<掲載内容>
202.世の取り沙汰も75日、そしてまた繰り返される。 203.東京大学教授・児玉龍彦氏への賛辞 204.ブラックハレーション 205.山高故不貴 以有樹為貴 206.意味不明な保安院の言説 207.「アルカイダが狙う原発テロ」は福島のみと言う「専門家」とは?208.「鬼 怒鳴門」
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208. 「鬼 怒鳴門」
「鬼 怒鳴門」(キーン・ドナルド)、これは日本文学研究者、文芸評論家として広く知られているドナルド・キーンが日本に帰化した後の名前として考えている漢字表記の自身の名前であると言う。彼は2011年3月11日の東日本大震災を機にコロンビア大学を退職後、日本国籍を取得し日本の地に骨を埋めるつもりで「来日」した。そして、まず被災地を訪問すると言う。彼は1922年6月生まれであるから今年89歳である。彼のような人間の在り方を実際に眼の当たりにすると、つい、日本から脱出する日本人や被災地に目を向けることもしない自分のことしか考えられない者達などと比較してしまい、「人間」としての「資質」の根本的な違いとしか言いようのないものを見せつけられる。そして今、果たして彼と共に日本文化(文学)・歴史について対等に語り合える日本人が日本に何人いるのかと思う。おそらく数人もいないのではないか、さらに日本文化(文学)・歴史を、日本を愛しているということになるとまた限られてくる。そのようなことが天衣無縫にできるとするなら、彼のように日本について豊かな知識を持ちながらもそれを身を以てさり気なく示すことができる「人間」だけである。「愛すべき対象」について鮮明な像も結ばず、知ろうともしないで「国を愛する」などと言う言葉は本来成り立ちようもなく、それは妄想的幻影で虚しい「暴挙」と言ってもよいものであろう。もっとも、「愛する対象」が不鮮明にしか見えないからこそ「暴挙」が成り立つとも言えるが、やはり「自分の言葉」で語り得ないものについては「分かる」という次元に至ることもなく、たとえ100万語を弄したとしても対象はますます不明瞭に遠のくだけである。もし語り得ないのであれば、それは結局のところ「無」としか言いようのないもので、実は「何もない」のである。これまでに一度として、その国の文化・歴史を知ろうともしなかった者が、またそのようなことを通してその「国を愛する」というところに至らぬ,すなわち自らの言葉でそれを語り得ぬ者がいくら「国を愛する云々」などと言ったところで、それは身勝手な偏狭的宗教の「盲信」と同様、とどのつまりが「亡国の輩」にただ利用されるだけというのが今までの経緯そのもので、それはそのまま本質的に何も変わることなく今の実情につながっている。
「鬼 怒鳴門」の存在を考えても、日本の現状はあまりに許しがたく、本来なら日本人全体が慙愧の念に堪えかねて怒りさえ覚えるというのがしかるべき精神状態であろうと思われるが、日々の事象は相も変わらぬ陳腐なたとえそのままに、砂地に吸い込まれる水のごとく跡形もなく吸い込まれて行く。やはりこの精神的「大地」はすでに完全に砂漠化しているのではないかと思われる。どこからともなく湧いて出てくるのは「明日のない夕べ、的のない矢」という言葉だけ、それがエンドレステロップのように頭の中を過って行く。そして、それが現実なのであろうと思う。安手の「希望」などは飛びつく間もなく一瞬の内に干乾び、風化する。しかし今、「沈み行く船に」また一人「鬼 怒鳴門」という行き着くべきところに行き着いた「人間」が乗り込んできた、そのことを思うと一瞬の清涼感が身中を走る。
「鬼 怒鳴門」、しかしつくづく意味深な名前である。
2011 9/3
207.「アルカイダが狙う原発テロ」は福島のみと言う「専門家」とは?
