「ある日、その時」 (11)2011年8月1日ー


〈掲載内容〉

197. 「七行絶句」 198.国民栄誉賞?哀れである。 199.「本当のニュースを伝えるところが1局だけある」 200.「知足(足るを知る)」とはよく目にするが・・・201.また8月15日がやってくる。

                                               (転載・複製厳禁)




201.また8月15日がやってくる。


 8月15日、それは父の祥月命日である。戦争に関わった人間が終戦記念日に亡くなる。なかなかできることではない。身内の者にとっても忘れようようにも忘れることのできない日である。父の友人の中には、ゼロ式戦闘機の生還者や、日米開戦直前アメリカから強制送還されたアメリカ事情に詳しい人物でアメリカに勝てる訳がないなどと明言し憚らず周りの者達を常にひやひやさせていた者もいた、また、「8月15日、われら爆死せり」などと記した友もいたりと様々であったが、皆すでにもう他界している。NHKなどでも毎年この時期になると激戦地で終戦を迎えた人達の話を放映したりしているが、80代から90代前半になった元日本軍兵士の途切れ途切れに語ることは実に生々しく痛ましい。そのような姿を見るたびに戦争をどのような視点からであろうが、またどのような形にせよ絶対に「美しくし」語ってはならないという思いがまた改めて強くなる。もし、平和や反戦を唱えつつ、戦争に「人間」の本然的なものを見たり、語ろうとするなら、それはやはり危険な領域に入り込んでいる者と見なされても仕方あるまい。戦場に大義など微塵もない、あるのはただ殺すか殺されるかだけの殺戮であるということは日本兵に限らず帰還兵が異口同音に言うことでもある。そして、大本営は敗戦直前に、食糧もなく、武器弾薬も底をついた疲弊しきった連隊に対して総攻撃の命令を下している。常軌を逸した大本営の醜態はその後も8月15日まで限るなく続き、終戦も知らず徒に命を落とした者達も数知れない。この狂った機関である大本営の釈明、弁明とは「想定外」と同様、すべてにおいて無能の証左でしかない。そもそも,その当時のアメリカを知る一民間人ですら日米開戦を無謀な戦いと位置づけているのである。敵も知らずに戦いを仕掛けるものを愚者と言わずに何と称するのか。恐怖心と空々しい大義を植え付けられ死に追いやられた人々のことを考えると何とも言いようがないが、敗戦が確実に見えていたにも拘わらず、多くの兵士を無駄死にさせた大本営の責任は極めて大きい。的確な状況判断ができていれば広島も長崎もなかったのである。そして、この戦いで有能な人間達を死地に追いやったことはその後の日本にとって大きな損失となったことも確かである。実際に、戦後の日本の中枢部で実権を握るのは、自らを戦争を知る「戦争体験者」としている机上の操作に明け暮れていた主計大尉・中曽根康弘など大本営の安全地帯で、もしくはその周辺で自己保身を画策していた者達である。当然、激戦地で無謀な作戦と知りつつ大本営と対立しながらも戦い続け、息絶えた有能な将校たちにとっては大本営の現状無視の「命令」などは唾棄すべきものであったことは容易に想像できる。そして、その多くは「玉砕」などという美称とは程遠い汚泥にまみれた死を余儀なくされたのである。果たして、今、生き残った「戦争体験者」がどこまでその敗戦の教訓を生かし戦後の日本をリードしてきたかは現在までの経緯を見れば明らかであろう。そして、それが2011年3・11以後、それこそ「想定外」の事象によって様々な形で否応なくその実態が一挙に露呈し、集約されてしまった、または集約されつつあるのである。戦後とは、一言で言えば「似非」主流、「似非」なるものへの止むことのない希求でもあった。2005年、「勝つ高揚感を一番感じるのは、スポーツなどではなく戦争だ」などと平然としたり顔で語っていた都知事・石原慎太郎は、大戦中は戦もしらぬ12,3歳の少年であった。これを聞いたら、地獄の戦いを強いられ死んでいった兵士達は一体どう思うのであろうか。ヒットラーは死体を見ると恍惚となっていたと言われているが、石原もその類なら今更何をか言わんやである。そして、さらに被災地に対して「天罰」が下ったなどと臆面もなく言っている石原とは、無責任な政・官・財複合体の「はらわた」そのものをそのまま身をもって具現している者でもある。それを言うなら、石原自らも含めた政・官・財に対して「天罰」が下ったと言うべきなのである。このような機を見てはすり替える手口、決して自分達の責任にはしない姿勢そののものは、そのまま大本営でもあり、現在の官僚組織そのものなのである。因みに菅何某も「似非」なるものを求めて止まない似非政治家の典型であろう。試しに思いつく名詞に「似非」を付けてみるとよい。その際の基準は言動の「「欺瞞性」、「方向性」、とその存在論的位置などである。枚挙に暇があるまい。

