73.70年を経て必然的に蘇った「オーウェリアン」

 現在の日本はジョージ・オーウェルが描くような全体主義・管理主義的社会の真っただ中にあるともいえる。70年も経ってオーウェルの描く忌まわしき世界は日本でも息を吹き返したのである。人々は「ニュースピーク」(新語法)や「ダブルシンク」(二重思考)を通じて認識が操作されているため禁止や命令される前に、政府の理想どおりの考えを持ってしまうのである。「ニュースピーク」によって言葉の意味も政府によって都合よく変質させられ原形は失われていく。さらに「ダブルシンク」(二重思考)よって、2+2は5にも3にも、同時に4にも5にもなりうるのである。要するに現実認識そのものがごく「自然な」自己規制によってうまく操作された状態となるのである。ダブルスピークは、平和を表す言葉で実は暴力的な裏の意味を表し、実際に表の意味を信じ込み自己洗脳していく過程でもある。ダブルスピークは矛盾した二つのことを同時に言い表す表現であるから「平和を実現していく」とは「戦争を実現していく」ということにもなるのである。要するに言葉を遣う者がその言葉とはまったく反対の意味を同時に言い表していることになるのである。そして、他者とのコミュニケーションをよりよくとる「振り」はするが、現実的はまったくコミュニケーションを目的としない言葉の連鎖なのである。実際に、連日繰り広げられている現実の「三文芝居」、「俄師による俄仕立ての俄芝居」の恐ろしき進捗(しんちょく)状況はその証左でもある。

 また、下層労働者の扱いも巧みである。酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、人畜無害の小説、映画、音楽、ポルノ、ゲーム、このような「餌(えさ)」を与えておいて適当に放し飼いのようにして「飼っている」のである。早く子供を作らせ60代には死ぬように持っていく。彼らは総じて「判断停止」状態であるから支配階級にとっては何の脅威にもならない都合のいい対象なのである。

 「全体主義はもし戦わなければどこにおいても勝利しうる」とはオーウェルの悲痛な思いでもある。

 「戦う」とは、多種多様で、多岐にわたると考えられる。現在の自分ができることをすればいいのである。それは「思考停止」から認知症に至る過程を断ち切る第一の方策でもある。「戦う」というとすぐ武器を持って戦うなどはもはや短絡思考に過ぎず、無能の証ともなる。そういう意味も含めて「人生とは戦い」なのである。トリガー(引き金)は限りなく甘く軽くできているとは以前にも書いたこと。それは、引くと同時に自分の死をも意味する。

                               ー「どこまで」続くー

                                                         

                                 2016 12/9、12/17

 

※2016年12月28日付けの日刊ゲンダイ紙上でもジョージ・オーウェルの「1984年」から「ダブルスピーク」を引用し、阿倍政権の国民に対するアクドイ洗脳について書いていた。

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