「某軍事アナリストが、『福島第一原発がテロ攻撃の標的とし狙われる”必然性"がある』と強く警鐘を鳴らす。」とあった。そして、「敵の立場で考える」のが軍事や危機管理の基本、「費用対効果」、福島原発の内部構造、配置が大量に報道されている等々とそれについて「具体的」に語っているのであるが、そのようなことは専門家ではなくとも容易に想像できることである。ここで問題なのは「敵の立場で考える」という者自身のパラダイムである。それが「アルカイダ」の視点、見解にどこまで近づいているかが重要なポイントになる、それは様々な世界の視点から見る日本の現状と言い換えてもよい。そして、如何なる「敵」と言えどもそれ相応の「プライド」があり、客観的には「こじつけ」であろうとも戦うための「大義」が必要となる。今や単なるアメリカの属国に過ぎなく、放置して置いても自然に倒れかねない日本などターゲットにしてもどれ程の意味があるというのか。そして、そのような国にテロを仕掛けて、その自らの「大義」すら無化してしまう原爆テロの無差別的「物理的効果」によってもたらされるものに彼らの宗教観も含めた世界観はどのように照合しうるのかという根本的な問いに彼ら自身が答えられない以上、またイスラム過激派集団が「人類滅亡」を志向する集団ではない限り、それはあり得ないと見る。たとえば、「日本軍」に攻撃されたからと言って「復讐を宣言」して台湾を攻撃して、どれだけの効果が得られるのか。効果の問題だけではない、彼らの敬愛する「指導者」が「イスラムに反する」屈辱的な葬り方をされたのである。反アルカイダのイスラム教徒ですらアメリカのイスラムに対する侮蔑とも取れるその仕打ちを全面的に納得する者はいないはずである。彼らの攻撃があり得るなら必ずアメリカ本国か、直接アメリカに影響の出るところであろう。弱体化した瀕死のアメリカからも見放されている日本、アメリカにとっては痛くも痒くもない国、ただ反撃の口実を与えるだけの国などにテロを仕掛けても組織からもイスラム圏の民からも支持、同意は得られないというのは容易に想像できる。彼等にとって日本はキリスト教国ではない。異教徒ではあるが歴史的にも敵対するものではないのである。
原爆テロによって「世界規模の放射能汚染で大パニック」を引き起こすことができる」などと、その「危機」についても述べているが、その時はイスラム教国自身もその環境内に存在することになり、イスラム教国そのものの自爆にもつながることになる。彼らは単なる「狂信集団」ではない。この「軍事アナリスト」の日本に対する「買いかぶり」と彼らに対する単純化した「見くびり」が気になるところである。それは、アメリカに捨てられつつある者がアメリカと一心同体となってに抱いた「妄想」とも取れるのである。世界的視点に立てば、日本はもはやそれ程の価値もないのである。沈みかけた船に攻撃を仕掛けて何が誇れるのか、これはこのようなことも視野に入れて検証しなければならないことで、仮想「敵を想定する」ことばかりが先行していては思わぬところで足をすくわれる。まず「敵の立場で考える」より「相手の立場で考える」ことが先決であろう。要するに、この軍事アナリストはアルカイダを敵と想定して福島第1原発をそのターゲットとした場合、アルカイダにとって千載一遇のチャンスであることをあたかもゲーム感覚の乗りで事細かに述べているのであるが、しかし、日本はもはやアルカイダの「ターゲット」だけには留まらず、どこの国に攻め込まれてもひとたまりもないのである。どちらにしてもこれ以上日本が世界の「実験場」となってしまうことは避けなければならない。そして、それを推し進めようとしている者とは何者なのかを見極めなければならないということである。
この軍事アナリストは繰り返し「ターゲットの条件を満たしているの原発は福島第1しかないのである。」と強調しているが、それではどうすればいいかは全く述べられていない。これは「警鐘」と言えるのか「妄想」なのか。それとも軍需産業の下地作りの広報なのか。おそらく彼がその対策を具体的に述べ始めた時、彼の「本体」が見えてくるだろう。万が一、彼の言う通りであったならアルカイダはイスラム圏からも完全に浮いた単なる「狂信集団」となる。そして、仮に彼等がその作戦に成功したとしても後味の悪い大きな禍根を残すことになるだろう。彼らが直接手を下さなくとも「自然に」福島原発は限りなく放射性物質を放出しながら地下に潜行して行くのである。原発とは日本列島に「移植された」悪性腫瘍である。そして福島は末期悪性腫瘍でもはや手の施しようがない地域となってしまった。今はこれがさらに日本全土に転移しないことを祈るよりほかはないというのが実情である。この「悪性腫瘍」の「移植」に手を貸したすべての者は「犯罪者」であり、それを許した者は「共犯者」と言わざるを得なくなってきている。これから先、実行犯ではなかった多くの者も「共犯者」として意識するしないに拘わらずこの「負の遺産」を全身に浴びつつ生きるより仕方ないのである。もはや「自分だけは」などと言う戯言も通用せず、逃げ切れるものではないと知るべきである。
