<掲載内容>
661.知らぬは国民だけ 662.「アスリート ファースト」? 663.「日米同盟は普遍的価値」?664.ドラコマルフォイと見間違えた <番外メモ20101112>土人大臣 <番外メモ201611114>「ポチ政権」の今後の粉飾 665.「内閣支持率50%超え」?最悪の冗談 666.「日本の損得」?667.「男の約束、友情」?668.テレビ報道も94%が嘘
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668.テレビ報道も94%が嘘
テレビ報道も94%が嘘であると思ってみているとある種の「整合性」が見えてくる。報道されるべきものが報道されていないことは実に怖いものである。これは明らかに意図的なことで、報道されないこと、すなわち歴史の隠蔽、改ざんが日常化しているということでもある。実は、国民の多くが気になっているが、そのことについてはまったく報道されないということはそれなりの理由があるのである。それは問題が自然消滅、解消したわけではなく、見る見ないに関係なく今もなお確実に問題として在り続けている、というよりむしろそれは見えないところで逆に肥大化していると見るべきなのである。それを忘れているとやがて取り返しのつかないことになる。「今日は常に昨日の明日」であることに変わりはない。昨日を根拠としない今日という明日は語りようがないのである。語りようのないこと語ろうとすれば巧言で凝り固めるより手立てがなくなる。「4年後」のことなどに気をとらわれていれば現実に起こっていることすら捉えきれずやがて足をすくわれることにもなる。「現」(うつつ)を見ることもなく、ギャンブル、祭典に「現」を抜かす者ばかりでは何事においても埒は明かないのは自明の理。しかし、現状はさらに複雑に「現」を「見る」からこそ何ものかに「現」を抜かすように仕組まれてしまっている。彼らは仕組まれていることすら気づいてはいないだろう。そこには「自分だけは」何とか切り抜けられると思う気持ちが其処彼処で渦を巻いているからである。それこそが実は御す側の思う壺の一つであることも知らずに。
2016 12/4
667.「男の約束、友情」?
政治レベルの事柄に「男の約束」、「男の友情」とは恐れ入る。それは思い込み、詐術の類以外にはありようがあるまい。強きを助け、弱きをくじくような者が任侠道よろしく男の約束、友情を装ったところでそれ自体が空疎の証左でもある。今後いかなる「非公開取引」をしようともその内実は相手、周囲から明るみに出されることになろう。実際、すでにツーショットの相手方は舌の根も乾かぬうちにその「思惑」とは正反対の動きを示している。そもそも公約で全面に出した内容ですら、そんなことは言った覚えがないと平然と言える者たちの「約束」、「友情」である。後はすべて推して知るべしであろう。それは国内向けの、国内でしか通用しない「偏らない」政府一辺倒のマスコミのコピー専用文句ともいえるが、執拗に繰り返されることによって刷り込まれ、黒もやがて白のようになってしまう領域もあるということを忘れるべきではない。
2016 11/27
666.「日本の損得」?
トランプ誕生以後、「日本にとってどちらが得か」などという文句をよく見かけるようになったが、それを「庶民」がその気になって考える必要もあるまい。それは「庶民」レベルなど埒外のところで成り立っている話なのである。この「日本にとって」というのはごく一部の大財閥ことで、言い換えれば「日本の大財閥にとってどちらが得か」ということである。それを「庶民」の生活の損得に取り違えると痛手を受けるのは庶民自身である。「大財閥」と同調する「庶民」が常に裏切られるのは歴史が証明しているところでもある。大義がありそうな「日本にとってどちらが得か」は、実は「庶民」など不在なのである。「庶民」不在では成り立ちようがないのが国であるが、その成り立ちようがない日本と「庶民」を暗に結び付け、さも意味ありげに言ってみせているだけのことである。「日本の損得」、「この道しかない」とは正確に言えば「日本の大財閥の損得」の「道」で庶民の損得とはほとんど関わりがない。こういう文句ですぐに乗せられていては身が持たないのも道理であろう。
2016 11/23
665.「内閣支持率50%超え」?最悪の冗談
「内閣支持率50%超え、云々」、これは全国の18歳以上の2000人を対象に行った世論調査(時事通信)の「結果」であるらしいが、よく臆面もなく2000人程度の調査で「世論」調査などとして出すものである。これが「世論」? 現在の内閣支持率がほんとうに50%以上もあるのならもはや「回収不能」、行き着くところまで行って「落ちる」か、「落とされる」しかあるまい。これは意識の有無を問わず「大衆操作」が人々の中にあまねく行き渡ったということでもある。首に「縄」がかけられているとも知らず、「のり弁」ばかりを持たされピックニック気分になっているということである。やがて何で自分がそうなるのかもわからず死に至る最悪のパターンとも言える。
