私の好きなシンガーソングライターでもあったので、昔は機会があるとよく原語で歌ってもいた。最近、確認の意味で和訳をみてみたが、中にはひどいものもある。一般的に詩というものは特に難解な単語、言語構成がない限り中学、高校程度の者でも訳せるものが多いのだが、実はそこに大きな陥穽がある。ボブ・デュランの歌詞も平易で訳しやすそうだが、もろに訳した者の深浅、器量が表われる。例えば、「How many roads must a man walk down」の「a man」を「男」と訳していたり、「The answer,my friend ,is blowin’ in the wond」「The answer is blowin’ in the wind」の箇所を「その答えは 風に吹かれて 誰もつかめない」などと「意訳」しているが、これは歌詞全体を貧相にする以外何の効果もない。むしろ、歌詞を台無しにしているのである。これでは作者も浮かばれまい。ボブ・デュランは、その答えは風の中に「ある」といっているのである。「誰もつかめない」などということを言いたいがために綴った言葉ではない。それは観ようとする者に「揺らぎ」として、聞こうとする者には音としてとらえられるといっているのである。目を澄ませ、耳を澄ませといっているのである。「友よ、答えは風に吹かれて 風に吹かれている」これはまた別の訳者のものであるがせいぜいこれくらいにしておいてもらいたいものである。この訳者は「a man」を「人」として訳していたが、当然であろう。21歳のボブ・デュランが全身で感じ止めた世界である。そこには齢ばかりを重ねた未成熟な大人では到底感じ取れない直観的な世界が広がっている。腐り行く大人の三文小説風解釈では折角の結晶体に強酸を注ぎ込むようなものである。これは罪悪である。詩をほんとうに「意訳」できるのは博識な詩人だけである。
因みに、ボブ・デュランのノーベル賞受賞に関するマスメディアの騒音についてはまったく興味はない。そのことについては以前このサイトでも取り上げた。<(655 )2016 10/14付け>
2017 1/4