼らが今まで連綿と言い果せてきたこととは一体何なのか。単なる西欧思想の紹介なのか。このようなことは、日本の「左翼」あるいは「左翼的」と言われている者たちが必然的に招き寄せた「息切れ」にも似た「ペシミズム」」そのものの「病巣」を点検、検証する「術」も持たずに西欧思想の「さわり」の移入のみで事足りていた事情そのものを改めて検証する時期に来ているということを意味している。そこには日本の精神風土の検証ということも含まれてくる。このことに関しては以前ブログでも述べたが、少なくとも本居宣長以降の冨士谷御杖まで時間反転させて検証、再構築させる必要があろう。
2011 11/29
236.「散逸構造」と心の様相と・・・
「散逸構造」とはベルギーの物理学者でもあり化学者のイリヤ・プリゴジンの提唱した非平衡熱力学の理論で、それによって1977年ノーベル化学賞を受賞している。この「散逸構造」の理論は心の様相を知る意味でも大いに参考になると思っている。それはまたブディスムの根本思想の「空」、「無」、「縁起」などとも関係してくるのである。「空」とは固定的実体のないこと、実体性を欠いていることであるが、「空」を表すサンスクリット「sunya」とは「あるがまま」と言う意味もあり、それはそのまま「縁起」(paratiya-samutpada)にも繋がっているということをより分かりやすく示してくれる要因ともなっている。
※サンスクリットは表示できない記号が抜けている。
2011 11/29
235.アルバトロスとアホウドリ
アルバトロスとはアホウドリの英名で、フランス名もalbatorosで発音も「r」以外はほぼ同音である。そして、ゴルフの用語としても遣われているが、当然のごとくどれも和名からくるイメージはまったくない。
しかし、アホウドリに対する和名の卑称の類には驚く、例えば「馬鹿鳥」、「阿呆鳥」、「叔父だまし」、などであるが、中には「沖の太夫」、「籐九郎」などとどことなく愛嬌のあるものもないことはないが、欧米諸国の名称が呼び起こすイメージには程遠く、その名称に多少なりともインテリジェンスを感じさせるのは辛うじて「信天翁」とい字を当てたことくらいであろう。この漢字がなければ何とも人間の「あさましさ」だけが滲み出てくる和名である。同一のものに対する呼称が多いということはそれだけその地域の人間の生活と絡み合っていたということを意味する。実際、羽毛目的の乱獲で1949年には絶滅に瀕していた鳥である。天空を飛んでいる時のアルバトロスの姿は実に見事であるが、地上に降りると大きな翼が却って動きを妨げて機敏な動きができず容易に捕殺されてしまうのである。1910年に羽毛の貿易が禁止されてからも国内向けに約6300000羽が捕殺されたと推定されている。そして絶滅に瀕してから61年後の2010年現在で2750羽が確認されているという。捕殺が容易だというので「馬鹿鳥」、「阿呆鳥」である。人間よ、それはないだろうと思うが、「阿呆鳥」扱い、または「おかしな鳥」扱いしなければ、いくら金のためとは言え600万羽も殺すことの自己正当化は容易ではなかったのであろう。是非は別にして、そのお蔭で人間達は生活できた訳で、要するに彼らに食わせてもらっていたのは人間様の方なのである。本来なら感謝すべきところを「馬鹿鳥」扱いである。これは大量捕殺の「正当性」をでっち上げ、罪悪感からの解放のために付けられた名称である。今の世も変わらぬが、金になれば手当たり次第ではすべてはやがて絶滅してしまう。今の子供達には天かけるアルバトロスの見事な滑空を見ることはほとんどできないであろう。
私には、アルバトロスに対して特別な思いがある。以前、ボードレールの「アルバトロス」という詩に和して「アルバトロスよ、地上に舞い降りるな・・・」という詩を書いたことがあるからである。だから、私はアルバトロスのことを絶対に和名では呼ばない。「アホウドリ」、その響きに反してその名の由来と歴史は陰湿で血にまみれている。
2011 11/26
234.凡夫の凡夫たる所以
