「ある日、その時」 (13) 2011年9月6日ー

<掲載内容>

209.そして、穴に消えた夫婦  210.ブッシュとビンラディン211.フランス原子力関連施設で爆発 212.連綿と低迷する日本のテレビドラマ 213.驟雨と美辞麗句 214.そして、女優もいなくなった。215.恥ずかしくはないか、本来なら逆であろう。216.(財務)官僚の騙しのレトリック

                                                      <転載・複製厳禁>



216(財務)官僚の騙しのレトリック


 

 彼等官僚の常套レトリックと言ってしまえばそれまでだが、こんな陳腐なレトリックにもいとも容易く引っかかるのがこの国の国民である。震災復興のことなど「現実的には」彼等の頭の中にはほとんどなく、国家予算はあるにも拘らず震災復興の名目で「復興増税」(「期間限定」の所得税、法人税の増税)を打ち出す、そして、「社会保障と税の一体化」ともっともらしいお題目で近々消費税10%アップをする。実際には義捐金同様何に使われたか不明、名目とは裏腹に、ある割合でその税収が使途不明金となる。この増税路線に60%前後が賛成、反対が30%前後である。どこまでオメデタイのかと思うが、これが現在の日本の国民の一般的意識レベルである。やはり世界の「秘境」と言われても仕方あるまい。まず、なぜすぐに国民の首を絞めることしか考えていない彼等の言いなりになるのか、納得してしまうのか、彼等は国民のことなど全く眼中にはないのである。油断すれば何を考え出すか分からない連中であるという認識が国民の側にないということが大きな問題なのである。そして、彼等に影のように寄り添っているのが多くのマスメディアである。マスメディアとは彼等の都合のいいスピーカーでしかないことを何度でも再確認すべきである。こんなことを何度も言わざるを得なくなることが何とも情けないが、相手が何度でも仕掛けてくる以上その度に振り払うしかないだけのことである。そして、また改めてこの国の国民というのは、たとえ崖縁に導かれても尾っぽを振ってついて行く国民なのだということを思い知らされる。しかし、もうそろそろほんとうに目を覚まさないと命はない。彼等の騙しのレトリックは必然的にホームレス、自殺者、犯罪者、貧しい者同士の争いなどを増加させる要因ともなる。それは他人事でない、明日は我が身なのである。自分だけはと思っている者が一番危ない。想定外のこと、すなわち自己のパラダイムでは収まり切らないことはいつでも起こるのである。

                                                    2011 10/1


Sur le problème de Ozawa

Le parquet de Japon est déraisonnable et absurde.Il fabrique le coupable sans  preuve . Dès qu’on gratte un peu le vernis on truve le pays terrible. La justice de Japon est toute pourrie.Et on ne peut pas ajouter foi aux articles de journaux(surtout grand média)  On peut conclure du particulier au général.

※Ichiro Ozawa: homme politique

                                                                                                              suite à prochain numéro

Le journalisme de Japon est à la mercie de gouvernement et n’a pas le jugement sain.

Les bureaux du journal de Japon (Asahi .Mainichi.Yomiuri.Sannkei.Tokyo.etc)

Et les informations de télévision ne disent pas sur la catastrophe de la centrale nucléaire comme si de rien n’etait.  Lavage de cerveau et la dissimulation On dirait que la plupart de gens ne peuvent pas encore comprendre la gravité de la catastrohe . 

