『「匿名性」の文化から演劇を取り戻したい』と題して2009年度 東京芸術劇場 芸術監督に就任した野田秀樹が述べている文章を載せる。
「インターネットとやらが、流行りだした頃から、文化というものが怪しくなっているのを感じていた。それは、「匿名性」が生み出す文化の怪しさであり危うさである。例えば、ウィキぺディアとかいう百科事典など、格好の例である。「誰もが書き込み自由」という一見、偏狭な知識を自由の世界へ解放したかのような、まるで匿名性で何かを創造しているかのような魔法の世界。だが、自由であるかのように見えて、実は、嘘八百を少ない労力で世に流布してしまう、もっとも安易な手段である。
今、演劇の世界といえども、こうした「匿名文化」と無縁ではない。一体誰が、こんな芝居を面白いことにしてしまったのか、なんで、こんなひどい芝居に客があふれかえり、これほどいい芝居なのに、客席がまばらであったりするのか。その責任の一端は、「らしいよ」という、誰が言ったか分からない、無責任な噂のような批評、批評のような噂。これが流布しているからである。つまり、発信地がはっきりしないのである。これは恐ろしいことである。「らしいよ」というのは、言ったもの勝ちであるし、言われたもの負けなのである。
私が、「劇場」の芸術監督になることに決めたのは、その言葉を発信する場所、その言葉を発信する人間が誰であるかを、明確にしたいからである。私は、「東京芸術劇場」という場所から、創作者として、(自分の芝居だけでなく)こういう芝居が「いい芝居」だと思うのです、と発信をしたい。
「匿名」ではなく、「実名」である。作品によっては失敗もある。その批判は、「実名」で発信すれば「実名」に帰って来る。「匿名性」を使って、あやふやなものを、いつまでも創っている、この日本の文化状況から、演劇の現場を取り戻したい。「実名」で発信する世界に戻したい。演劇は、昔、「演劇の現場」だけから生まれていたのだ。こんな当たり前のことを、わざわざ声高にしゃべらなくてはいけない所に、今の文化の危うさがある。こんな私の思いに応えてくださったからかどうかはわかりませんが、たくさんの皆様よりこの劇場に芸術監督が誕生したことを祝福してくださるメッセージを頂戴いたしました。心より感謝いたします。問題山積みの劇場ではありますが、長い目で見てやってください。こちらも頑張れるだけがんばります。」
2009/7・3
発信地がはっきりしないもの、また発信している人間がどのような人間か特定できないブログに関しては、いかに体裁を整えようとも要注意である。もっとも、抜群の検証能力がある人には老婆心。
※「ウィキノミクス」ついての柄谷行人の指摘
「不特定の人達が水平的なネットワークを通してコラボレート(協働)するような生産形態あるいはその原理」(ウィキノミクス)これは全体的に管理する責任者がいないゆえに欠陥が少なくないことは否めないが、すぐに修正・加筆されるので今後はますます充実されることは疑いない。インターネットは、このようなマス・コラボレーションあるいは「群衆の知恵」を可能にしたのである。
現在、企業は、競合する他社による独占を妨害するために、知的財産を公開するのである。グローバルな資本の競争が、その動きをいよいよ加速する。著作権管理などによってこれを阻止することはできない。
社会主義ではない資本主義の中にあって、絶え間ない競争がある以上、たとえ勝ち組になっても、それが長続きすることはない。ただ、それによって経済の総体が崩壊することもない。「巨大な力を手にした市民の時代がやって来る」だけである。
「われわれはここに、資本主義的発展がそれ自体を否定するものを不可避的に生み出す、という「弁証法」の例を見出すことができる。」ということである。
2011年3月、柄谷行人の指摘は益々現実性を帯びてきているというより、それが明解な指摘であったといことの現実的証左を見せ付けられているに過ぎない。