〇「私もカトリーヌ・ドヌーブ」 2007年4月(シアターχ)
ピエール・ノットという現代フランス演劇の新鋭作家を知ったのは、2006年のことである。翻訳者と会った時、彼は「この本をほんとうに演出するつもりですか?」と言った。不条理劇ならまだ分かるが、それ以上に何を言っているのか、言いたいのかまったくちんぷんかんぷんであるという。翻訳者が解釈不能の本を出演者、スタッフが読んで分かるはずがない。それではなぜ私が演出をすることを承諾したかといえば、それは彼の作品に対する「共感」である。そして以前、作・演出で上演した「ジャンピング・ビーンズ」(2003年)にもどこか似ていたこともある。結局、出演者、スタッフひとりひとりに私の解釈を伝え、実質、上演台本作成、演出、美術プラン、音楽すべてをやらざるをえなくなった。
「私もカトリーヌ・ドヌーブ」の舞台 <シアターχ>
<出演> 中村ひろみ 竹本りえ 河野美音子 岩淵憲昭 他
※「テアトロ」誌上で上演台本として掲載されているピエール・ノット作品は上演台本ではなく、翻訳本である。以下他の作品についてもすべて同様である。
この公演時に、来日したピエール・ノット、マリー・ノット、フランソワ・ ラボー(パリ大学名誉教授)氏達に初めて会った。一緒に来られた真知子・ラボー(ピアニスト)氏とはそれ以前にもお会いしていた。
「私もカトリーヌ・ドヌーブ」の初日の幕が開き、終演後、フランソワ・ラボー氏が私のところまで来て、まくし立てるようにほめた。ピエール、マリー両氏も異口同音にほめてくれた。社交辞令だと思っていると、真知子・ラボー氏が「フランソワはめったなことでほめない人です。こんなことはめずらしい」という。もちろん、彼らはフランスでの公演も観ている人達である。自由な人達だと思った。役者については一言も触れなかったが、作品の違う切り口を楽しんでいたのである。それに反して日本の観客は、概して鳩が豆鉄砲を食ったような反応であった。アンケートを見ても、劇評にしても、言葉にしようとするがボロボロと抜け落ちてまとまらないというのが手に取るように分かった。もちろん、素直に楽しんでいる人達、感じている人達もいたが、ある意味では比較文化論的問題を提示してくれた公演でもあった。
<出演者について一言> 中村ひろみは、音大の声楽科出身だけあって線の細い役柄に合わせて自在に歌っていたのが印象深かった。河野美音子も神経質ないつ弾けてもおかしくない母親を熱演していた。岩淵憲昭の何もしない抑えた演技も功を奏し、さりげない日常の狂気を垣間見せた。
※この公演は2008年2月に「池袋あうるすぽっと」で再演された。
<出演> 山下清美 小林亜紀子 山口絢 岩淵憲昭
この公演に関して面白いアンケートがある。
≪以下要旨抜粋≫
〇「初演の時より非常に分かりやすかった。腑に落ちた。モリエール賞受賞作品というので構え過ぎて観ていたたのかもしれない。今回は自分の中ではっきりと像が結ばれた。」 (フランス語通訳、翻訳 女性)
※人見有羽子氏の文章は「私もカトリーヌ・ドヌーブ」というピーエル・ノットの作品を理解する上で非常に参考になると思われるのでカテゴリー「プロフィール」の最後に全文載せてある。
ー細部を多少変えはしたが、演出的には初演時と同様であった。
〇「『テアトロ』に載った本を読んで、まったく期待しないで観に来たが、みごとに裏切られた。面白い。こんなにも違うものかと驚かされた。ー」(女性)etc
〇「背中のナイフ」 2008年11月 (銀座みゆき館)
やはりこの時も役者全員にどこから手をつけていいものかという不安感と冒険心の入り混じった感情があったので、舞台装置も含め想像力を喚起させやすい状況を早めに具体的に提示した。因みに、「私もカトリーヌ・ドヌーブ」の時もこの舞台の時も、本読み初日には私の舞台装置のプランは出来上がっていた。要するに、翻訳者も読み取るのが難しい本をどんな優秀な舞台美術家だろうが本を渡しただけでは組み立てようがないのである。この点に関してはこれ以後の2作「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」、「北をめざす2人のおばさん」もこちらの作業としては同様であった。(ただし、以上2作品の翻訳者についてはピエール・ノット作品をよく理解していたということを付け加えておく。)
≪以下要旨抜粋≫
〇「このお芝居 いいです。高校生とかに見せたらいいのでは、学校公演なんか。そういう今のテーマを持っています。」(女性ーシィンガー)
〇「ブラボー、いい感じ、面白い」(演出家ーフランス演劇専門)