                                                                                                                2011 9/30ー10/1ー


 215.恥ずかしくはないか、本来なら逆であろう。


 一人の俳優が社会的に目覚めて、個人として主体的に選び取り直接的な抗議行動を起こす。欧米ではよくあることではあるが、日本では極めて稀なことと言える。それもテレビを中心に活動していた俳優となれば尚更である。これはもちろん山本太郎のことである。また一方では、映画監督の大林宣彦が九州電力のイメージキャラクターを務め、ビートたけしは東京電力の原発の太鼓持ちをやる。両者とも一応映画監督である。確たる「世界観」がその中枢になくては成り立たぬ職種でもある「映画監督」がこの調子なのである。一役者が社会問題に真摯に立ち向かい、映画監督がこの様である。これは本来なら逆であろう。大林の鵺(ぬえ)のような言動などはそのまま九電玄海原発のイメージなのであろう、そして、たけしの安全地帯のいくらでも方向転換可能な屁のような「毒舌」キャラも東電には都合のいい「タレント」なのであろう。要するに、金で動いているだけで、金の出所は問わないのが彼等の彼等たる所以なのである。このような者達が作る「作品」世界などは観る前から底が割れているのである。実際、彼らの作品を今まで面白いと思ったことは一度もない。三百代言風な世界観しか持ち合わせていない彼らにはもはや展開の仕様があるまい。唯一残された方法とは、どうにもならない愚かしい自分自身を描き切ることしかない。もし、そのような方向で展開するのならまだ救いはあるが・・・それはあり得ない。

                                                    2011 9/25ー9/26


 214.そして、女優もいなくなった


 今、日本の女優はと聞かれれば、正直なところインテリジェンスはない色気もない声質も耳触りで声量もない。その上、リズム感もなく動きにも滑らかさもない、一体これは何なのかと言うよりほかに答えようがないのである。これはもう女優と言うより、人目ばかりを気にする目立ちたがり屋のどこかのお姉さん、おばさんがそのまま出てきてそれらしい「物真似」をして何かを「演じている」つもりになっているだけのことである。本来、演技者というのは身も心もさらして「いくら」の危険な世界の住人なのであるが、そこら辺のところがまったく分かっていないというか、分かろうともしない。多くは干乾びた臍の緒のような「心」を三重底にしまい置き、当初より予定され作られた「実体らしき」心の「露出」、それが役者であると思い込んでいる。「役者らしい役者」として何人かの男優は思い浮かぶが、女優らしい女優となるとすぐには出てこない。ワンシーン、ワンカットの監督サイドの切り込みで際立ったところで浮かび上がる女優が辛うじている程度である。それに比して欧米の映画、舞台などでは女優の存在感をひしひしと感じさせるものが数多くある。日本における「女優の不在」ということが意味するするところは極めて大きい。簡潔に言い放てば、それは目覚めた女性の不在ということでもあり、それは結局のところその国の意識レベルの低下ということになってくるのである。このようなことを嘆いているよりプロデューサーとしてはAKB48のようなプロデュースをしている方が金儲けとしては賢いやり方であろうが、またぞろお手軽路線の「キャラ女優」の大量生産で、日本経済と同様、場当たり的な小手先勝負ばかりが横行し将来的に期待し得るもの、継承されるべきものは全くない。海外での、特に欧米諸国の一般的意識レベルから見てもAKB48などは日本人の「幼児性」、「未成熟度」の「興味ある」分析対象にしかならないであろう。

 

                                                                                                                          2011 9/25                                                    


213.驟雨と美辞麗句


 驟雨などと言うと、どこかリリックで吉行淳之介の小説を思い出してしまうが、昨日の雨は台風の影響もありかなりエキセントリックであった。そんな雨の中を傘もささず堂々と歩いている女がいた。茶髪のロングヘアーで美形、スリムな体形で170cm位あるだろうかと思われた。その様はファションモデルがそのまま見も知らぬ街に迷い込んでしまったような感じであった。軒下ではジーパン姿の若い男が雨宿りをしている。どこの軒下にもいるのはズボンを半ばずり下ろした若者と影のようになってしまった男達で、うつろな眼差しと耳から垂れたコードだけが目に付く。傘をさしている者達の間を縫うように女が自転車で突っ走って行った。いつもなら見かける介護人もなく排泄物を下半身にため込み悪臭を周囲にまき散らしながら忙しなく小幅で歩く機械仕掛けの老人の姿もなかった。

