119.「筆に随いて今」について

 この「筆に随いて今」は、2003年に俳人藤田あけ烏氏の勧めで、連載することになったエッセーで、藤田氏との縁がなければ、書くこともなかったであろうと思われる。当時、俳句の結社はかなり増えてきていたようだが、今ほど一般化してはいなかったように思う。現在の大衆化路線から見えてくることはすでに「筆に随いて今」の中にも書いたことである。言葉と向かい合い、遊ぶことも意義深いことではあるが、今なお、それなりに俳人として名を残している人々とは、「言い尽くして何かある」、俳句の「第二芸術論」などを十分に知り尽くし葛藤しつつ「生き通した」俳人たちなのである。俳句は誰にも入りやすいことが、最大の利点でもある。それがきっかで言葉と対峙する、それが重要なだけである。才能の有無などどうでもいいのである。たとえ、それで少々才能があったところでただそれだけのことで、実は何もないに等しい。俳句がきっかけとなり言葉と対峙する こと、そのこと自体がその人間にとって何よりも重要なのである。「賞」を取ってその気になっているなどは以ての外、凡夫の証であるという以外の何の証にもならない。しかし、17年も前に書いたことを今また改めて言うことになるとは思ってもみなかった。言わざるを得なくなることを目にすることがそれだけ多くなったということでもあろう。

 因みに、17年も前に書いたこの「筆に随いて今」は去年か一昨年まで「『筆に随いて今』平山勝」としてネット上に載っていた。誰が載せたか不明であるが今はそのサービスは消えたようである。現在は私のHPに載っているだけであろう。

 スナップ写真と俳句、映像と俳句など、俳句の活用法なども舞台演出家としての視点からも語られているのでそれをヒントにした者も数多くいたようである。実際、そういうことを見る機会もあった。

 

                                 2020 3/4

 

 

 

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