2011 9/1
206.相も変わらぬ意味不明な保安院の言説
保安院・森山善範が「『原子爆弾は一瞬に爆風、中性子を放出し、破壊するもので、単純に放出量で比較するのは合理的ではない』と述べた」とある。それではそのことについて自ら「合理的」に展開・提示すべきであろう。科学的ではないというのなら分かるが、その言葉は使えないので「合理的」とい言葉を使ったのであろうが、その使用方法そのものが彼らの姿勢を示している、意味不明の言説である。そもそも物理現象について「合理的」などという言葉がどこまで使用可能なのかも不明で、未知数が数多く存在するもの対して合理的(論理に適っているという意味で)であるかそうではないかは成立し得ない。彼らの狙いは受け手が「合理的ではない」という意味を「科学的ではない」と言う意味にすり替えて取ることであろう。事ほど左様に油断は禁物なのである。また、もし彼らが「合理的」という意味を「目的に合っていて無駄のない」と言う意味で遣っているのなら論外であるが、そこからさらに別の大きな問題が生じてくる。すなわち、その目的とは何か?要するに、これは彼らにとっては「逃げ」の利く一石「三鳥」の言葉なのである。
2011 8/27
205.山高故不貴 以有樹為貴(山高きが故に貴からず 木有るをを以て貴しとす。)
これは平安時代に成立し、鎌倉時代に普及した「実語教」という五言の対句集の中の一つである。江戸時代には寺子屋の教材としても広く使われた書物でもあるが、この「山高きが故に貴からず 木有るを以て貴しとす」に対して「富士を見ぬ 奴がつくりし 実語録」という川柳があるらしい。これによっても江戸時代にこの書物の内容がいかに人口に膾炙されていたかを窺い知ることができる。この書物には確かに儒教的色彩があるが「富士を見ぬ奴」が作ったのではないことは時代的背景からも浮かび上がってくる。すでにこの書物の成立以前、奈良時代には「常陸国風土記」(713年)に富士山の貴き様相は描かれている。その後807年、空海(弘法大師)も富士山に登り石仏を勧進したとある。さらに1149年「本朝世紀」には富士上人が山頂に「一切経」を埋納したとある。そして、平安文学の「更級日記」(1059年頃成立)にも登場してくるくらいであるから富士山は霊峰富士として「実語教」成立時期にはよく知れ渡っていたと見る方が適切である。川柳と言ってしまえばそれまでだが、この「実語教」にある「山高故不貴 以有樹為貴」は「富士を見ぬ奴」が作ったのではなく、「富士を知っている奴」が作ったのである。富士が「貴く」見えるのはその高さではなく、その形である。もし、「富士を知っている」者が敢えて富士山をイメージして「山高きが故に貴からず」と言っているのなら、これは「ただ者」ではないが、言おうとしていることは山は高ければよいというものでもなく、そこには緑の木立が生い茂っていなければ山としての貴さもないと言うほどの意味であろう。それだけでも充分現代的に生きる言葉である
福島の猪苗代町には一切経山という山がある。名前の由来は、諸説はあるが一説には弘法大師が一切経を埋めたとされることからきている。標高1948mとさほど高くもなく、木立もない、現在も火山活動を続けている活火山である。伝説とは言え、なぜこのような霊峰の面影すらない山に一切経という仏教経典を埋めるのかと思われるが、この山は当時から火山活動が活発で「山を鎮める」という意味もあったのではないか。近年でも1893年に大噴火し、最近では1977年に噴火、2008年には300m程の噴気が確認されている。今の福島は東に原発、西に活火山、そして原発はいつ収束するか全く不明、これで火山活動でも活発になったらどうするのかという状況である。福島県知事などは弁解がましいパフォーマンスなどやっている場合ではないと思われるが懲りない連中である。実際に、福島県は原発次第では廃県になるかならぬかの瀬戸際であろう。この場合の廃県とは死地と化した廃墟である。※改めて言うが、政府の原発「収束」に向けての工程表、試算などはそれ程の根拠もなく(彼らの言う不確かな根拠はある)、当てにならない希望的観測と見た方が賢明である。
※2011年8月25日の時点での見解。3・11以後の政府・東電の隠ぺい工作なども含めた総合的な判断である。今後徐々に発覚してその対応を迫られる結果については不明であるが、根本的な姿勢が変わらない限り現状維持の方向で進むことに変わりはない。
2011 8/25
204.ブラックハレーション
○ブラックハレーション