一言で言えば、心底真面目になれない人々のことである。いざとなれば適当にやることを心得ている者、その場に合わせて要領よくやり、ごまかしも厭わない不真面目な者たちを凡夫というのである。そして、「それが世の中」と言わんばかりの凡夫たちによって世の中の大方は占められ、彼らによって動かされている。すなわち、不真面目な者たちによって世の中は動いているのである。心底真面目な者というのは「現実」世界においては除け者、狂人扱い、そうでなければ自殺に追い込まれるというのが多くの事例からも導きだされる。そうならずに自己の生存を可能にさせた者とは「自らの道」を見い出し、切り開き得た者だけである。才人、天才、偉人など言われた人々は例外なく心底真面目な人間たちばかりである。彼らと凡人との決定的な差異はその真摯さの中にある。凡夫が凡夫という境涯を一瞬でも脱することができるのは、彼らが何らかのカタストロフィの体験で全人格的変容をもたらさざるを得なくなった時だけであろう。総じて、凡夫とは本質的に真面目さを欠いている者達のことなのである。庶民とはこの凡夫の言い換えに過ぎず、その言葉を遣う方も遣われる側もそのファジーな意味合いの中で安住してはいるが、その実態は不真面目な集合体ということでしかないのである。だから、何回でも同じ過ちを繰り返すのである。
2011 11/23
Bonjour Monsieur
Il y a longtemps que je ne vous ai vu. Que devenez – vous?
Beaucoup de Japonais sont toujours dans le même état.Je pense que la plupart de gens font semblant de ne pas voir l’accident de la centrale nucléaire de Fukushima . Cet état ressemble au traitement de la mort. En d’autres terms ils font semblant de ne pas voir la mort. Il me paraît que ils éliminent la mort pour elle- même. Par conséquent ils ne peuvent pas voir la réalité de Japon.
2011 11/23
233.軽佻浮薄は性に合わず
軽佻浮薄は性に合わず、過去を忘れるとて今生を酔生夢死とするもよしとせず。さりとて、語りて何か変わるとも思えず、しかすがに語らず死に果せるほどの気もなし。元より、何か変わると思いて語りたる例とてなく、唯ひたぶるに心に起きて已まぬことのみを書き連ねたるなり。言の葉に乗せてここまで来ると、後半は何やら吉田兼好のごとくなってくる。煎じ詰めればどちらにしてもそこに行きつくのであろう。この境涯、漱石のごとく「高等遊民」とするのも憚られて逸民とでもしておこうか。そうかと言って、自らを「聖代の逸民」と言う国木田独歩とも質を異にする。聖代などと言えばまた「いにしえの聖代、すべて起請文につきておこなはるる政(まつりごと)はなきを、近代、このこと流布したるなり。また、法令には、水火に穢れを立てず。入れ物に穢れあるべし。」などと言う兼好法師が戻って来て、つい現(うつつ)の政に目をやることになる。その様如何にと問われれば、、起請文の有無などとは関わりなく、そもそも政の体も成さず、ただただ政、民への配慮もなく、お為ごかしの業、私利私欲の所業あるのみで、今や「入れ物に穢れあるべし」どころではなく、ただちに入れ物など朽ち果てぬべしと言った方がより現実に近い。
こはいつの世のことかと目疑うことのみ多かりし。その事訳言い果す者多々あれども、大戦の後60余年の帰一せるところとぞ覚ゆる。
平成23年霜月22日
232.ペットビジネスの危うさ
友人の話を聞きながら、好きなものを仕事にすることの危うさを改めて感じた。その友人の話では、知り合い(仮にY氏とする)で今年になって会社を退職した年配者が、年金だけでは退職金もすぐに底を突いてしまうので何か第二の人生に適当な仕事を探していたところに「犬の散歩」というのがあったと言う。Y氏は以前から犬や猫などを飼っていたこともあり、すぐに応募すると年齢と住所を聞かれ、研修会に出てくれということになったらしい。研修会では、テレビで放映された動物のビデオが流された後、各地域の担当者の話し合いになったのでその日は退席した。