「ある日、その時」 (1) 2009年5月ー

 


掲載内容


 14.「温故知新」とは 13.素朴な真剣さ 12.マスコミ報道の嘘 11.世の評価とは   10.パリで(4)9.パリで(3)8.「人間」とは思えない? 7.評論家K氏と 6.大和大路にて 5.パリで(2) 4.パリで(1) 3.上演時間9時間で驚く日本公演とは  2.テレビの観方90%ノイズ 1.「機を見るに敏」とは

                                               <転載・複製厳禁>

 


14.「温故知新」とは


 「温故知新」(フルキヲタズネ、アタラシキヲシル)とは、「昔のことを調べて、そこから新しい知識や見解を得ること。」とある。しかし、それは実際にどこまで可能なことなのか。

 これまたテレビの「識者」であるが、ある現代の状況が歴史上のある時期に酷似しているので、今後はこのようになるのではないかと預言者めいたことを言っていたが、そもそも「人間」ごときが未来を預言者気取りで予見するなどは傲慢で、不可能なことであることをまず思い知らなくてはいけない。

 「歴史とは、おそらくわれわれに予見する力を与えることはほとんどないが、精神の独立と結びついたとき、よりよく物事を見る一つの助けとはなりうる。」ということで、「アタラシキヲシル」とは未来を予見しうるかどうかということよりも、われわれにとって可能であることは、それが現在の状況を「見る」上で一つの新たな手掛かりになり得るということでしかないのである。それも「見る側」に「精神の独立」が実現されているという条件付きである。

 世界をどのように捉えようが、とんでもない愚者でない限り、われわれは未来に対して常に処女のごとく「後ずさりしながら」進むしかないのである。もし、そうではないと言うものがいたら、それは愚かな「人間」の根拠のない傲慢さでしかない。

 ただし、処女のごとく歩み続ける中での「直観」というものは正当にあり得るだろう。しかし、それも「精神の独立」と結びついている時だけである。

 

 


13・ー素朴な真剣さにほっとするー


 ある日の午後、知人のピアノ発表会に寄ってみた。無料で演奏中以外は出入り自由であった。その演奏会はなぜか私に原初的な新鮮さを感じさせた。最近の量産される内容のない、これ見よがしのこけおどしの舞台に食傷気味になっていたせいかもしれない。

 それは、パリで歩き疲れてとある教会の椅子に腰をおろしてぼーっとしていた時の感覚に近い。俗的な気配のない、言い換えれば音楽の神に仕える謙虚な人々の集いであるとも言える。それが心地よいのであろう。そこには何か「明日」を感じさせるものさえあったように思う。

 それに反して、「食う」ために「だけ」やっている「芸人」(アーティスト)達には「明日」を感じさせることはない。彼らは意識するとしないにかかわらず文字通り「俺たちに明日はない」という姿勢でしかやらざるを得ない人々なのである。もはや縮小再生産の繰り返しと切り売り以外に残された道はない。そして、「奇声」を発しながら消え行く宿命の者達である。「無意識」と「未知なるもの」から発せられるピュアで神聖な苦悩、葛藤を持ったぬ、大したこともない「技」に慢心した者達の姿などはもう見たくはないということである。

 

 

                               2009年11月 


12.マスコミ報道の嘘


事実を事実としてきちんと伝えるのが報道の使命であるにもかかわらず、それがなされていない。やっていることは「事実」と「事実らしきもの」との間に各マスコミ報道関係の「依拠するもの」(この場合、残念ながら「依拠するもの」とは国民ではない。)の「ご意見」をうかがいながら、耳目を集める方向で「脚色」された「事実」をはめ込んでいるだけのこと。伝えるべき「事実」はもっとあるはずであるが「憶測」「推量」でねつ造した「事実」のような嘘を垂れ流すことが多いということ明確に押さえた上でその「報道」を見て行かないと、「彼ら」の巧妙なマインドコントロールに乗せられてしまう。「彼ら」のやっていることは、程度の違いがあるだけで本質的には戦時中の軍部の「大本営発表」と何ら変わるところはない。