「夢」だ、「希望」だ、「未来」だなどと、こんな言葉が頻出するようではもう末期的症状である。具体性が問われている時に、気分的な、情緒的言語ばかりでは無能の証左以外には何もない。
2016 11/17
<番外メモ20161114>「ポチ政権」の今後の粉飾
「ポチ政権」が「ポチ」である限り殺されるようなことはないが、今まで以上に生かされることも決してあるまい。そこで今後起こり得る一つ一つの事象の粉飾がさらに際限もなく手を変え品を変え繰り返されることであろう。そもそもこのような「ポチ政権」が自主憲法だ、憲法改正だと騒ぐこと自体がいかがわしいのである。「ポチ」のどこに「自主」がある、自立した「ポチ」は叩き出されるだけである。しかし、血税で札びら切って媚び打って世界を股に掛けた風を見せて、その実何もないという希代の迷君様に一体何がある。そうかと言って「ポチ」を脱して「自主」だ、「自主憲法」だというほどの大義はどこにもない。たとえあったにしても場合によっては孤立化を強いられるか、潰されるだけ。彼らはよく
未来を口にするが彼らほど未来を考えていない者たちはいないということを思い知らされることばかりである。根本は、今自分たちだけ良ければ後は野となれ山となれなのである。実際、現在の問題に対する責任も取れない者たちがどうやって未来に責任を取るというのかということである。もともと責任など誰一人として取るつもりはないのである。この厚顔無恥は半端ではない。常軌を逸しているということを肝に銘じるべきであろう。あなたたちが「他に適当な人がいないから」などという中途半端な知識で選んだ者たちはすべて「人間の境涯」を逸脱している者たちなのである。
粉飾その1.トランプと「夢を語り合う会談」?すなわち何もないということであろう。青臭い書生っぽ、三百代言、「御用」学者でもあるまいに「政治家」が夢を語り合ってどうする。今後この手の粉飾言語がますます氾濫することになる。
汝の偽りごとのためにわが生に触れるな。
<番外メモ20161112>土人大臣
内閣府特命担当大臣 鶴保康介、 「土人」というのは差別用語ではないというのであるから自分あるいは身内の者が土人と言われても動じることはないはずである。だからわかりやすく土人大臣と呼ばせてもらう。
664.ドラコマルフォイと見間違えた
トランプの幼年時代の写真が映し出された時、ドラコマルフォイかと思ってしまった。そのくらい内面の現れ方が似ているのである。ドラコマルフォイについては、ここで多くを述べる必要もあるまい。彼の父は、「例の人」すなわちヴォルデモート、旧姓メフィストフェレスとも呼ばれた者にかしずく者である。当然、その息子であるドラコマルフォイもその影響下にある。
今、米国では「ティーパティー」を始め、教理も怪しげな新興宗教並みの動きをする数多くの集団の動きも活性化してきている。しかし、これも今に始まったことではない、今更驚くのは幼過ぎるだろう。トランプの登場自体を今更ながら驚いているようではアメリカという国を知らなさ過ぎるのである。米国の実態がより一層明確化されるという意味でもこういう事態はしっかりと受け止めれば違う展開の道も開けると見るべきであろう。「トランプが何を考えているかわからない、彼とのパイプがない」などと「もっともらしく」騒いでいる者たちがいるが、言い換えれば既得権益が崩されかねないことを恐れているだけとも言えるのである。既得権益側にもいない庶民が彼らと一緒になって騒ぐ必要はまったくない。ただ政権の無能さ故の付けを回されることはある。それは、彼らを思いのままにさせていた付けでもある。現在の自浄能力さえ皆無になってしまった日本の状況ではもはや自国内での自力の問題収拾、解決は困難であろう。こうした場合は、危険な面もあるが第三の不確定要素、それも現政権とは相反する方向を持つ影響力の強いものの存在が必要になってくる。ある意味では、「毒」を以て「毒」を制するしかない時もあるということである。今更、安倍政権に対して柄にもない分別臭い政権批判などしたところで虚偽の無限連鎖で対応するしか手立てのない政権にとっては何の意味もなかろう。それはあらゆるところで実証済みである。政治とは要するに「効果」である。彼をほんとうに倒すつもりがあるのならトランプのようなやり方に有効性があるということに過ぎない。実際に今、安倍政権と官僚機構に今までにない痛手を負わせたのは皮肉にもトランプの誕生そのものであろう。
因みに、私はトランプのようなタイプの「人間」とは全人格的に水と油である。
2016 11/11
663.「日米同盟は普遍的価値」?
