英大衆紙デーリー・メールが「ラブドールに夢を見だした既婚日本男性ー買い物、デート、お風呂も一緒」などと報じたと日本のタブロイド紙が伝えていた。妻と二人の子供がいる61歳のこの男性は「妻は私のそばにいたいとはもう望んでいない」と言い、そして「同棲している」このラブドールについて「彼女は裏切らないし、お金だけを要求することもない。私は現代の合理的な人間に疲れた。彼らは「無情」(heartless)だから」と続ける。これについてまたお定まりの心理学者先生の「幼児化」、「現実逃避」などという講釈がついている。その中で、「彼の場合、現実社会を十分知った上で、現実逃避している云々」とあるが、果たしてどこまで「現実社会」を知っていたかは疑問である。彼は「合理的な人間に疲れた」と言うが、それは「計算高い人間」と言うべきなのである。「合理的な」という意味と「計算高い」という意味は根本的に違う。彼のまわりには本当の意味で合理的な、「拝金教」に毒されていない頭脳明晰な、あるいは真摯な者が一人としていなかったのであろう。もし彼が、お金を出しているのであるから自分の要求はすべて飲むべきという思いが少しでもあれば彼もまた「計算高い」拝金教徒のひとりで、拝金教徒間の駆け引きに疲れたとも言えなくもない。金銭間の隙間をありもしない「情」で埋めるのが拝金教徒の「習性」であってみれば、「情」の劣化は自ずと金銭のみを際立たせる。相手の気持ちのズレなどと言ってみたところで最初から無きに等しいものをあると思い込んでいただけで、それを裏切りと感じ取るのはこの世界に身を置いてきた者たちのお決まりの道筋。彼が疲れてしまったという現実とは言ってみれば拝金主義的現実で、そこに空中楼閣を作り上げていただけのことである。彼は「現代の拝金主義的な人間」と自分自身に疲れ、いつかしか人形が自身の非論理的な情動をいつでも叶えてくれる、なくてはならぬものなったということであろう。これは不幸な現実の一様相からのリバウンドである。
このようなことをわざわざ取り上げるのもピグマリオンの存在が文化レベルで浸透している欧州ならではないか。日本ではよくても同情と区別のつかない「共感」の域を出ないか、多くは単なる変なオッサンとしか見ないであろう。しかし、実はスマホ片手に周囲もろくに見ずに独り悦に入っている者とそれ程の距離はないのである。自ら作り出すこともせず、与えられた既成の「代替」物による「自己完結」は決して何ものをも生み出さない。そして、アフロディテも決してそれに生命を吹き込むことはない。
スマホに現を抜かし、静かに首に縄がかけられているのも気付かず、関係ないとばかりにすべてに無関心を決め込む者たちと同様に、この61歳の御仁も人形に現を抜かし、やがて棄老の対象として人形と共に消え去る宿命なのかもしれない。深山の月影の中で人形と語り合っている痩せ劣れた老人の口元が見えるようだ。
2016 7/2