今や至る所「イヤ―ゴ」ばかりで其処彼処でブラックハレーションを起こしている。たまたま、「普通」に生きている者に出会うと後光が差しているように見えるから不思議であるが、それも束の間、凡夫とは身近な愛すべき者が死なない限り、すべては他人事なのだということを改めて思い知らされる。実際、現代版ペストのような放射能汚染ですら、未だに他人事のような者がいるのである。三文役者の三文役者による三文役者のための政治、それもその三文役者がすべてイヤ―ゴの手下では遅かれ早かれこの国は滅ぶしかあるまい。すなわち、主となるべき「明」も存在せず、「暗」を担う小振りなイヤ―ゴばかりが跋扈しているのである。それでもなお我々は自らの足元だけでも光を当てて進むより手立てはなさそうである。
※イヤ―ゴ:シェイクスピア劇の「悪人」
○風評被害とは便利なコンセプト
風評被害とは、煎じ詰めれば国が起こした被害なのである。風評被害とは加害者を「特定できない便利なコンセプトでもある。国が定めた基準値にどれだけの信憑性があるのか。国を頼りにできないことは3・11以後いやと言う程「思い知った」はずであろう。多くの者が見殺しにされたのである。しかし、「被害者」自身が、加害者は特定できるにも拘らず、漠然とした「風評被害」が実体としてあるかのごとく、その原因であるかのごとくこの言葉を頻繁に遣う。それを聞いていると何とも言いようのない気持ちになってくる。おそらくまた例の政・官・財・マスメディア一体となって責任回避の誘導尋問とマインドコントロールを繰り返した結果なのであろうが、つくづく阿漕な事を際限なく繰り返す輩であるという思いに駆られる。
※放射性物質検査済みとは言っても、何について検査したのかも問題になるところである。ヨウ素131の表示はあっても半減期が1570万年のヨウ素129の表示はない。またセシウムもセシウム134、137の表示はあっても半減期が13.1日のセシウム136の表示がない。これでは根拠のある推定も憶測も成り立ち得るのは避けられまい。
○多種多様な奇妙な職種
「○○アナリスト」これだけでどれだけの職種があるか、おそらく、普通名詞の数だけあるのであろう。そして、それらと評論家との線引きはどこら辺にあるのか。「○○ジャーナリスト」などもその類で、レポーターとの内容的違いはその自己主張、見解の程度、強弱位ではなかろうかと思われる。さらに「国際文化人」という名称に至っては皆目見当もつかない。世の中には、まだまだ実態不明の肩書がいくらでもある。昨今では「○○大学教授」、「識者」と言えどもいかに「危うい人々」でもあるかが実証されたばかりであろう。それでは誰を信用すればいいのか、完全に信用できる人などはいないと思った方がいいだろう、ただ、職種に拘わらずその人間の言動、方向性、立ち位置を検証すれば信用に足る人物かどうかは推定できる。立ち位置とは、たとえば既得権益側にいるのかいないのかである。医者であればその軸足が医療産業にあるのかないのかなども検証対象となる。詰まるところ、いつまでも人に頼ってばかりいないで自分で考えるということであろうか、やはり自恃の念というものが必要となってくる。それなくして、働いて、食って、遊んで、寝ることが生きることだと思っているとすぐに根底からひっくり返されてしまう。
○Wir alle fallen
われわれはすべて落ちる つまり今やらなくてはならないことがある われわれはすべて落ちる だから未来を道連れにしてはならない われわれはすべて落ちる そこで未来に託さねばならないことがある 未来を道連れにしてはならない。
未来を道連れにせし者よ
疾く 落ちなん
末に託せしものひとつ
現身ひとつで落ちばやな
2011 8/24
203.東京大学教授・児玉龍彦氏への賛辞
今、漸く人間に出会えたという思いである。これこそが真の学者の在りようであると思っている。児玉教授の言動は「似非」なるもののすべてを明快に浮かび上がらせ、切り捨てた。彼こそ本当の勇者であり、すばらしい科学者である。その瞬間、再び集積し始めたすべての欺瞞的なマスメディアの言説がハレーションを起こしながら音もなく心地よく霧散して行くのを感じた。児玉教授は、現場の状況を的確に押さえ、科学的検証を最新の技術で割り出しながら一瞬のくもりもない明晰な論理を展開して行くが、そこには偏向的知性ではない人間としての全的知性に裏打ちされた感性が確実に息づいていた。
万が一、これに異を唱える者、あるいは単に様々な意見の一部として見る者がいたとするなら、それはどのようなことを言ってみても詭弁であり同時に虚偽となる。そこに至っては救いようのない人間失格となってしまうことを思い知るべきなのである。そのような者達とは、言ってみれば日本を滅亡に導く「もっともらしい詭弁」と「お為ごかし」だけは巧みな単なる金の亡者達のことでもある。今では、我々がまずこの地上にどのように生存できるのかが最大の問題になってきているのである。そこには一義的に「金の亡者達」などが出る幕はない。