これもまた昨今の米新大統領誕生に伴って「我が国の長」が発した言葉であるが、いかなる同盟であろうと普遍的な価値を持ち得る同盟などは存在しないし、今後も存在し得ることはない。この程度の歴史認識しかないものが講釈を垂れるのであるから堪ったものではない。たとえリップサービスだとしても「普遍的価値」という意味も正確には捉えきれていないのであろう。気の利いた言葉だけは次から次へと出てくる耳学問だけはある飲み屋の老若男女と同様、思慮分別、誠実さの決定的欠如が露呈している。これは何もこの御仁に限らないが、前代未聞のひどさがすべて渡っているというのも前代未聞である。
他国の心配事については根掘り葉掘、自国については心配事が皆無であるかのような報道全般である。それは、いつかまた博多の陥没事故のように、「ある日突然」当然起こり得るものが見えないところで着々と進行しているということでもある。あまりにも「ないことにしていること」が多過ぎる。
現在、実質的に日本は報道管制下にあると見るのが妥当であろう。少なくともそのような意識がないと足をすくわれる。伝えられるのは政府広報的な内容ばかりで、内容の吟味はすべて各自に負わされている。したがって、油断すれば自ら発言しているようで実はそのように思わされ、言わされていることに気が付かないことにもなる。
2016 11/10
662.「アスリート ファースト」?
「アスリート ファースト」とは、もっともらしいがこれもまた国民不在である。オリンピック競技場についてアスリートの気持ちを最優先させ、そのためには経費の増大も止むを得ないというのであれば、それは違うであろう。国民生活もままならないまま、さらにその負担も多くなるという時に、税金を使い祭典などに現を抜かしている場合かというのが多くの多少はものを考えている人々の率直な気持ちでもある。「アスリート ファースト」で国民(the people)は二義的(secondary)ということでは困る、というよりそういうことをしてまでやる意味はあるのかということである。それについてもまたもっともらしい「講釈」はいくらもあろう。しかし、「オリンポスの果実」はすでに腐っている。オリンピック利権の絡む者たちだけにとってそれは「おいしい」と言うことの過ぎない。このことについては以前にも書いた。(652)
肥満した本体に何を着せても腹も足もはみ出すのは当然、どのような言葉で粉飾しても本体は変わりようがないのである。これも本体隠しの虚偽に導く手練の類である。
いつまでも引き際も知らずのさばる老人は醜い。老害とは老醜の極みでもあろう。実際、利権にむしゃぶりつく者たちの面構えは例外なくどれも卑しい。百害あって一利
なし。
2016 11/8
661.知らぬは国民だけ
「起こっていること」、「起こったこと」をまともに報じられないマスメディア。今に始まったことではないが、これではマスメディアの本来の意味はない。本来の意味など最初からあるのかないか不明な大メディアに性懲りもなく寄りかかってしたり顔の身の程知らずという者は意外に多いものである。そろそろ気が付いてもよさそうなものであるが、相も変わらず口八丁手八丁の何かありげな三百代言にころりと騙されているというのが実情のようである。しかし、これ程までに騙されるとは、要するに弱みを握られている、足下を見透かされているとしか言いようがない。いつでも骨抜きの棚ぼた状態では埒は明かない、時には肉を切らせて骨を切るくらいの気概がなければいつまでも経っても薄ら笑いを浮かべるしかない卑屈な奴隷根性とは決別できまい。もともと大メディアとは基本的に「御用」なのである。しかし、「御用提灯」ばかりでは飽きられるので多少異質の目立つものを取り上げているだけのこと。国民は国内事情に目も耳もふさがれ、肝心なことは何も知らされず、どうでもいいような情報ばかりが流されて中和された現状しか見えなくなっているということにもなる。日本人だけが日本の国内事情をよく知らないという実情はやはり異常であろう。そして、国民自身がさらに知ろうともしないというということが、「由らしむべし、知らしむべからず」、すなわち知らせる必要はないただ従わせればよいという為政者にとっても都合がよい事態となっていく。これでは「主」であるはずの「民」が自ら権利を放棄したことにしかならない。
大衆の感情を代弁しているような振りをする、言い換えればそれを商売にしているお笑い芸人の類と大差ない者たちのズレたとんちきポピュリズムに同調しているようでは爆笑と勘違いのうちに悲劇の幕は一気に降ろされる。その瞬間、客席は静まり返り、やがて引きつりを起こし始めた焦燥感が辺りに充ちる。どこからともなく聞こえてくる嫋嫋とした笑い声は観客席からではなく降ろされた緞帳の隙間の奥からである。
2016 10/31