後日、その会社の代表から電話があり、大変だけれどやりますかということで、これも何かの縁だろうとまだ残っていたわだかまりを払しょくするように承諾をしたが、その電話のやり取りでまた気になることがあったと言う、それは対応が「お客様対応」で、若い人には無理ということで中高年の存在を必要以上に強調することである。Y氏はそれがどうにも気になり契約直前に電話で確認すると、案の定、保証金、独占販売権,開店資金として数十万円を支払わなければならず、これではやはり若い人には払えまい、だから「無理」と言ったのである。Y氏はその程度の金額は払えないこともなかったが一挙に不信感が広がり、辞退する旨を伝えると、「フランチャイズチェーンだから当たり前、退職した人間がそんなことも分からないのか」という捨て台詞のおまけまで付いたということである。フランチャイズチェーンであればその保証金、独占販売権、開店資金などの金額は必ず明記されているはずであるがどこにも記載されていなかったと言う。確かにそれは前もって確認されてしかるべき重要事項である。友人の話を聞いていて、これはペットブームと中高年の第二の人生の夢を商売にした、小銭を持っている中高年限定特定産業と言う意味での「ニュービジネス」なのだと思った。「この地域にはまだまだ私の知らない犬が100匹はいる。これからも拡大できる思う。」と言っていたこの会社社長のような第二の人生は、今後ますます貴重になる時間をどのように送ろうかと思っているのでできることなら避けたいと言ったY氏に私も同感である。今後も日本にはこのような隙間産業的職種が手を変え品を変えますます増えることであろう。
※上記のような企業ばかりではなく、動物そのものに真摯に関わっているところもあるだろう。またそうであることを願う。
2011 11/19
231. いつか、パリでレオナルド・ダ・ヴィンチと
これはモナリザの絵画のことではない。石の模様のことである。
あの瞬間、思わずその「石絵」の見事さに身動きできなくなってしまった。20歳の時にパリに来ていればどれほどの絵描きになっていたか分からぬなどと思い上がってしまうほど素晴らしい「石絵」がどこにでもある。「見つめる」ことを知っている者なら想像力は限りなく飛翔し時の流れを忘れる。絵描きであればこの石の文様を観察すべきではないかと、あの時は新たな発見をしたかのごとく高揚したものだが、すでに500年以上前に1400年代後半にイタリアでレオナルド・ダ・ヴィンチが弟子たちに石の壁を観察するようにと教えている。しかし、石の文様に吸い込まれていくように感じたあの瞬間の連なりが感覚に沁み込んでからというもの、その感覚が蘇り反芻し始めると、どこからともなくレオナルド・ダ・ヴィンチが数百年の時を隔ててやって来る。
いつか、下水溝の水音だけを残し、パリの街角が白昼夢となった。石畳を音もなくゆっくりと歩いて来た初老の男が佇み、やおら石塀に跪く、何やら語っている、内容は聞き取れなかったが母音と子音の発音はイタリア語である。時折、彼はその石に触れ、その構図と表情を写し取っている。そのデッサンは明らかにダビンチのタッチであった。
2011 11/18 ふと思い出されたこと・・・
230.「冷温停止、年内達成は可能」は全くの嘘
また始まったかという感じである。そもそも細野何某という原発相は「冷温停止」の意味が分かっているのか?「冷温停止」などという専門用語を巧妙に遣うことでまた隠ぺい工作が始まったとしか思えないのである。東電自身ですら隠し通せず、炉心が溶け圧力容器の底が抜けていると言っているのである。「冷温停止」とは「圧力容器の中の健全な核燃料を100度未満にする」ということである。圧力容器が破壊されていてどうして「冷温停止」が可能なのか、それとも途方もない放射性物質を浴びながら圧力容器を修理をしたとでも言うのか。全く無意味なことを、100%あり得ないことを達成可能とする「認識」それ自体が「走狗のこじつけ」以外の何ものでもないのである。すなわちそれは全くの嘘ということになる。こんなことを臆面もなく平然と言える、またそれを無批判に垂れ流しているマスメディアとは呆れ返って、ただただ絶句するのみであるが、もし、こんな無内容なことをまともに受けている国民がいるとするなら、それは単なる衆愚としか言いようがないだろう。そして衆愚だけの国家にはよき為政者は育たず、やがて滅亡するのは必定なのである。そして、今どのようなこと言ってみても、地震大国の小国が、大きな展望もないまま目先の金に目がくらみ周到な用意もなく、後始末もろくにできない原発に手を染め、自国の一部を失い、さらには世界の海も汚し続けているのが現状だということである。「がんばろう日本」ですむ問題ではないことにいつになったら気が付くのだろうか。TPPしかりこの国の「壊国」は歴史的必然なのかも知れぬと思っている。問題はその後である。