 

                                                                         2011 8/12


200.「知足(足るを知る)」とはよく目にするが・・・


 この言葉も「自然体 」と同様その遣われ方によっては何か奇異な感じのする言葉である。「自然体」などは一般的には「ナチュラル」程度の意味で遣われているのであろうが、「ナチュラル」でさえ人それぞれ様々な捉え方で一定していない上に「自然体」となるとさらに分からなくなる。本来の意味からすれば、「自然体」とは無駄な力の入っていない基本の構えであったり、それを敷衍させて身構えたり先入観を待たないあるがままの態度ということになるが、基本の構えはともかく身構えず先入観を持たずあるがままの態度で人と接する人間などは現在では皆無に等しい。もし、いたとすれば「仙人」に近い存在でもあろう。時折「私は自然体です」、「あの人は自然体です」などと言うのを耳にすると、何を勘違いしているのかと思ってしまうのである。見ればそれはとても「自然体」などと呼べる精神状態ではない。敢えて言えば単に「イイカゲン」であったり、「だらしない」だけではないかと思われることの方が多いのである。

 「知足」も過度の欲望を諌める言葉としては有効でもあり納得できるものであるが、たとえばそれが難民もしくは難民のような状態を強いられた人々に対して遣われるのであれば不適切なものとなる。また探究者にとっても「知足」などという精神状態はむしろ妨げとなるだけで、決して生きる方向ですら効力を発するものではあり得ないだろう。ただし、「マッド」の付くような探究者は論外である。なぜこの「知足」と言う言葉を目にする度にその遣われ方がここまで気になるのか、一つには不適切な遣われ方によってこの言葉が問題のすり替えとして容易に蔓延してしまうということである。そしてもう一つには、もし「知足」と言うのが正当であるなら「百尺竿頭一歩を進む」という限りない真理追究、すなわち生きる気迫ともいうべきものはどうなのかという疑問である。

 

