65.「実学」阿世の徒

 「曲学」で権力に、あるいは社会に阿る(おもねる)者、すなわち曲学阿世の徒などは掃いて捨てるほどいる。「実学」が「曲学」(真理を曲げた不正の学問)とは限らないが、経済、工学、医学などの「実学」といわれる分野は、非実学的分野すなわち人文社会科学系の視座がないとすぐにマッドサイエンス、マッドエコノミーにもなりかねない危険因子を常に持っている。特に現在のようにmammonism(拝金主義)が其処彼処で吹き荒れているような終末的資本主義の流れの中では、「源氏物語やフランス文学を研究して会社の業務の役に立つのか云々」という問いかけ自体が、終末へ向けて途中駅で特急列車に乗り換えるようなものなのである。そのことにまったく気づきもせず、したり顔で「実学」の優位を説き、人文科学系分野の無意味さを論うのであれば、かなり危険な状態であろう。それは自ずと権力にとって都合の悪い人文科学系の視座を消し去るための戦略ともつながり、それにmammonismが相乗作用を起こせば必然的にマッドサイエンス、マッドエコノミーは作り出されてくる。 もうすでに我々は終焉そのものに立ち会っているのかもしれない。「人間の終焉」そのものである。

 「実学」とは言ってみれば「技術」である。程度の差はあるが技術的なものは三年もあればほとんど身につく、経験則だけの集積であればさらに時間は短縮できる。学生であれば社会に出てからでも充分間に合うものばかりである。ところが、人文科学系の視座を育てるには時間がかかるのである。それもすぐに「換金」できるような「代物」はほとんどないというのが「実学」との違いでもある。しかし、後々とんでもなく大きな開きが出てくるものが「非実学的領域」である。それは、その時になってからでは簡便に修正、修復、獲得できるようなものではない。それが文化レベルの「無形」のすぐには察知し得ぬ、気がつかない怖さである。そもそも人文科学系の素養もないようなテクノクラートなど世界の今後の趨勢から外れざるを得まい。要するに、やろうとしていることは逆行しているのである。

 とにもかくにも、「実学」阿世の徒とアスリート、タレント、疲弊した思考停止状態のワーカー、彼らは全体主義的「指導者」とって常に欠かせない者たちであることは今も変わりはない。

 

                                  2016  4/10

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