いつ見ても、この長崎平和祈念像に対する奇異感、違和感は払拭できない。そもそも、こういう場所で平和を祈念する像という説明がなければ、何の像かと思われるくらいに場違いである。これは靖国神社の国威高揚の像であっても、何ら不思議はない。むしろその方が違和感がないのである。この像の作者北村西望の作品は、実際に靖国神社にもいくつかある。武人、兵隊の勇ましい像が得意なようだが、繊細な精神の揺らぎなどを表現することはできないのであろう。平和を祈念する力に満ち溢れた像、戦争犠牲者の冥福を祈る普遍的な人間性、人間愛を表すという顔についても解せない部分が多々ある。筋骨隆々とした男が交通整理をしているようなポーズで、たとえそれが上方を指す右手は原爆を、水平に伸びた左手は平和を表すと言われても説明以上のものはない。これは芸術作品でも何でもないと見るならば、説明的領域で収まるのかもしれぬが、芸術作品ではない、その場にある平和祈念像であるにしても、その意味も存在感も薄い、もう少し違う表現もあるだろうと思われるのである。敗戦後の民衆を奮い立たせようとする、力みばかりが、武人像を得意とする作者によって作り出されてしまったとも言えよう。これは平和祈念とは程遠い、武人が目を閉じて民衆の行き先を指し示しているようにしか見えないのである。長崎には似つかわしくないものである。むしろ、浦上天主堂廃墟をそのまま残す方が西欧人にとってもインパクトの強いものとなり、思わず頭を垂れるか、十字を切ったであろうと思われる。米国にとっては尚更である。
2025 8/15