<掲載内容>
697.あわれ、この国は狂っている・・・698.「自主憲法」? 699.薄笑いの消えぬ人々 700.与謝野鉄幹・晶子の孫、だから?701.ワライダケ(笑茸)とテングダケ(天狗茸)だけでは 702.過去を美化する逃亡者 703.「対案を出せ」???704.「蚊帳の外」で「梯子を外されて」いる者
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704.「蚊帳の外」で「梯子を外されて」いる者
それは、大中小様々な世界の中で、見出される者たちでもあるが、「村八分」といったわかりやすいものでもなく、「のけ者」というほど露骨で幼稚な世界の在り様でもない。いつの間にか「蚊帳の外」にいるのである。と同時に必然的に「梯子は外されて」いるということになる。あまりにも自然なので本人も周囲さえも気が付かない。「蚊帳の外」にいることに気づかないというのはやはり自己を含めすべてに対する冷徹な認識が欠如しているからである。そうでなければもはや見て見ぬ振りしかできなくなっているということになる。見て見ぬ振りを始めれば当然「梯子を外されている」ことも見て見ぬ振りである。それはやがて強引な糊塗、ねつ造、思い込みの確執を次から次へと生み出すことになる。それ以外に生きる道を見出せなくなっているからである。
もっとも、遥か群衆を離れている者にとっては、蚊帳の外だろうが中であろうが、梯子を外されたからといってさしたる問題にはなるまい。
2017 5/12
703.「対案を出せ」???
これも以前このサイトで取り上げたことであるが、またぞろ文化程度も最悪の私利私欲ばかりの権力の亡者のディベート・マニュアルの陳腐な「決まり文句」、「対案を出せ」という言葉が出てきた。批判、反対、抗議などをすれば「すぐに」「対案を出せ」とは、無能の証左といってもよいものである。「すぐに」と言ったのはこの言葉が出される時期が早ければ早いほどその無能の度合いが高いからである。「ああ言えばこう言う」式の三枚舌のアベは今や周知のことで、「アベしてる」とは「ああ言えばこう言う」二枚舌の者をいうのであるが、これほど「国民」を愚弄したむちゃくちゃな首相も前代未聞である。批判され反対されてさらにより良いものを作り出すのが「権力の中枢」にいる者の務めであってみれば、これはその放棄の兆候、証でもある。国民、あるいは国民の側にいるものは批判、反対、抗議するだけで十分で、対案を出す必要はない。ただし、その吟味、検証、批判をすることを怠ればすぐに意に反して独裁政権の誕生につながるということは肝に銘じて置かなくてはならない。「対案を出せ」ということで実質的に批判、反対、抗議が封殺され、言う方も委縮しているのであれば、これはさらに深刻な問題でもある。現実的には批判などに対応しきれなくなった時の逃げのような言葉でもあり、反対意見の排除、無効化するのが目的といえなくもないような「対案を出せ」などという「姿勢」そのものにいちいち反応する必要はまったくないとうことである。これは理念も義もないカルト集団の「手の込んだ」第三者には見え透いた猿芝居のセリフともなる。実際に議論も説明義務もまったく無視で、その場限りの出まかせを言い続けているのがアベである。「右翼」ならずともアベの背後の日本の国旗が惨めに思われるであろう。走狗のような「右翼」ばかりでは話にならないが、戦前の実行力も精神的なものもそれなりに持っていた右翼の「日本精神は左翼である」と言う言葉はここにきてさらに意味深長なものがある。アベと日本会議は相似形で、実のところ、私利私欲だけの軍産複合体にも似てそれ以外には何もないに等しく、理念も倫理もへったくれもないから節制もなく何とでも言えるし、何でもやるのである。「美しい日本を守る」というような派手で空疎なパフォーマンスもすべては恥も外聞もないスタンスからきているもので信頼できるところは微塵もないことは敢えていうまでもないことであろう。以前、三島とこのアベを重ね合わせて美化していた御用評論家もいたが、その時はさすがの三島も草葉の陰でこらえきれずに首と腹をつなぎ直して出てくるのではないかとさえ思われたものである。
オリンピックを目指し、憲法という国の根本法をその時期に合わせて変え、同時に国民を縛る方向でしか働かない「共謀罪」を成立させるという。オリンピックとは一体何なのか?浮かれ騒いでいるうちに身ぐるみはがされないように気を付けるべきであろう。彼らにとって、我々の生き死になどまったく眼中にないものであることだけは日の出、日の入りと同様に確実なことである。それでも何事もなく治まっているのであれば、それは「病的である」と言わざるを得ない。
2017 5/9
702.過去を美化する逃亡者
「昔はよかった」などという訳のわからぬ繰り言を言う者も後を絶たぬが、コラージュ風に「美しく」アレンジされた過去に遁走を繰り返す老若男女も多いようだ。
「世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上づうづうしい、いやなやつで埋まっている。元来何しに世の中へ面(つら)をさらしているんだか、解しかねるやつさへいる。しかもそんな面に限って大きいものだ」ー
私がこのサイトのどこかで思い余って言ったような内容だが、これは1906年(明治39年)に漱石が「草枕」の中で書いていることである。それは、今、現状に対して感じることと大して違いはないということでもある。「昔はよかった」などと寝言のようなことを言っているのでは一体何を見ているのかということにもなるが、自分に都合のよい過去の部分だけを切り取り貼り付けコピペのようなアナクロ頭で現状回避、現実逃避をしつつ勇ましいこと
を打ち上げても実質的には半歩も前に進むことはできまい、それは崖っぷちを後ろ向きで歩いているようなものである。
2017 5/7
701.「笑いだけ」と「天狗だけ」だけでは
「ワライダケ」でも食べているのではないかと思われる引きつったヒステリックな笑いとともに液晶テレビに映し出される人物の表情を見ていると、これは「テングダケ」の症状ではないかとも思われたりもするが、ことほどさように世の中全般も何か「狂気」をはらみつつ右往左往しているだけのようにも見える。「笑いだけ」を求めて笑いのうちに終焉を迎えるのも人生、何の根拠もなく「天狗」になって高慢に自身の思い込みの中で生きるのも人生といってしまえば言えなくもないが、その様相はまさに「人間界」を通り越した「魔性の世界」に近い。だから、どこか薄気味悪さを感じるのであろう。因みに、「天狗だけ」というのは「Death cup」(死の杯)とも言われている。その「天狗だけ」をあえて食べた人もいるようなので世の中はいろいろである。その味は、味の素の塊を口にしたようだという。あたかも「死の杯」を手に死と戯れているようでもある。後は何をか言わんやである。
※「ワライダケ」、「テングダケ」ともに毒キノコである。
2017 5/6
700.与謝野鉄幹・晶子の孫、だから?