 廃屋のような家屋の下見板にはなぜか「美しい日本」の文字だけが残っている。すべての街路灯からは「がんばろう日本」の文字が垂れ下がっているが、幾重にも重なっていて翻ると何が書いてあるのかも分からなくなる。いつの世も為政者の宣言は勇ましく、やっていることとは逆によくもここまで虚偽を奇麗にまとめるものだと感心する。そして、いつしかその文言だけが独り歩きを始めるのである。民主主義の標語のように遣われるリンカーンの「GOVERMMENT OF THE PEOPLE   BY THE PEOPLE  FOR TEH PEOPLE」などにしてもリンカーンの実際にしてきたことを考えればTHE PEOPLE とは MY PEOPLEのことでしかなく、つまるところはMYSELFEということになる。リンカーンの実際の姿として大きく浮かび上がってくるのは、民主主義の体現者としての奴隷解放論者でもなく、アメリカインディアンの最大の抑圧者、大量虐殺者であるということである。小学生ですら知っている「歴史」、「偉人伝」に出てくるリンカーンにしてこの調子である。況や「政治屋」などと称されている者達に一体何が期待できるのか。しかし、現在日本の中枢にいるのは「政治屋」どころではない、そうかと言って「素人集団」などと言って捉え切れるものでもなく、相も変わらず美辞麗句と詭弁だけは達者な単なる「騙り」(かたり)の集団と言った方がより正確であろう。そうかと言ってここで国民自身が身を引いてしまってはそれこそこの国はどん底まで行ってしまうのではないかと思われる。もはや悠長に安手のニヒリズムに浸っている時すら残されていないのである。今やどん底の一歩手前で止められるかどうかの瀬戸際と言ったところであろう。3・11以後、実は何よりも国民一人一人が否応なく問われているのである。低線量放射性物質のごとく意識するとしないに拘わらずその影響は避けられず、もし日本に将来があるとするならその責任は重い。

                                                     22011 9/17                                             

 


212.連綿と低迷する日本のテレビドラマ


 それは衆愚からは良き指導者が現れないのと同様、受け手の感性が鈍磨されていれば質の良い作品も現れないのと同じである。発信者と受信者との絶妙な交信が作品の質をさらに向上させるのは本来いつの世も変わらぬ真実であろうが、そのような関係がまったく成り立ちようがない状況の中でただ右顧左眄の「山師」のような者達が右往左往して遣っ付け仕事をこなしているというのが大方の実情である。勢い視聴率をとるために鈍磨した感性に歩調を合わせあざとい皮相な業ばかりが横行し作品の質はさらに低下して、その相乗作用で底なしの負のスパイラルを形成している。

 総じて、日本のテレビドラマは基本的に落語の世界観を超えるものではない。そして、その縮小再生産はあっても拡大展開させるものは全くと言っていいほどない。常に小さな世界の中で、批判・攻撃対象は向こう三軒両隣にいるような「クマサン」、「ハッサン」の類似か、その変種であり、決して権力者に向かうことはない。分かりやすい例で言えば、チャップリンなどは万人にとって限りなく身近の存在でありながら、一方ではヒットラー政権時にヒットラーを茶化した「独裁者」という作品も作っている。そこには作り手の質とスタンス、そしてそこから派生してくるものによって継続的に更新、触発され続けてなお怯むことのない明確な世界観があるが、それに反して日本の特にテレビドラマなどは、常に強者にひれ伏した、あるいは強者に楯突くポーズだけの弱者同士の葛藤、または重箱の隅を突いて一喜一憂している怨念「御用学者」のような在り様が唯一の「現実」の様相であるがごとき描き方から一歩たりとも越えられない、越えようとはしないというのが実情で柔軟なパワーを感じさせる明解な世界観の片鱗すら感じさせることはないのである。時代劇にしても、刑事ものにしても、恋愛ものであれ、家族を扱ったものであれ、すべてそうである。それは「等身大」を装った(「等身大」とは何かという問題もあるが、長くなるのでここでは控える)偏執狂的現実主義の手法で導き出された実は何もない展開不能な不毛の世界とも言い得るものである。そして何時まで経ってもそれに終始するばかりでそこから脱することことなど思いも及ばないかのようである。そこで、ただとぐろを巻いていることが「人間」の「宿命的」レーゾンデートルだと思い込んでいるかのように微動だにしない。そして今や、そのままとぐろをまいたまま朽ち果てようとしているのである。もし仮に、そのような状況の中で特定の役者の演技が際立たとしても、それは気違いじみた悪しき虚偽の演技と言わざるを得ない。言い換えれば、「実」の領域が明確な奥行きをもって存在し得ない、作為的に自己膨張する「虚」だけの演技をしていると言うことである。さらに言えばそれは視野狭窄な偏執狂的演技と言ってもよい。 そのような演技も時として壊れたコップの断面が放つ光にも似た輝きを持つことがあるが、コップの原型はとどめていない。すなわち有るような無いような、実は何もないと言ってもよいようなものである。