しかし、児玉教授のような日本の誇りとも言える教授のことを一切伝えぬテレビ、新聞などはもはや全く意味のない、必要のない「衆愚育成装置」としか言いようがないものである。生かさず殺さず脳細胞を緩慢に劣化させる「衆愚育成装置」の唯一の利点は、何も知らずに騙されたことも分からず大口開けて笑っている内に死を迎えられるということくらいであろうか。
2011 8/19 8/20加筆
Le 27 juillet 2011.Professeur Tatuhiko Kodama(Université de Tokyo) a parlé del’influence de la santé sur radiation. Il a critiqué sur la négligence gouvernementale en disant la situation présente de Fukusima.Et il était fâché au gouvernement qui ne prend pas les mesures qui correspondent la condition présent. Cependant sa déclaration était logique et claire.Le professeur Kodama est scientifique vrai et est un être humain merveilleux. Bien que regrettable sa parole et conduite ne sont pas prises par le mass média.C’est le destin de ceux qui disent la vérité?
Je pense que j’ai rencontré l’être humain vrai après un long silence.
202.世の取り沙汰も75日、そしてまた繰り返される。
人の噂も75日とはよく言われることではあるが、お隣の韓国では90日となる。季節の変わる頃にはすべては忘れ去られ、人の心も変わるということでもあろう。そして、世の中にはそのような人の動きをよく心得ていて巧みに人を操る者もいる。その多くは,内省などとは全く縁のない軽佻浮薄、厚顔無恥な三百代言と言ったところが一番似合いそうな手合いである。彼らはどうも日陰が嫌いだと見えていつの間にか表舞台に立っている。自己顕示欲の所為なのか、歪みの生じたその欲望自体が軽佻浮薄、厚顔無恥を支えているかのようでもある。愚かしい失策も、スキャンダルも75日で取り戻せると思っている彼らにとってはその日数は自分に生じた負を払拭、挽回するための期間であり、そのために他人を傷つけることはあっても、反省、後悔などが一瞬たりとも彼らの頭の中を過ることはない。そこが彼らの彼らたる所以で、そこから発せられる奇異な言動もすべて常人の常識の範囲外である。
それでは、常人はいつも彼らにドラスティックにやられているしかないのかと言えば、そうでもない。消極的ではあるが確実な方法は、彼らの所業を絶対に忘れないということである。つまらない日常的瑣事や井戸端談義の内容などはすぐにでも忘れてもいいものであるが、世の中の忘れてはならないことを忘れ果て、朝三暮四の猿になっていては彼らの思う壺である。災害やら増税なども常に忘れたころにやってくるのである。「絶対に忘れてはならないこと」などと言うと悟りすました御仁には抵抗があるかも知れぬが、そこに彼らの付け入る隙ができるのである。凡夫の「一矢」とは、凡夫が自らを凡夫として明確に位置付けられた時にしか手にすることができないものである。もう少し具体的に言えば、それは「空気を読む」「気の利いた」などとは全く異質のところにあり、何者かに吹き込まれたものに動かされているのではなく、自分自身の本当の思いをどこまで自分なりに素直に表現できるかにかかっているということである。
残念ながら、この国には現在に至るまで主権たり得る「民」は存在していないと思っている。主権在民などとはおこがましく、画餅に等しい。そもそも戦後民主主義などいつ現実的にあり得たのか。今の現状は、単に戦後の形式民主主義の限りない衰退と言った方が分かりやすいであろう。もし、主権たる「民」があり得るのなら、それは「ご都合主義」ではなく「考える」ことを強いられ、同時に行動する「民」なのである。それは「がんばろう、日本」などという標語で簡単に了解して一丸となる「民」ではない。そこで、またぞろ登場して「一丸となる」ことを煽り立てるマスメディアとは、大戦中も終始一貫「大本営」の広報を務めたマスメディアと何ら変わるところはなく、全く同質の機関である。このような現状を見るにつけ、やはりこの国の国民には「思考停止」をすればすぐに現出するファシズムの「不自由さ」が最も適しているのかも知れないなどと思ってしまうのである。それは自由を真に「わがもの」とできない「民」と言い換えてもよいだろう。