2011 11/18
229.目のやり場もなく、目に付くこと
放射能問題しかり、ホメオパシーしかり、それ以外の問題においても<証拠がないことを根拠にものごとを証明することはできない>(未知論証)ということが、全く理解されずに当然のごとくそのような言説がまかり通っていることに唖然とさせられることがよくある。たとえば、「科学的根拠も有効な統計も存在しないにも拘らず、それを有効とするのは虚偽である。」云々の類である。これは実は何も語ったことにはならない。なぜなら、科学的根拠(証拠)がないことを根拠に証明するすることはできないからである。そして有効な統計とは何か、またそれがどこまで証拠として有効なのかも問題になる。そこから導き出せるのは唯一<論証的には何も言えない>ということでしかない。それをもっともらしい結論に結び付けるからおかしなことになり、結果的には騙り、プロパガンダと言われても仕方のない恣意的な偏向をもたらすのである。
ただし、法廷においては、未知論証の誤謬は例外的に証明責任で代替される。たとえば、Kが「検察は小沢氏をこの事件の犯人と推理しているようだが、そのような証拠はないので小沢氏は犯人ではない。」これは証拠のないことを根拠にした未知論証の誤謬であるが、検察には挙証責任があり、検察が法廷に対して小沢氏が犯人であるとするに足りる証拠を挙げることができなければ未知論証ではあるがKの主張は正しいことになる。
しかし、この間の経緯を見ていても、この国には「推定無罪」は存在し得ないのだろう。「あいつは怪しい」の一言で簡単に犯人に仕立て上げられてしまうのである。これを煽っているのがまた大手一律マスメディアを中心とするマスメディアである。信じられないことに「無罪でも限りなく怪しい」などということを平然と言ってのけるのがこの国のマスメディアである。何とも恐ろしい国である。しかし、これは今に始まったことでもあるまい。今までは何とか「経済」成長の中でカモフラージュされていただけで、ここに来てすべてが否応なくさらけ出されてきたということに過ぎない。未だに燻り続ける「小沢問題」にしても、それに関するアメリカのスネイキーな動きは余程の衆愚でない限りはある程度は察知できることでもあろう。反小沢即親米路線で括られてアメリカのプロパガンダになるしか生き延びる手立てが見い出せぬまま右往左往しながらステレオタイプな文言の組み合わせに日夜あくせくとしているのが大手を始め大方のマスメディアの在り様である。要するに、手も足も出ないのである。これは「アメリカにレイプ」されて以来、「経済勃興」だけを夢見て何とかしたたかに生き抜いてきたつもりになってきた小さな島国国家が、気付いてみれば身も心も蚕食され尽くされていたという現状でもあろう。
話を戻せば、身近に溢れかえっているお為ごかしのさもそれらしい記事などには惑わされず、とにかく検証することが先決であろうと思われる。この未知論証の誤謬もその点では現実的に役立つとは思うが、ただ、実際には「有効とするのは虚偽である。」というような断定は避けられていて、あたかもそうであるがごとくの巧妙に誘導するレトリックが遣われている点は注意すべきである。そして、なぜそのようなレトリックを遣う必要があるのかを考えるべきなのである
もう一つ、面白い例を出そう、映画史上でも名画として名高いエイゼンシュタインの86年前の作品「戦艦ポチョムキン」の中でウジの出た腐った肉を食べさせることに対して水兵が医者にその肉を見せて抗議、詰め寄るシーンがあるが、その医者はその腐肉を見ながら、「これはウジではない、ハエの幼虫だから問題はない」と言う。これはそのまま「プロトニュウムは飲んでも問題はない」と言った現代の「専門家」に重なってくる。未知論証どころではないこんなブラックユーモアとしもどうかと思われるような「内容」を通そうとするのが「1%紳士淑女」なのである。
2011 11/11
228.ダライ・ラマ14世は何のための来日か?