 

※視聴率、支持率、平均値etcで.提示されるパーセンテージは数字のマジックを警戒しなくてはならない。調査の具体的方法も明示されていないものは論外。

 

                                                                                                                                                      2009/11


11.世の評価は、ことに言い伝えによって作り上げられものだ。


 何年か前、大手民間企業の企画部長と話す機会があった時に、たまたま話の流れで助成金を得るために出される企画書の話になった。そこで彼が言うには、その企画書を出したすべての人が言うことは、自分は日本で一番、ナンバーワンであるということらしい。かなりの量の企画書が出されるらしいが、一体どれくらい日本で一番、トップ、と言われる人達がいるのかと思う。まあ、自己宣伝であるから基本的には「自称」で臆面のなさも必要であろうが、私のチェックできる範囲の領域で言うと、この人がどうして何を根拠にこんな自己宣伝ができるのかと思うようなものもある。そこに営利事務所がからめばいつのまにか世界的「巨匠」である。

 因みに、毎年国が行う「芸術祭」については、これは「芸」を持った人々が集う文字通り「お祭り」と言った方が正確であろう。芸術祭受賞者には「バナナのたたき売り」、「猿回し」などの人達も含まれていることなどからもそのような表現がその実態に一番近い。そうかと思えば「もっとも権威ある賞を受賞」などと芸歴に書いてあるのを見ると売り込みたい一心であることは分かるが、アーティストがお国の「権威」にすがっていてどうするのかと思ってしまう。

 しかし、余程「ショー」が好きと見える。文学賞、演劇賞etc。今や場末の「ショー」並みの質と量である。その内に質屋、リサイクルショップに「ジョウブツ」した人々の賞状と盾と勲章が山積みされることだろう。そんなもの誰が買うのか? 100年後を見越した古物商?

 

「世の評判は、ことに言い伝えによって作り上げられるものだ。人間の世界におけるごとくに、動物の世界においても、作り話が実話を越えてしまうことがある。」 ファーブル「昆虫記」より

 

 

 


 10.ーパリでー(4)オルセー美術館の四時間は


 美術館を出てきたら4時間半以上も経っていた。急に疲れを感じたが、心地よい。本物の引きつける力とはこのようなものである。久しぶりの「時間」を味わった。私は子供の時から、身近に絵描きがいたのでターペンタインの香りが体内にある。絵は学生時代まで描いていたが、その後描かなくなってしまったというより封印してしまったと言った方がよいだろう。描きだすと歯止めが効かないのである。描き始めたらおそらく今の生活は根底から覆るだろう。しかし、今も描きたと思う気持ちはある。

 パリの風景が焦点を結び始めたのはそれから暫くしてからである。私はとあるカッフェに入った。

 

 

 

 


9.ーパリでー(3)書店にて


 ジャン・ルイ・バローの本を探して、教授と書店に入った。教授がここならあるだろうと思って入った書店であるが、若い?J女店員はジャン・ルイ・バローの名前さえ知らなかったので教授は困ったような驚きの表情で私をみて笑った。その内に店主が出てきて、もう絶版になっていて置いていないという。教授は納得できない様子で独り言ちていたが、地方にある自分の書庫を探してみるという。そして、そこにあったらあなたに送ると言った。

 フランスでもこんなことがあるのかという思いで私は書店を出たが、教授は女店員の反応にえらく不満そうであった。ジャン・ルイ・バローの名前すら知らないということが信じられないという風であった。

 

 

 


8.「人間とは思えない」 それなら一体何なのか?