今日は暑かった。 窓を開けると火花が散るような激しい稲光がして轟音とともに近くに落雷した。

                                                   2011 8/7


199.「本当のニュースを伝えるところが1局だけある」


 これは「ハリー・ポッターと死の秘宝」の20章でロンがラジオを取り出し、周波数を合わせながら言うところである。

 「一局だけあるんだ」ロンは声を落としてハリーに言った。「ほんとうのニュースを伝えるところが。ほかの局は全部「例のあの人」側で、魔法省の受け売りさ。この局だけは・・・聞いたら分かるよ。すごいんだから。ただ毎日は放送できないし、手入れがあるといけないから、しょっちゅう場所を変えないといけないんだ。それに選局するにはパスワードが必要で・・・」。とても「良い子」の「児童文学書」、「ファンタジー」では収まる作品ではない。この作品の中で使われている「魔術」とは言い換えれば「想像力」そのもので、それが様々に仕掛けられたメタファーによって駆り立てられるが、「魔術」自体にそれ程の意味はない。したがって、この作品について「魔術という古い世界と現代のティーンエイジャーの世界の交錯がこの作品の醍醐味」(明治大学・高山宏}とは思わない。さらに宗教的観点からの批判なども的外れで愚かしいの一語に尽きる。この作品に「オカルト」、「悪魔的要素」を見る者もいるようだが、それについては逆にその見る者の精神状態が病的に浮かび上がってくるだけである。よりよく生きるためには想像力は不可欠である。それを阻害するものとは、この作品に則して言えばDementor(邦訳「吸魂鬼」〈人を狂わせるもの〉)である。かつてこのような世界を忌み嫌う「聖人」がどこにいたというのか。彼らもまた皆「探究者」であった。構築されてしまった偏狭的な宗教観からは、たとえ、それがイスラム教、キリスト教、仏教であろうとも、その「祖師」達が真に現在に甦ることはあるまい。偏狭な宗教観を持つ者達がやっていることと言えば、そのような「祖師」達を過去に封じ込め、甦ることを妨げているとさえ思える。もっと本質的なものを見るべきである。作者が第1巻の原題「the Philosopher’s Stone」をアメリカ版で出版社から強引に「the Sorcerer’s Stone」に変更させられたことを未だに後悔していることからも作者の意図が垣間見られる。「魔法使いの石」ではそのまま過ぎて分かり易い半面、作者が描こうとしているダイナミックな人間の様相そのものが浅瀬で変容、変質して行く恐れがあるのである。案の定、アメリカでは偏狭なキリスト教関連団体が抗議行動を起こしている。これが「魔女の宅急便」のような内容であれば悪魔と言おうが魔王が出て来ようがさしたる問題にもならないだろうが、この作品には1級の文学作品が必ずと言っていいほど持っている滑らかな「深い彫り込み」がある。読者はそれに気づいても気がつかなくとも楽しめるようになっている、それが名作の名作たる所以でもあろう。しかし、精神を標本化しようとしている者達、あるいは、あたかも自分が何者かであるがごとくに錯覚している者達には、まずこの作品の現象面に囚われ過ぎて引っかかり、躓き、戸惑い、不安だけが増幅され肝心の「深い彫り込み」などは全く見えてこないのである。一部の宗教関係者などがこの作品に対して示す難色とは大方が以上のようなことに起因するものである。この作品についてはまだまだ切りがないのでここまでとするが、ロンが「ほんとうのニュースを伝えるところ・・・」と言ったことについては、最近では、2011年1月ウィクリークスが効果的にリードしたチュニジア、エジプト革命、さらに日本の報道の見るも無残な現状、あるいは中国の報道規制を見てもあまりにその通りなので呆れてしまうが、それは同時に作者が何気なく差し出す(2006年ー2007年)社会的視点が実に的確に世界を捉えているということでもある。この本はすでに67言語に翻訳され、4億部以上が刊行されているが、その中にはロンの発した言葉さえ見逃さず明確に聞き分け、想像力を豊かに培っている子供達が数多くいることであろう。J・K・ロリングは間違いなくこの時代に現れるべくして登場した作家と言えるだろう。彼女は決して興味本位の時代に迎合した流行作家ではない。

                                                     2011 8/5

 

 


198.国民栄誉賞? 哀れである。


 実に、この国の文化・スポーツ振興のレベルを窺わせる「イベント」である。顕彰する側の「スケベ心」が丸見えなのである。もし顕彰したければオリンピックまで待って、それがたとえ3位に終わろうとも今までの功績を称えて顕彰する。それが選手たちを育てるということも含め文化・スポーツ育成の「健全な」流れであろう。いつものことながらマスメディアはプレイヤーのことなどお構いなく「金」「金」と騒ぎ立て、その上こんな重ったるい勲章までぶら下げられたら、今までのフットワークは遠のくばかりであろう。これで優勝でも逃せば何を言われるか分からない。全員切腹を申しつけるなどとは言うまいが、すでに彼女達の不安硬直は始まっている。哀れである。国まで一緒になっての「便乗商法」、「菅便無思慮」なら然もありなんか。

 

                                                  2011 8/1


197.「七行絶句」


踊る大根、双子のトマト、巨大なスイカ、こんな姿を見て思わず微笑みがこぼれた時代は過ぎ去った。今ではガイガーカウンターの登場である。福島はもう充分過ぎるほど超現実的なものを現実として我々の前に見せつけた。しかし、それは黙示録の序章に過ぎなかった。そして今、人間の小賢しい隠ぺい工作などは全く通用しないということが日々新たに思い知らされるだけなのである。空には3本足の鳥や三つ目の蜻蛉が飛び交い、地上では双頭の猪が森から顔を出し、蛇のような蚯蚓が地中に潜って行く、そして、屋根裏では足が160本に増えた百足(ムカデ)が15センチ程のゴキブリをリンゴを齧っているような音を立て食べている。そして、これが絵空事ではなく「想定内」で充分起こり得るというところが恐ろしい。その時には、我々の食せるものはすでにない。

                                                    2011 8/1


 

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