109.つれづれに、一言で片付ければ (1)ー7件ー

〇三島由紀夫は、明治以降の新興田舎貴族の過剰な意識の成れの果て、一方、三島が嫌う太宰治は、没落すべき由緒ある豪族の末裔の当然の道行き。両者とも特に好きな作家ではないが、当然「作家」と言いうる「切り口」、「切れ味」は持っている。

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〇 擬態語、擬声語の多用を嫌ったのは三島であるが、擬態語、擬声語を見事に血肉化させ香り立たせたのは宮沢賢治である。「人間」の成熟度、仏教的智慧の体現化、冷徹な現状認識においても宮沢賢治は時を経て今なお息づいているものがある。

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〇 「さよならだけが人生さ」と言えば、「さよならだけが人生なら、そんな人生いりません」と寺山が言う。「いらない」からといってどこかに行けるわけでもなく会者定離は避けられない。それではどうするか、「さよなら」が常に問題になる世界からおさらばするしかあるまい。それは、死か、新たな世界観の創出、さもなければ根底からの自己変革の道ということになる。

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〇 大島渚もうまく使ったものだと感心するのは「戦場のメリークリスマス」のタケシである。タケシの稚拙な演技が、日本兵の愚かしい在りようを実にリアルに浮き上がらせている。タケシ自身は演技をしているわけではなくほぼそのままであろう。あれが「すべて」(原点であると同時に到達点)で、実際その後もほとんどあらたな展開はない。お笑い芸人としてももうすでに死に体である。その内、文化勲章でももらうのであろうか。しかし、お笑い芸人、なぜか年とともに顔つきが醜悪になっていく者が多い。もう少し考えた方がよかろう。見ているだけで笑えないのではお笑い芸人とも言えず、仕方なしに笑われる、お情けで笑われているようではもう終わりなのである。それすらわからない体ではお笑いなどやる資格もない。

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 〇 そもそも「お笑い芸人」などとは、総じて「国家公認の一億総白痴化推進委員」のメンバーとして見てさしつかいあるまい。攻撃対象は常に他愛もない「八つぁん、熊さん」の類、そして肝心なことをいかに素早く中和させ、印象に残らないようにさせるか、一日が、一年が、一生が事もなげに終わったように見せかけるか、それはそのまま一億総無知化につながっている。悲惨な状況からいかに目をそらさせるかという国家的にも重要な役割を担っているのである。彼らは自由気ままにふるまい、言いたいことを言っているように見えるであろうが、そのような「装い」で各自の現実を中和させ、茶化し、あたかもそのような現実はないかのごとくの「錯覚」に持っていくのである。したがって、作られた彼らとの同調回路がいつの間にか出来上がってしまうと、実際に現実に何が起こっているのかもわからず、周りにつられて笑っているいる内に突然自分の最期にみまわれることにもなりかねないということである。

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〇 「南スーダンで自衛隊に死傷者が出たら、首相を辞任する覚悟だ」

「首相を辞任する覚悟だ」と言っているだけで、辞任するとは言っていないのである。この「人間」の今までの言動から察すれば、死傷者が出れば出たで「亡くなった(方たち)のためにも、真に責任を取るという意味でも首相という職務を全うしたいと思い、辞任を思いとどまりました」とでも言うのであろう。何もかもがこの調子である。福島原発事故は今なお進行中で、メルトスルー(溶融貫通)で超高温のデブリ(溶融燃料)が地下水に達していれば放射性物質の拡散はとても人間の手に負えるものではない。福島原発は世界的に見ても前例のない事故の状態であるにもかかわらず「アンダーコントロールされている」と言った人間である。30年40年で廃炉など夢のまた夢、何百年続くか何千年続くかそれすら不明というのが実情であろう。これで再稼働、つい「ソドムとゴモラ」を連想してしまう。この国は人間などには手に負えぬものによって全滅させられるのかもしれぬ。こんな人間たちの一語一語を真に受けていたら、我々はすぐに絶滅危惧種の仲間入りである。

 

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〇 テレビに常に出ている者が、「テレビじゃ言えない」ことを書いて本を出す。それだけ言いたいことが蓄積されるのもよくわかるし、テレビでは確かに言えないこともあるのであろう。しかし、煎じ詰めればその「在り方」自体が問題なのである。いくらでも「皮肉」、「毒舌」が言える立場にあるものが効果のある肝心な場所でもっともらしく自主規制していては話にならないのである。逆にそこまで自主規制しなくては成り立たなくなっているという現状も見えてくるが、それにしても、それでは「あれは上の意向(命令)でやったこと、実は俺は違うと思っていたがどうしようもなかった。それ以上やれば俺がつぶされる」と言い出す者たちと大して変わるところはあるまい。実は何を考えていたかなどはどうでもいいことで、自らの「在り様」が問題なのである。現状のお笑い芸人の「在り様」では、「構造的」に「一億総白痴化推進員」の「お墨付き」の枠を抜け出すのは何をやっても100%不可能であろう。「退職後」何かやろうと思ってもその時には以前の思いは消えているのと同様、やってきたことが「すべて」でそれ以外には実のところ何もないのである。もっともあるような振りをするのは自由だが、それも公認の「一億総中和論説委員」といった役どころが待っているだけであろう。

 この「テレビじゃ言えない」ことは、単なるゴッシプでも「ハっさん熊さん」が対象の裏話でもないようなのでまだ救われてはいるが、この程度のことさえテレビでは言えなくなっているのである。不自由な国になったものである。また、最近では、万人が弱きをくじき、強きを助けるという、映画などでは必要不可欠な悪の権化みたいなことを地で行っているのであるから何ともだらしない風潮になってきたものである。人間性の失墜、堕落といってもいい。

 

                                2017 2/1ー2/4ー2/8

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