結論から先に言えば、ダライ・ラマ14世は語り得ぬことについては語らぬ方がいいだろう。
「脱原発だと貧富の差が広がる」などとは意味不明である。厳密に論証を必要とすることをファジーな見解でまとめるべきではない。ここで仏教について述べるつもりはないが、日本人の多くはダライ・ラマ14世を「純粋仏教国」の頂点に立つ人くらいな認識であろうから少しだけ簡単に説明しておくと、チベット仏教は7世紀頃、インドから入ってきた大乗仏教とヒンドゥー色の強い密教とを合体させたものである。多くの仏教伝播国がその国の民族宗教と習合していったことを考えれば致し方ない流れではあるが、釈迦の説く仏教とは次第にかけ離れてくる。密教に至っては絶対的存在Vairocana(大日如来)を中心に据えている訳であるから当然、釈迦の説く原始仏教(original Budhism)とは遠のくばかりなのである。釈尊を開祖とする教えが仏教であるなら、密教とはその教えからは導き出せないものとなる。特に加持・祈祷に至っては仏教とはもはや全く異質のものと言わざるを得ないのである。チベット密教がヒンドゥー教の色彩が強いということは、ヒンドゥー教の捉え方にもよるが、それは仏教とは似て非なるものとなる。
残念ながら、ダライ・ラマ14世のどの発言内容を見ても納得し得るものは何もない。要は、不確定事項の羅列なのである。これではあまりに無責任であろう。これでその気になっているのは東電、政府、原発関係者だけくらいである。もしそうでない者がいるとするならその理解できたという内容を聞きたいものである。これらはすべて反証不可能な領域に安住し過ぎた者の言辞と言ってもよい。さらに言えば、ここには本来の「仏教者」としてのあるべき「合理的」判断がないのである。ただし、彼は「脱原発」の直接的な批判、パレスチナ、尖閣諸島、TPPの問題についてはコメントは避けている。彼の「TPPについては勉強していない」という発言くらいが正直というべきか。しかし、今、なぜ彼にこのような質問をするのか?それで何を導きだそうとしているのか?経済面、精神面の両面において独り立ちできない腰砕け状態の日本人は彼に一体何を期待しているのか?逆に問いかけばかりが多くなってしまうが、それにしても東電、政府、原発関係者を喜ばせただけの何ら発展性のない無意味な記者会見というべきであろう。
2011 11/7
227.九電会長夫人の暴言に見る日本人の意識構造
「やらせメール問題」で九電会長・松尾新吾夫人に記者が詰め寄った際に発せられた暴言が「あなたたちって共産党?」、「日本人?」、「あなたたちだけよキチガイは!!」等々ということらしい。いかにもという感じで驚きも何もない。地方の名士夫人のレベルとはこの程度と言うつもりもない。これは現在の日本人の「一般的意識」レベルと言ってもいいもので、発展途上国の意識レベルとそれほどの差異はないだろう。豊かな歴史と文化を持つ国民の意識とはとても思えない。どうしてこうなるのかについては遡れば切りがないが、少なくとも本居宣長以降の冨士谷御杖、平田篤胤くらいまではすぐに辿り着く。そして、宣長以後の平田篤胤らによって短絡する方向で国学を「宗教化」したものが日本人の日常の隅々にまで根を張り、それが「主流」として今でも生き続けているのである。