今年2011年で戦後66年、やがて「世の取り沙汰も75日」となり「過去を忘れて」また「愚かしい事」が繰り返されることだけは避けたいものである。もっとも、その頃には低線量被曝の影響でそれどころではないのかも知れないが、2011年3・11の福島原発事故以後の原発事故については当該地元住民も共犯であることを改めて確認しておく必要があろう。再び原発事故が起こればもはや経済危機がどうのこうのと言っている場合ではなく、日本の国土で生きること自体が困難となることは必至なのである。すなわち亡国、日本国の滅亡の時である。それは何としても食い止めなければならないことである。戦時中の病的精神論のコピーのような「がんばろう日本」などを連呼するより、今、本当の意味での日本人の「英知」が問われているのである。それがなければ後は最悪の状態に陥るだけである。
そして、最期に付け加えれば、「過去を忘れない」とは「愚かしい行為」を二度と繰り返さないという方向でしかその意義は発揮されないということである。ただ「忘れるな」だけでは何の意味もない、それではむしろ自らの人生の精彩さを欠く方向に進むことになるだけである。それから、戦時中の「精神主義偏重」を批判することが大東亜戦争論と一線を画すると思っている向きもあるようだが、全く意味のないことである。なぜなら、戦争中にあったのは「悪しき精神主義」、「病的精神主義」そのものでそれを「精神主義」という言葉で括ること自体においてすでに大きな過ちを犯していると言えるからである。そもそも、日本国にとどまらず世界に通用する「精神主義」とはある意味では非常に「合理的」に構築されているものであり、生半な姿勢で扱える代物ではない。分かりやすく至近卑俗な例で簡潔に言えば、その過ち、虚偽とは「下心」しかない者が「真心」を唱えているようなものなのである。それは「小国が生き延びる手立て」として考えられ「活路」と称されたものに「美辞麗句」を施した程度のものと言った方がよいかもしれない。より正確に分かりやすく言えば、「戦時中の取って付けた病的精神主義の偏重」ということなのである。そう捉えない限り日本文化に深く根ざしていた本来の「精神性」そのものまでもその「悪しき精神主義」の反動で忌み嫌われ排除されることになるのである。そして、それが戦後、日本人が悪しき拝金教的経済動物と変貌していく要因ともなっているのである。また一方では、そのような不自然な営為そのものによって必然的にもたらされ、増幅される「心の闇」が似非宗教、呪術などを容易に誘発させる土壌を作り上げる。そして、「宗教は究極のビジネス」などと嘯く教祖などが現れることにもなるのである。しかし、それはそのまま、戦中、大本営も「究極のビジネス」として成り立ちうる「宗教」すなわち似非精神論をフルに活用させ人心を掌握、操作し、それによって侵略そのものを正当化しよとしたことにもつながっているのである。したがって、戦後、突然化け物のような教祖が現れ、「ポワ」(殺人の言い換え)などという言葉で殺戮を繰り返した訳ではなく、それは、すでに戦中から地下で脈打っていたものが機を得て再び噴出したということに過ぎないのである。多くの者が戦中よりあまりに似非精神論に翻弄させらてしまった結果、今度は真の「精神論」をも拒否、排除し、その挙句、皮肉にも人々の中に精神的脆弱性が生み出され、再び似非「精神論」、似非宗教に絡め取られるというような事態に陥っているということである。このような実情を見ていると、やはり精神構造が質的変化したとはとても思えず、むしろますます衰退、退行しているとしか言えないのである。「小国が生き延びる手立て」とは原発推進論者も頻繁に遣う文言でもある。彼らと大東亜戦争を仕掛けた、「病的精神主義」の文言で飾り立てた下心だけの者達とは同質なのである。このような状況下でまた似非精神主義を振りかざす者が現れればひとたまりもないのではないかとも思われる。現に似非宗教、似非呪術師が跋扈し、時折摘発されているが、見ているとどれも実に馬鹿げたことで騙されている。しかし、それも氷山の一角であることを考えるとまた恐ろしくもある。これで経済状態が最悪になれば、当然「ヒットラー」の登場の準備は整うのであるが、ただし、そこには今までの歴史上あり得なかった宇宙的エネルギー、すなわち「放射性」物質が現前の存在として「人間」を、または「人間」の想定し得るすべての「営為」を拒否するものとして立ちはだかることになる。まだまだいつ終わるともなく「人間」の無能の証である「想定外」は続くのである。
2011 8/17
8/18加筆