 今後は、取り上げ方、描き方の濃淡軽重は問わないがメインストリームや時の権力構造そのもと対峙するようなドラマを作って見たらどうか。いくら「小手先芸」で目くらましをやってみても「切り込み」が甘ければすべて同じ「浅薄芸」の域を出ない作品となってしまう。そのようなことも含め根本的ところが問われているのである。

 ともかく、いつまでも興信所の調査項目にあるようなどうでもいいような題材をテーマにちまちまと重箱の隅をほじくり返すようなことをしていても、出てくるのは固形化した埃にまみれて干乾びている吸血昆虫の死骸が関の山であろう。それがどうしたというのか、それでどうしろというのか。それで?反芻する収縮波も限界にきているのである。

                                               2011 9/15


211.フランス原子力関連施設で爆発


  福島原発事故の時ですらパリ中がその原発事故の話で持ちきりで、喧々諤々としていたくらいであるから今頃どうなっているか容易に想像できる。日本では3・11以後そのような議論など街のどこからも聞こえてこなかった、4月になると東北大震災関係の話が出ると「まだ、やっているの?」などと、むしろ回避しているとしか思えないような人々の動きの方が多くなった。「国民」の多くはお上の(国)の言っていることをそのまま丸呑み、一部メディアを除き多くのマスメディアの報道内容は一律で問題提起をすることさえしなかった。「優しい国民性」などとは裏腹に,ある意味では「恐ろしい国」の一面をまざまざと見せつけた。

 確かにフランスも原発が多い、そして、そのほとんどが川沿いにある。セーヌ川上流にもある。今回のマルクール核廃棄物処理施設は南仏のローヌ川の川沿いにある施設である。ローヌ川にはそれ以外にも運転中の原発が4か所ある。この事故を機にまた原発論争が盛り上がることは必至であろう。フランスはEC最大の農業国であり福島のようなことになれば一国の問題ではなくなる。どこで事故が起きても食の問題は当然、観光客は激減、隣国、スイス、イタリアなどにも即影響する。イタリアは原発を廃止している国でもあり今回のフランスでの事故はまたイタリア国内の反原発運動を刺激することであろう。脱原発、反原発はもはや世界のすう勢にならざるを得ないのである。人間の食も、居住空間も確保できずにいくら紙幣を握りしめていても仕方あるまい。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島、そして・・・これらは人間の行き過ぎた押さえの効かないすべての欲望に対する警鐘と見るべきで、それを見過ごしていると行きつくところまで行くしかなくなる。その時は人間の業では奇跡が起きてもとても取り返すことはできない。今でも福島の復旧、復興と妙に喧しいばかりで、半減期が2年程度のセシウム134、30年のセシウム137、8日のヨウ素131しか問題にされていないが、そこには半減期1570万年のヨウ素129、や半減期が87年から2万年余が必要なプルトニウム238、239、240、さらにはストロンチウムがいつしか自然消滅したかのごとく表示されていない。これらを勘定に入れてはプランが立たないからであろう。この復興プランのいかがわしさはそのような点にもある。東電・政府は、藁をもつかみたい住民の気持ちに触れたくない逆なでしたくない、とにかくその場を何とかやり過ごしたい、できれば保証枠も最低限度に留めたい一心で根拠もない「故郷に戻れる希望」をねつ造しているだけで、彼らのやっていることを信用しているととんでもないことになる。彼らは「ただちに影響の出ない」低線量放射性物質の特性をフルに活用しているだけで、たとえ故郷に戻れたとしてもいずれ自らも含め子供、孫の代には何らかの形で明らかに影響が出てくると思った方が賢明である。そうでないと言い切る「科学者」はどのような「権威」(≒御用学者)であろうがマッドサイエンティストで「正常」な「科学者」とは言えない。なぜなら、その言明自体に絶対的根拠がないからである。不明な部分が数多くある場合、不用意な楽観的態度は悲劇を生むだけなのである。それは今回の東北の震災でも、原発でも実証済みであろう。まあ、戦時中でも大本営に踊らされた狂信的楽観主義者はいたのであるから、現在でも政府・東電の対応をそのまま何の問題も感じず受け入れているのであれば、もはや何をか況やで、気付いたときにはボロボロと言うことのないように覚悟して自己責任でやってもらうしかない。ただし、3・11以後の原発推進派(黙認も含めて)の原発事故に関してはもはや被害者は存在しない。その住民も含めてすべては自業自得の共犯者であることを確認しておく必要がある。