 「人間とは思えない」、このセリフは犯罪事件などを前にしてテレビなどのコメンテーターなどの決まり文句、枕詞でもある。このような「柄にもない」ことを平然と言える人々はホンネとタテマエをうまく使い分けているようだが実は「ホンネ」など言ったためしがない。「ホンネ」のようにみえる技を心得ているだけである。その内に本人もどちらがホンネかタテマエか分からなくなると強引に「思い込み」作業に入る。

 「人間とは思えない」所業などとは言ってみても、時と場合によっては「人間」は「人間とは思えない所業」をしてしまう「生き物」なのである。そういう認識がない以上、事件はいつも他人事で、「人間ではないものの所業」として片づけられ、葬り去られる。そして、また同じような事件が繰り返される。一見法律で解決されたかのように想うが、法律は何も解決はしないのである。法律には人を殺してはいけないと書かれていない以上、なぜ人を殺してはいけないのか?という問いには答えられない。問題は放置されたままである。「人間の終焉」を告げる者さえいる中で、自ら「人間」と思い込むより先に、「人間」そのものの検証を際限なく試みるより仕方あるまい。

 

 


 7.演劇評論家K氏と


 奈良から戻るとその足で、K氏と会うために中野に向かった。私がぱパリから帰ってきた直後にK氏から電話があり、会うことになったのである。彼は、私が10月中パリにいたことは知らず驚いた様子だったが、今度は実際に彼と会って先ほどまで奈良にいたことを告げても暫くは信じられない様子だった。一緒に観た芝居の話も一段落して、酒を飲み交わしながら話す内容はついフランスの演劇事情になってしまう。時間も迫ってきた頃、K氏は自分が劇評を書いた芝居について話し始めたが、時間切れとなり、続きは次回ということになり、その夜K氏は最終電車で帰って行った。

 

 

                                                                                                                              2009年 11月


 6.ー大和大路 11月ー


 2009年11月、わが親愛なる古代史研究家と10数年ぶりに大和大路に立つことができた。

奈良、京都はこの古代史研究家と以前何回も来たことがあったが、最近は共に忙しくなかなか来られなくなっていたので、私はこの日を楽しみしていた。

 彼女のその豊富な知識、造詣の深さのおかげでどこに行ってもその当時の社会、構図が具体的に立ち現れる、その場所が息づき始める。

 11月のある日、私は1300年前の大和小路にいた。

 その日、天平人の「食」の席に着く。当時のものを再現した器、須恵器、土師器(かわらけ)に盛られた20品目近い食材は基本的に薄味で、藻塩などで自分で調整するものであるが、すべて美味。中でも奈良時代唯一の酪農食品「蘇」は醍醐味である。そして、印象的だったのは「比之」という奇妙な形をした果物、味はどこか栗に似ていた。

※この「天平の食」は、日本料理40年以上の料理人が出土した木簡を参考にして大学教授らと連携して作り上げたものである。

 


5.ーパリでー(2)2009・10 ー地下鉄の落書きー


 ニューヨーク辺りでは地下鉄の車内には所狭しと落書きがあるが、パリのメトロには落書きらしきものはほとんどない。しかし、よく見ると駅と駅の間のトンネルに落書きがある。誰がどうやって危険を冒してまでこんな所まで入り込んで描いたのか、描けるものなのかと思っていたが、考えてみればパリの下水道、地下鉄は映画にも、小説にもしばしば登場している。ある時は、逃亡者の道として、ある時は対独地下抵抗運動の人々の道として。

 メトロを自在に使いこなせればパリの至る所に行くことができる。それと同時に、彼らは迷路のように広がる地下道を熟知していて、パリのどこへでも辿り着くことができるのだろう。

 夜陰に乗じてうごめく姿が一瞬浮かび上がった。それが落書きをしようとしているものなのか、何をしようとしているのか、像を結ばなかった。

 

 


4.ーパリでー(1)2009・10 フランソワ・ラヴォー宅で 


ピエール 僕の芝居どうだった?

HIRAYAMA Tres bien  ”Les couteaux  dans le dos”  C’est l’arbatros qui ne peut pas voler

                    (非常にいい、「背中にナイフ」は飛ぶことができないアルバトロス。

ピエール そう、そう、そう・・・・(子供が欲しいものを手に入れた時のような表情で見つめる)

HIRAYAMA Par exemple, comme L’arbatoros de Baudelaire.

