74.「新年。何がめでたい」

 2017年、新年。「何がめでたい」と思うのが多くの「普通」に働いている人々の本心でもあろう。そこに、1%の富裕層とそのお零れにあずかる走狗の類、詐欺師の類は含まれないのは言わずもがなのこと。人々の「無関心」を滋養にして肥大化した「操り人形」は今やどこを踏み潰すかわからぬ様態である。踏み潰されて、喪失して初めて知るのが大方の実情であってみれば、とことん追い詰められなければ現状を知ろうともしないのは今も昔もさしたる違いはない。これから起こることは今まで以上にその繰り返しとなることは容易に想像できる。「想像する」ことと「占い算」とは違う、想像力の欠如がやがて人間脱落、人間失格へと否応なく導く。日々の世間の動きを見ていても、知らず知らずのうちに想像力を劣化させる方向に向かわされ、感受性は似て非なるものにならされ、情報は全体像を把握できないように操作され、群盲象を撫でるがごとき様相を呈しているということもよくわかる。群盲の残された唯一の全体像把握は想像力しかないのであるが、群盲同士の主張も喧しく、正鵠を得た想像力の「賜物」なども、根拠のない「占い算」のごとき扱いで、いつしか忘れ去られている。どちらにしてもどれを選び取るかで自己の生命に直接影響が出てくるところまできていることは明らかなのである。忘れていた、知らなかったはでは済まされず、それがそのまま自己の生死につながってくるのである。

 それこそ、「生か死か、それが問題なのである」。さらに言えば、自分がいかにあるべきか、あらざるべきか、それが問題なのである。しかし、現在ではこれ以上その問題にかかわる時間も、考えている時間もないということである。

 

                                         2017 1/2

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