「PPAP」とは、ご存知のピコ太郎の「pen pineapple apple pen」であるが、すでにこのサイト(ブログT/Z659「ピコ太郎の登場の仕方」)でも取り上げたことであるが、再び取り上げることにした。
現時点で、動画再生回数4億5千万回を超えるそうである。私が気づいた時は再生回数1億5千万回であるからわずか1週間足らずで3倍になっている。やはり、この気張らない、それでいてどこか「エスプリ」を感じさせる流れるような「おかしさ」がいいのであろう。それは決して「爆笑」ではない。彼のしぐさ、風体、リズム、「歌詞」それが何とも言えない「おかしさ」を誘うのである。歌詞と呼べるかとも思える簡略化された言葉としぐさ、penとpineapple,そしてappleとpen語呂合わせのようでもあるが意味付け次第ではかなりイマジネーションは飛翔する。同時にどう取ってもよい幅の広さもある。
今後、「ピコ太郎」に倣う者も現れることであろう。大いに結構なことである。それは「ものを創る」ことの根幹部分の姿勢をも垣間見させる。モチベーションが一義的に俗っぽくないのである。彼の登場と世界の反応は、マスメディアなどに左右されることなく各自が思ったこと、感じたことを自由に「表現」していけばいいということを教えている。ただし、どうしたら「受けるか」などと通俗的に考え始めたら、そこで終わりである。それではせいぜい国内でお茶を濁しているしかあるまい。
しかし、やがて5億人以上になるであろう人々に一瞬でも「薄笑い」を起こさせたというのは大したものである。この「薄笑い」の多くは「大人」で、子供たちは「哄笑」である。以前、立川談志も彼のことを買っていたそうだが、決して「爆笑」することはなかったであろう。この「PPAP」も「大向こう」が「爆笑」する内容ではない。以前は「大向こう」を「クスツ」とさせればよしとするような芸人もいたが、今では芸もない単なるバカ笑いのような爆笑だけを笑いの基準にしている者がほとんどである。日本の総人口を差し引いても現時点で3億人以上の世界の人々が見ている「PPAP」、いつしか日本を通り越しているのである。
蓋し、彼はこれだけで消えても本望であろう。
2016 10/30
追記:例によってまたマスメディアなどの陳腐な「分析」、「解説」らしきものが始まった。「ピコ太郎の正体」、「往年の芸人のパクリか」etc 要するに、そんなものはどうでもよいのである。それで何か言った気になっている者はそれまでの話というだけのことに過ぎない。それ以上の要諦を教える必要もあるまい。
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年明けに武道館でやったとか、千三の類に乗せられたのかそれとも己を見失ったか、そもそもがわかっていないのか、もはやそれまでという感あり。お決まりのコースを辿ったというしかあるまい。
2017 1/某日