「人間」においては「サラブレッド」などという在り様は存在しないという好例、証左でもある。そこには「歌よみ」と「幇間」ほどの隔たりがある。
総じて、「血縁関係」なるものは法的問題に関係する程度で、それ以上のことは各個人の問題で第三者が「かくあるべき」などと「押し付ける」問題でもない。
しかし、何か事あるごとに、与謝野鉄幹・晶子の名前を出されては本人もかなわないであろうが、それを利用しているのも実情であろう。言うまでもなく、「血筋がよい」などという「ブランド」は実質的に人間には存在しようがないということである。それなりの由緒があったにしても痴れ者、統合失調、サイコパス的凡夫にたやすくシフトするのも「人間」なのである。たとえ過去にどのような「素晴らしいこと」をなそうが、現在やっていることが常に問題となるだけで、現在「良きこと」をなしていても近未来まで「良きこと」をなしうるかは保証の限りではない。その逆も同様、それがすべての実情である。それ以外は「幻想」といっても過言ではない。そのような「幻想」を「実相」と 「思い込む」のは各自の勝手ではあるが、その行為自体は不誠実であるということに過ぎない。
2017 5/5
699.薄笑いの消えぬ人々
誰に対する「薄笑い」か、それは言わずもがな、「臣民」に対する薄笑いである。もはや「彼ら」の中に「国民」は存在しないのである。それはその言動から明らかである。映像に映し出された「彼らの」言動の「すべて」(「言語内容」、「表情」、「声」、「仕草」、「挙動」、)からもそれは割り出せることであるが、現実的に少しでもチェックすれば彼らのやっていることすべてが「筋の通らぬ」、「怪しげな」、「詐欺行為」であることはすぐにわかることである。「国民」を朝三暮四のサルくらいにしか見ていないということは以前にも言ったことである。サルの方も朝四暮三だろうが朝三暮四であろうが怒りもしないどころか「見ザル聞かザル言わザル」が賢い生き方くらいにしか考えていなのであるからやはり「特殊」な国民性を持つものなのであろうと思わざるをえない。というより「目からウロコが落ちる」という言葉は知っていても実質的に「目覚め」を知らぬ人々ということになる。「わかっていない」から現状があるという冷徹な認識がない限り、忌まわしい連鎖は限りなく続くのである。
2017 5/4
698.「自主憲法」?
戦後の憲法は「押し付けられたもの」であるから「自主憲法」が必要という当然のようなウソの話がまかり通っているようである。まず「押し付けられたもの」ということ自体に実情にそぐわない虚偽が多々ある。さらに「自主憲法」の誕生が自国の必然的流れのごとく言われているが、この憲法「改正」そのものも米国の「押し付け」であろうことはその流れからもわかる。この米国隷従亡国政権に「自主憲法」などとは無縁、何のことはない米国の都合で国の根本法が変えられようとしているのである。そこには日本の矜持などは皆無である。そして、矜持を捨てたものはやがて見限られるのが常である。どちらにしても、この「『国民』不在」の政権で「憲法改正」とは最悪のシナリオであろう。
※この件についても以前このサイトで書いたことがある。何度も書かざる得なくなるのが現状である。
2017 5/1
697.あわれ、この国は狂っている・・・
あわれ、この国は狂っている・・・
大方はこの狂気が見えてはいまい
繕い切れない所業の数々
お先棒をかつぐことでしか生きられない
「現実主義」気取りの 危うい舵取り
何という低劣さ ゲスが稟性(ひんせい)とでもいうのか
「一強で何が悪い」とうそぶく走狗が
得意げに開き直り開陳する内容たるや、聞くに堪えるものではない
彼らは民主主義とは縁もゆかりもない者たち、すなわち詐欺師
似非ジャーナリストに売文業者、御用学者に政府お抱え評論家
その恐ろしくもっともらしい言動の連鎖が日々流されている
恐ろしく危うい怪しげな、その「すべて」は詭弁でおおわれている。
怪しい金で動いていれば言動も怪しくなるのは至極当然のこと
人はどこまでも堕ちるのものである 奈落の底にぶち当たるまで
彼らに「意味がある」とすればその存在そのものの「罪悪性」くらいであろう。
2017 4/24ー