7. 発信地を持たぬ無責任な「噂のような批評」、「批評のような噂」・・・

 

 現在、インターネット上に飛び交う「批評まがいの情報」、「情報まがいの批評」には事欠かない。どれもこれもどこの誰だかも分からず、何を根拠にというより、それ以前の段階であきれかえってしまうものが多いのが実情であるが、それを検証もせず鵜呑みにして、知ったかぶって伝播させてしまうことの怖さを知らなくてはなるまい。要するにそれは「嘘八百を少ない労力で世に流布してしまうもっとも安易な手段である。」ということである。少なくとも、私は、「実名」のない、その人間のプロフィールが見えないようなブログの類はどんなに飾り立てようが全く信用しないことにしている。なぜなら、自分の「実名」も出せないようなそんな無責任な人間の言うことに振り回されることになるからである。ただし、内容について自分で検証できた「こと」、「部分」については別である。概して、マインド・コントロールを警戒している割にはそんなどこの馬の骨だか分かるぬ者に自分がまんまとコントロールされていることすら気がつかないと言うのが日常茶飯事である。相も変らぬ「御用メディア」の巧妙なマインドコントロールについては今更言うまでもないが、「実名」の出ている「評論」ですら危ういものが多いという時には、できる限り「自分の目」で観て、時には「自分の目」をも洗い直すくらいの強靭さを持っていないと、いつの間にかとんでもない所へ持って行かれてしまうということになる。「とんでもない所」とは、それは野田秀樹が言う「『匿名性』を使って、あやふやなものを、いつまでも創っている、この日本の文化状況」そのものでもある。そして、彼はそのためにも「演劇の現場を取り戻したい。『実名』で発信する世界に戻したい」と言う。それはオマール・ポラス(演出家、俳優)の「舞台の中心に戻ること」とも通底する。さらに、野田は「発信地がはっきりしないのである。これは恐ろしいことである。」とも言っている。どこの誰が言ったかも分からないまま、検証もなされず、そのもっともらしい嘘に振り回されいつの間にか崖っぷちに立たされている自分を想像してみるとよい。最後に、サラ・ケインが言っていることを挙げたいと思う。「大戦争の萌芽はつねに平和時の文明のなかにある、と私は本当に思っている」。

                                                                                                                                                                2009年7月

 

                                       

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