                     (例えば、ボードレールの「アルバトロス」のような・・・)

 

 それを聞いていたフランソワはボードレールの「アルバトロス」の1節を口ずさむ。ピエールはボードレールの「アルバトロス」は知らなかったけれど、飛ぶことができないアルバトロスというのはその通りだという。

 その夜は、12時過ぎまでワインを傾け、私は敢えてメトロを使わず歩いて帰った。ライトアップされたルーブルとチュイルリー公園の間の誰もいなくなった道はどこまで道なのか分からない程広く感じる。ただ前方100メートル程の今にもこちらに疾駆して来そうな金色の馬上のジャンヌ・ダルクの像だけが帰り道の方向を指し示していた。

○ピーエルはピエール・ノット

○フランソワはフランソワ・ラヴォー

※アルバトロスとは信天翁(アホウドリ)のことである。

 


3.≪上演時間9時間で驚く日本公演とは≫

ー「コースト オブ ユートピア」作 トム・ストッパーズ 演出 蜷川幸雄の公演に関連してー


 上演時間6時間、9時間で出演者、スタッフ、観客がこれほど騒ぐのは、日本での公演くらいであろうか。今から14年前、1995年にフランスのアヴィニヨン演劇祭でオリヴィエ・ピィ(劇作家、演出家、俳優、オデオン座芸術監督)が上演時間24時間の自作「常夜灯ー果てしない物語」を7日間連続公演を行っている。また2003年にはクローデルの「繻子の靴」通し上演(11時間)も行っている。こうした海外の演劇事情と日本の演劇事情を考え合わせると、「演劇総体」(観客も含めたもの)のエネルギーの点だけにおいても圧倒的な違いを感じざるを得ない。

 この「コースト オブ ユートピア」の上演に関しては、キャスティングで難航したらしいが、さもありなんである。演出の蜷川幸雄 曰く「日本の俳優の知的水準も落ちたのか、なかなか面白がってくれない、云々」。それは俳優ばかりではない、スタッフ、観客に至るまでそうである。日本の現状は残念ながら知的レベルもさることながら、精神的エネルギーも枯渇している。

 長期公演と言えば、11月に国立劇場でもシェイクスピア作「ヘンリー6世」をやるが、確か1 部2部 3部はばらばらで、通し上演は週末だけである。日本での連続上演は不可能であろう。シェイクスピア作品に関しては英国BBC放送が総力をあげて製作したシェイクスピア全作品にしても、色褪せたシェイクスピアを見せつけられたという思いが強く、映画撮影としても、舞台撮影としても中途半端、際立った俳優もいない。これでは本をった読んでいた方がましである。況や日本のシェイクスピア劇の大方は「学芸会」の域を出ない。唯一今でも脳裏に焼き付いている舞台はピーター・ブルック演出のシェクスピア作品だけである。

