切られた自分の首を提灯にして、足もとを照らしながら歩く首のない人間。これは怪奇小説が描く世界の一部ではない。ダンテの「神曲」にある一場面である。ダンテの時代も政治的に実に愚かしいことばかり行われていた時代でもある。人間がこんなにも愚劣であったのか、自分もまたこんなにも下らないものであったのかと思い知る時、ほんとうの自分によって切り捨てられた自分の首によって、ほんとうの命にふれる自分に向き合い、戦慄する。「何かにつけて私たちは、常に自分の愚劣に驚愕し、自分から脱出しなければならない。この世界を描くにあたって、ダンテは切って捨てた自分の首、その首の光をたよりに歩む世界を見たのである。」ダンテならずとも、私たちは大なり小なり、そのような過程を経ずして「ほんとうのところ」にはたどり着かない。これは、怪奇趣味の戯れ事でも何でもない。「人間」現実の様相そのものでもある。要するに、「訣別する時に、初めてほんとうに遇(あ)えたのだ」ということである。
日々、見えるものは、マスクをしてスマホする人間たちの種々雑多な動きだけであるが、それが現実であると言ってみても、そのような「現実」からは何も見えてこない。果たして、それが現実と言い得るものなのか。芸術は、今あるように見える現実よりも、ほんとうにより身近な世界、現実を提示し、インスピレーションを与えるものである。それは我々が現実を正確に見据える「よすが」ともなる。
私もまた、自らの首を提灯にして、足もとを照らしながら歩き続けるしか道はない。時に提灯の光も点滅し、薄暗くなったりもするが、それ以外に頼るものはないというのが実情なのである。
2020 9/24
敢えて言う必要もなかろうと思われたが、一言付け加えれば、現在生きていることが、今までの数十倍も充実していることが不思議なのである。あたかも新世界に足を踏み入れたかのようでもある。あらゆるものが鮮明に見えると同時に新たな世界を開示してくれるのである。