 そして、この国の「暫定基準値」は世界の非常識であることも知らなくてはならないことであろう。これはいくらでもでっち上げが可能なご都合主義的「基準値」で、「安全基準値」ではないのである。それを承知の上で「出荷」した場合は「出荷」した者にも道義上の責任、場合によってはそれ以上の責任問題は生じてくる。したがって、「暫定基準値」以下、以上であることをいくら述べてもまったく意味のない事で、実は何も言っていないに等しいのである。言ってみれば単なるその場しのぎの言い逃れ、詭弁なのである。彼らとの話し合いはもはや必要ないのである。必要なのは「抗議」と「要求」だけである。もの分かりのいい者は彼らの恰好の「餌食」になるだけである。

 しかし今、避難先で故郷に戻ることだけを夢見てがんばっている高齢者のことを考えると、もはや彼らに真実を伝える必要はないと思っている。それはあまりにも酷であろう。                                                       

                                                          2011 9/12 


210.ブッシュとビンラディン


 最近、またアルカイダの問題が頻繁に出るようになり、当然両者の顔もよく画面に映し出されるようになった。それで改めて両者の顔を見比べらざるを得なくなってしまうのであるが、ブッシュの顔はやはりその経歴を見るまでもなく底が割れていてすべての思考回路が容易に想像、推定できる、しかしビンラディンの顔を見ているとそこまでに至る経緯は分かっているがついいくつかの問いを発したくなるような顔なのである。どちらにしてもビンラディンの方が高潔さ、知性の面でブッシュより遥かに上であろうと思われる。こう言っては何だが、何回見てもブッシュのような顔はニューヨーク市警の指名手配の写真に少なくとも10数枚はあるのではないかと思われてしまうのである。この上もなく軽く、悪賢い顔である。ブッシュはアメリカ国内でも史上最低の大統領などと言われているようだが、それでは例えばリンカーンなどはどうなのか、確かにブッシュなどよりはそれらしい顔はしている。