                                                                                                                        2009年 6/10 


2.≪テレビの観方ーそれは90%ノイズ、似非(似非)文化の集積所≫


 テレビには観るべきものはほとんどない。味覚、嗅覚、聴覚、視覚においてまったくニセモノに慣らされた者でしか観るに堪えないものが多く、それは拷問といってよいかもしれない。ドラマは言うに及ばず、お笑い芸人の「芸のない」ゲスな面構えとそこから発せられる声には、パチンコ屋に用もないのに何時間も閉じ込められたような感じがして堪えられない。お笑い芸人の互助会ではないかと思われるような番組が常に垂れ流され、これひょとして「植民地政策」の一環ではないかと感じる時がある。お笑いタレントの大量生産はもういい加減にやめて、もう少し芸を身につかせる方向を考えたらどうか。視聴者を完全になめている。この人たちのやっていることは罪悪と言ってもよい。こういう輩と同調しているうちに世界の幕は下ろされるような感じさえする。私はテレビにドラマとお笑い芸人が映し出されるとすぐにテレビを切ることにしている。テレビドラマにしても甘いマスクのお姉さん方、お兄さん方の稚拙な演技のオンパレード、その中に時折、昔取った杵柄勝負の役者がひとりふたり。ニュースにしても、報道の仕方には作為を感じるものばかり。余計な偏向的なコメントとカメラワーク、「街で聞きました」という「クセモノバージョン」(都合のいいものだけを選んでいるという意味)、そう言うこより、きちんと事実を伝えるべきなのである。事実が事実としてきちんと伝わらないニュースはニュースとは言えない。お笑いタレントのような人間がニュース番組をバライティのようにやっているのがあるが、ニュースを面白おかしくやる必要もなく、そんな人間のもっともらしい「ご意見」など聞きたくもないのである。「お前にいちいちそんなこと言われなくてもいい」と言う言葉が語気を強めて出てくる。要するに度を越しているのである。それをやるには相当の力量が必要で、まず見たところそのような人材は皆無。総じてテレビには観るべきものはなく、ほとんど役には立たないが10%の枠内で観るべきものはある。基本的にテレビは似非文化の集積所であるということを肝に銘じて観ていると10%枠内で観るべきものに出会えることもある。テレビに限らずマスメディア一般がその程度のものである。

                                          2009年 5/30         


1. 「機を見るに敏」とは「義」なきことなり


 それは「機に乗ずる者」と言ってもよい。

 ある時、某都の某知事が、何についてだか忘れたが、「僕は潮の流れを読むのは得意なんだが、今回は読めない」と言った。言い換えれば、自分は機に乗ずるのがうまいと言っているのである。それで今までやってきたのである。それは状況次第では、たとえ主張を曲げてもいくらでも方向転換できるということを意味する。それをさらに敷衍すると、平和を愛すると言いながらも、状況次第ではいとも容易く戦争を正当化できるということでもある。もっともこの知事が平和を愛するなどと言ったのを聞いたことはないが。要するに、「義なき者」とは自分の生き方に対する根本原理を持たない、状況次第で、自分の都合で如何様にも変わる嘘つきのことなのである。このような自分だけのことしか考えていない国民不在の政治家はもういらないのである。

 この知事は、確か、以前三島由紀夫(作家)にも対談で「君には義がない」と言われている人物である。北野武(映画監督、ビートたけし)に、最近の一連の行為について「地元の人達に謝れ」と言われた彼の不肖の弟子、九州のどこぞの県の知事も同様である。「義」がないのである。これは飽くまで氷山の一角。

 今回は、「義」がない顔と、「義」のある顔を見比べ検証する良い機会である。「顔が気に入らぬ、40過ぎたら顔に責任がある。」と言ったのは某国の大統領(16代)である。下半身を隠すより顔を隠すべきだと言った作家もいた。要するにその人間の大方は顔に出ているのである。ただその読み取りには修練を要する。そのためにも今回はチャンスである。世紀末はもうすでに終わっている。妖怪が白日の下に晒されれば、ただ薄気味悪いだけになるのも当然。

 

 それから、テレビに出てくる「政治評論家」といわれている人々の顔、政治の裏事情を知っていないと商売にならない、それを知らないと専門家ではないようなしたり顔。そんな裏事情はどうでもいいのである。知ったからと言って何も変わりはしないのである。そんなものは所詮3流週刊誌のネタが関の山。そして新聞社の論説委員、自分が贔屓にしている政治家に守られ、その代弁者になっているとしか思えぬ言動。戦時中の「大本営発表」と本質的に何ら変わるところがない。まったく国民の側にはいないのである。それでもジャーナリストと言えるのかと言いたくなるが。まあ今後、こんな諸々が少しでも変わることを期待するしかあるまい。

 テレビは、出ている人間の人物観察として利用するとよい。彼らは、観ている者にとって「友達」でもなければ、「偉い人」でもないのである。その点を勘違いして彼らの言説を素直に聞いていると間違いを犯す。

 

 

 

                                  ー2009年5月ー

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