その浸透度の計測を抜きにして日本人の意識構造を検証してみても仕方あるまい。だからと言って、今ここでそこから話を始めるつもりはもうとうないが、とにもかくにもこれは「ここ数年の日本の社会のありよう」ではないのである。現実的に想起し得るところから始めても、数十年前から何ら変わっていない。ジャーナリスト・斉藤貴男が「政府や巨大資本のデタラメを批判すれば、必ず返ってくるのが、『バカ、アカ、サヨク、非国民』だ。」と某紙で語っているが、確かにこれはとても「先進国」としての民主主義国家に属する国民の様相とは言い難く、あまりに幼稚過ぎるのであるが、しかし、これこそがまさに「『ひたぶる』な非倫理性あるいは狂信とが、論理的屈折を経ることなく共存している」宗教感情なのである。すでに日本人の精神構造に入り込んでいる平田篤胤の「神道」イデオロギーを巧妙に取り込んだ戦前、戦中の軍部のマインドコントロールの残滓は消えたわけではない。それは環境的変動で、またわずかな条件ですぐに蘇るのである。実に単純極まりない2,3行の言の葉で人間を絡め取り、思いのままに動かすのである。怪奇もの、スリラーが好きな御仁なら平田の怨霊が今も息衝いているとでも言いそうであるが、しかし、それが「宗教」というものでもある。ただし、ここでさらに問題になるのが冨士谷御杖のような緻密で現代哲学にも通じるような繊細で強靭な世界観とは裏腹に、「国学」を神道化する展開方法にも難点の多い平田篤胤の神道思想を軍部がさらに教化浸透し易いように「加工」したことで、結果的には深まることのない「信仰」のみを国民の意識の奥深くに植え付けたということである。このような「信仰」は「精神の豊穣さ」とは乖離概念にしかならないのである。これは冨士谷御杖の視座に立てば歴然としてくることでもある。このような流れの中から当然、豊かな文化、歴史を持つ国民とは思えぬ低思考回路からの情動的言葉のみが飛び交うのである。そういう者たちに逆に聞きたくなることがある、「あなたほんとうに日本人?」。
「平田神道」は「宗教」ではあるが、展開内容から言っても民族宗教のレベルから決して脱するものではない。日本人の意識に深く入り込んだ、前意識を丸ごと飲み込んで、深層心理にも大きな影響を及ぼす「信仰」とはどのようなものか、想像することは容易であろう。彼らは天皇を戴く「日本国信者」なのである。信者には、国に対する如何なる正当な批判も「ご神体」に対する罵倒にしか聞こえないのである。彼らにとって、国を批判する者、抗議する者とは「異教徒」的存在でしかない。ここにも本居宣長の「国学」に発する「情念」を政治的世界に短絡させる方向で展開させた「平田神道」の難点と、浅薄さが見て取れる。このような日本の「特殊性」を充分に検証しないと、いつまで経っても世界の常識は日本の非常識、日本の常識は世界の非常識で終わってしまうのである。
因みに、平田篤胤は「主流」、冨士谷御杖は「傍流」として扱われているが、やはり真実は主流にあらず、傍流にありと思わざるを得ない。そして、主流が傍流に、傍流が主流になるのも、それは「時」のなせる業である。
今まで経済最優先で突き進んできたこの国の精神的脆弱さは事あるごとにその貧相な姿を白日の下に晒してきたのである。現在、もっとも時間のかかる根本的な問題に直面しているとも言える。
2011 11/3