 しかし、リンカーンにしても「奴隷解放の父」などと持ち上げられているが、本来奴隷解放論者でもなく南部の経済体制を崩すために奴隷解放を政治戦略の一環として行っただけである。また一方ではインディアンに対しは大量虐殺も指揮した徹底したインディアン排除論者で、それは終生変わることはなかった。リンカーンにしても彼が師と仰ぐヘンリー・クレイにしも共に身内をインディアンに殺されているという事情があるにせよ「人類全体からのインディアンの消滅は、世界的には大きな損失ではない。私には、彼らが人類として保存されるだけの価値があるとは思えない。」と言ったヘンリー・クレイの見解も、それに同調するリンカーンの姿勢も当然否定されるべきものである。しかし、多くのアメリカ人の中には対イスラムについても対インディアンと同様の意識構造が潜みくすぶっているのが実情でもあろう。ただ、イスラムとインディアンとではその質も量も比較にならず、自国内のイスラムですら容易に排除できる対象でもない。そして、もしイスラム全体を敵に回すことになればもはやアメリカに勝算はないにも拘らず、アメリカの現状は自国内の反アルカイダのイスラム教徒さえ敵に回しかねない状況である。ここで再びテロでも起こったらと考えると暗澹たる思いになるが、同時にそのような恐怖感を巧みに利用して何でもありのCIAやFBIがまたどのような工作活動をするのかも考えざるを得なくなってくる。すでにCIAやFBIの暗躍の匂いがふんぷんと立ちこめている。10年前のニューヨーク、貿易センタービル上空にはアメリカ空軍機が一機も飛んでいなかったことが思い起こされる。その時、ブッシュはどこにいたのか?そのような不審点がいくつもまた甦ってくる。煽られた恐怖心に後押しされ「安全」という大義による過剰防衛で再び殺戮が繰り返されることは極力回避しなければならないだろう。

                                                       2011 9/9ー9/10

 


209.そして、穴に消えた夫婦


 少し前、誕生日を前に夫を驚かせようと妻が友達と浜辺に穴を掘り、夜間に携帯電話の明かりを頼りに夫を浜辺に誘い出し誤って二人ともその穴に落ち死亡したという事件があった。「サプライズ」を楽しむための「計画」であったようだ。夫婦とも新婚の23歳、妻が友人たちと嬉々として掘ったであろう穴の深さは2.5m、この深さに対して誰も何の危機感も感じなかったのであろう。もし感じていたとするなら、それは「未必の故意」すなわち前意識に「殺意」があったことになる。この「出来事」に対して多くの者は一瞬驚くと同時に「呆れかえり」、そしてやがて「愚かしい事」として捨て去り、忘れ去ることであろう。しかし、これは現在の日本を象徴しているとも言える「出来事」の一つであると思っている。実際に「愚かしい事」と思った人々と彼らとの線引きはそれ程明確でもなくかなり危ういものがある。「サプライズ」などというメディアが作り出したコンセプトに簡単にはまり、乗せられそれをそのまま実行して、死のサプライズでジエンドである。海外で滝つぼに落ちた日本の女性観光客などもこの類であろう。これだけを取り上げても、そこには「判断力」、「想像力」が恐ろしい程欠如しているのが見て取れる。この「落とし穴事件」なども「現代の在り方」そのものがオートマティックに作り出す巧妙な罠に絡め取られた結果とも言える。死の直前ですら全く状況が認知し得ていない、本人達の意識とは全く別次元の最悪の、そして滑稽ですらある作られた「心中事件」である。それは、「サプライズ」などという軽いあたかも別世界を暗示させるような響きに乗せられて現代の闇に頭から突っ込んでしまったとも言える「出来事」である。ここまで露骨ではないがこれに似た「出来事」は緩慢な時間の流れの中で日常茶飯事である。「現代の在り方」そのものによって必然的に編み出され仕掛けられた罠とは、簡潔に言ってしまえば「判断力」、「想像力」をさり気なく心地よく鈍磨させて奪い去ることである。そして、それは小さな世界に幽閉されていることを決して相手に悟らせず、直接感覚的には僅かな痛みさえ感じさせずに弄んだ挙句その寝首をかくことである。今、辛うじて生きている者達は、たまたま運がいいだけの話で本人の意志努力、意識の持ち方、賢さなどとは全く関係ないと見る方が賢明であろう。

 自ら仕掛けた、実は仕掛けられた罠にはまらぬよう気をつけるべきである。

 

                                                   2011 9/6

 


 

アーカイブ
TOP