周知のとおり、オックスフォード英語辞典が2016年を象徴する単語として「post-truth」を選んだ。その意味内容は、「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」ということである。その遣われた方も「ポスト・トゥルースの政治」という形でよく遣われたという。それは2017年も同様で、我々の意識変革がなされない限りこの状況は当分変わることはあるまい。「感情」も「個人的信念」も共に「単細胞的もの」から複雑に絡み合った総合的なものまで様々であるが、「単細胞的なもの」がやはり圧倒的に多い。その「単細胞的なもの」を刺激するかのように客観的事実を強引にねじ曲げて我田引水する向きもあるようだが、そのような営為からは将来につながる何ものをも生み出しえないだろう。要するに、自らの過ち、欠点を含めた自分自身を思い知る者だけが未来につながる道を見出すことが可能であるということである。それはは現実的な身近な例からもいくらでも引き出せることである。「信念」にかこつけた「思い込み」の類の行き着く先は、空中楼閣がやがて雲散霧消するのと同様である。何をどのように言おうとも、自己正当化と証拠隠滅を繰り返すだけのものには明日はない。やがて因果応報で自滅するというのが今までの実情である。それが合理的事実でもあり、客観的事実ともなりうる。現状を偽っている者、あるいは矮小化して感情的になっている者に将来の展望など実際に在り様がないのであるが、そのような者に限って大言壮語をはばからない。そして、大言壮語の多くは感情的言語で埋め尽くされている。それは「本体」の吐露と同時に実は別の「本体」を隠ぺいする半ばオートマ化された操作でもある。
「ポスト・トゥルース」は限りなく「あまい」。そして、それは放っておけば隙をみて現れる。言ってしまえば、しだらな現象なのである。それに傾くということは内在的なエネルギーも衰微、枯渇しているという証にもなる。
2017 2/24