〇「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」 〇「北をめざすおばさん2人」2009年4月(シアターχ)
この2作品も再演したい作品である。
「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」
「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」はフランスの高校生達も観に来ていた。自分たちも演じた劇なので細やかな反応をしていた。そして、その差異を楽しんでいた。
この作品は、役者についてどうのこうのと言うより上演作品自体に興味、関心を示す人が多かったが、その作り方、内容にまで共感する人は知性、感性がともに程良く煉リ合わされているか、「今を生きている」人達という感がした。実際にそういう人達であった。
それから、「翻訳劇云々ー」という言語の問題については、原文と上演された舞台を比較すれば、自ずと分かるはずであるが、舞台の方が分かりやすくなっている。以前にも言ったが、日本では彼の本を読んだだけで分かる人はほとんどいないと言ってもよいだろう。したがって、上演するにあったて分かりやすく置き換える作業は必須条件ではあるが、さらにこれ以上言葉を簡略化したり、「分かりやすく」することはピエール・ノットという作家が本来持っているラディカルなものを平板化することにもなり兼ねない。こういう作品を上演する際には、大なり小なり分かる人には分かる、分からない人には分からないということを背負わざるを得ないのだろうが、それにしても今日の日本の文化状況については危機感を感じる。
※ 「ジェラール・フィリップへの愛ゆえに」のテアトロ誌の「劇評」は、その論評自体に意味不明のところがいくつかあるのでどこまで観ていたのかと疑わざるを得ない。そして明らかに自己の観念操作に振り回されて具体的な動きが提示するメタファーを感じ取れていない。その結果、誰でも感じ取れる事柄を見過ごしている。さらに読み取りの知のパラダイムが小さ過ぎる。アンケートや評論風ブログ愛好者ならまだしも一応演劇雑誌に名前(?)を載せている評論家である。どんなに安い原稿料だろうが、出版部数の少ないマイナーな雑誌であろうが、一応「人を切る」のだからもう少しきちんと腹くくって論評してほしいものである。以前の「私もカトリーヌ・ドヌーブ」の時も同様である。
因みに、この「劇評」の内容はフランスサイドに伝わっていて、失笑ものであった。この公演は原作者を始めフランスの演劇関係者、フランス劇作家協会、教師、教授、作家を含め10人程観に来ている。
この程度の評論などは無視すればよいのであろうが、妙な五月蠅さを感じたのでひとこと言わざるを得なくなった。
L’homme est toujours disposé à nier tout ce qui lui est incompréhensible. (Pascal)
人は常に自分にとって不可解なことは何もかも否定しようとするものである。
〇「北をめざす2人のおばさん」
ベテランの女優2人、実にいい顔をしていた。手応えを全身で感じている役者がいた。 ー2009年度モリエール賞ノミネート作品(4・25現在)ー
〇ー以上2作品の演出についてー良い舞台であった。舞台の作り、役者の動かし方,透明でわかりやすい運び、簡単な道具、単純な照明、そして音楽それらが実に巧みに使われ、舞台の奥行きを増していた。 (仏文学者 青山学院大學名誉教授 中條忍氏の文章より要旨抜粋))
〇「ジェラール・フィリップの愛ゆえに」,感激しました。(来日したSandrine Grataloup氏 フランス劇作家・作曲家権協会ーパリSACD Head of International Promotion )
≪2006年3月ー2009年4月 5本の外部プロデュース公演(8作品ー演劇)に関わって≫
改めて言うまでもなく、日本の小劇場演劇、またはそれに類する演劇を観に来る観客のほとんどは出演者の関係者ばかりで、その多くが演劇実演者か演劇関係者、もしくは以前の経験者である。製作者に力があればもっと広範囲の観客動員ができるのであろうが、多くの場合それは望むべくもない。現在、日本の演劇界全体が閉塞状態にある上に、さらに狭い演劇実演者と演劇関係者の閉塞的集合の中の行き来というのが小劇場演劇の成り立ちの実情である。そのようなことを考えると「観客」と「実演者」の「よき関係」が成り立つとは到底思えないが、悲観的になっている時間もない。また、しっかりと感じ取ってくれた人達のためにもやれることはやって行きたいと思っている。
2009 5/10