「忘れるだろう」?それはまったくお門違い。忘れていた者でさえ毎年桜の咲くころには思い出す。もはや彼らには桜をシュレッダーにかけることしか残されていない。2019年「桜を見る会」は、「『桜を見る会』騒動」として明確に記されることであろう。それほど重く、致命的な出来事でもある。
天気晴朗なれど「邪」(よこしま)風、樹間を縫って行き渡り、集いたる人はいざ知らず、「横しま」に桜の下に入る者居り。実際、民主主義の根幹さえも切り落としかねない怪しげな集いとなってしまったが、その証拠となるデータ、文書がすべて破棄されたというとんでもない事態となっているのである。こんなことを許していたら、国民は何をされてもなされるがままということになるだろう。これは一企業がデータをシュレッダー処理するのとは訳が違うのである。
この期に及んでも「他に適当な人がいない」という選択肢を選ぶ者たちがいるそうだ。 これは完全に「コントロール」されているという証に過ぎない。そもそも「適当な人」を「自分の考え」で「いつ」選べるのかということになる。選べなければいつまでも好きなようにやられてしまうということである。politicsは時間が重要なキーとなる。その時を逃したらもう取り返しはつかないのである。今後まったく通用しなくなる最悪のpoliticsにしがみついていても仕方あるまい、放置、放棄は現状容認と見做される。どうするのか?現状認識も危うい、現状を見ることさえできない、そのような意識構造も含めて、もはやすべてにおいて後進国レベルであることはすでに証明済みでもある。終焉の時に向かって地滑り状態であることはどこをとっても確認できるのである。このままでは、いくら明日を語っても詮方なしというところである。
今でも、この騒動について、微に入り細を穿って火消し役に回っている者がいるが、自らの位置を暴露しているだけということである。彼らの「和」は、「お友達」などという「糖衣」に覆われているが、その実態は親衛隊(SS)の前身ともなり得る「和」なのである。
2019 12/16
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