<掲載内容>
<番外日誌20160205>ツイッターの哀れさ 605.愚かさも 極まりけりな 空騒ぎ 606.「隙間政治家」とは幇間政治家のこと 607.笑っているのか怒っているのか <番外日誌20160224>経済状態を悪くすれば支配しやすい 608.詭弁と詐術の範を垂れる 609,「家族と支えあって」? 610.「特養入れぬ、日本死ね」にもなる 611.その場しのぎの支離滅裂政権 612.原発事故訓練?613.死んだクジラの上でガッツポーズ?
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613.死んだクジラの上でガッツポーズ?
おちゃらけやっている兄ちゃんとして密かに家族のアルバムの中にあるのであれば何とか許されもするだろうが、それでも意識、前意識レベルでは問題となってくる。そんなことすらわからず写真コンテストなどに出せばどうなるか。それはお気軽にネットに流すのと同様にその安易さ故の危うい結果をもたらす。この写真一枚で彼の「内容」のほとんど読み取られているということが本人だけが知らないのである。しかし、そんなことより何よりこのような「作品」を最優勝賞に選ぶという審査委員の見識のなさは罪でさえある。この写真が北海道立オホーツク流氷科学センター(北海道紋別市)の主催した写真コンテストで「征服」という題名で最優秀賞をとったというのであるから一悶着起きるのは当然であろう。それは権威の有無でも有名であるかないかとは関係なく公の場に登場したという意味である。題の付け方、写真の撮り方どれを取っても他者に共感を求めること自体がおこがましい程度のものである。敢えて題をつけるのなら「人間の愚かしさ」という題名が一番似つかわしい。この写真を選んだ審査員(女性)は「海岸に流されてきた?クジラに乗ってヤッタゼ!と言った得意のポーズの青年!滅多に見られない作品作りに成功されたと言ってよいでしょう」と選評しているが、その後の人々の反応に対して「クジラは生きていると思った。その上に乗っかるなんて勇気があると思ったし、感動したので選んだ。それが冒涜と言われると何といっていいかわからない」と話しているが、やはり感動することもその人間の知性、感性の在り様、質をよく表しているということである。審査員を審査したいようなコンクール、コンテストは巷にあふれている。鍛え上げられた強靭な知性もなく、一時はあったであろう偶然のなせる輝きを頼りにすでに色あせてしまった今の感性を重ね合わせれば「ものは見える」と思っているようだが、そのような傲慢さが頑迷な蒙昧さとなる。豊かな知性から香しく匂い立つようなもの、それが揺らぐことのない良質な感性の最大要因である。
2016 3/17
612.原発事故訓練?
これは火災訓練とは訳が違う。起きた時は二度と以前のようには戻らぬ、その地域と人々の「終焉」の時でもある。「終焉の時」の訓練とは、何と言うべきか,絶句に近いものがある。原発を再稼働させることは、大陸から離れて浮かぶ地震大国でもある小さな島国を再び危険にさらすことになるのである。核エネルギー施設の時限装置をONにするのにも似て危険過ぎる。日本全国にあるすべての原発を再稼働させれば、経済論議、国防論議以前に日本滅亡の現実的かつ実質的な姿が見えて来る。思慮が少しでもあればすでにマッドサイエンスの愚かな学者たちの口上は聞き飽きたはず。最悪の事態になっても彼らもまた現在の為政者同様責任は一切取らないであろう。現に、今でも責任どころかその回避に躍起になっているのが実情である。後は推して知るべしである。福島が絶対的な負の遺産を背負わされてしまったのは誰の目にも明らかなこと。それとは違う取って付けたような「イメージ」を為政者とメディアが作り上げているだけのことである。特に、民主主義が根付いていない、形ばかりの国であればなおさら、大手メディアなどは構造的に政府の広報機関にならざるを得ないのである。受け取る側も彼らの取り上げ方を信じ切って、ただ伝えられるままに受け取っているだけでは「自分で考える」ことなどは到底不可能である。いつの間にか都合のいいようにマインドコントロールされた「自分」を「自分」であると思い込んだまま果てることになる。彼らにとって我々は飽くまでレトリック上の「人間」であるに過ぎず、実情とはあまりに乖離しているのである。
2016 3/13
611.その場しのぎの支離滅裂政権
身も心も1%富裕層に捧げ、後は舌先三寸でいかに「国民」を目くらまし、たぶらかすしか考えていないのであるから,やることなすこと支離滅裂になるのは当然である。何を言ってもただその場しのぎを言っているだけのことなのである。よくこんなものを支持する者たちが40%以上もあるものだと驚いている。99%の者たちの首をしめる手立てばかりを企てているものを支持するなど明らかに狂っているとしか思えぬが、1%のおこぼれをいただき、1%の者たちにあやかろうなどとは下種の極みでもある。またそのような詐術で国民を操れると思うこと自体が「国民」を愚弄するものである。要するに完全に「国民」を見下しているのである。メディアを含めた「野党」批判はそのまま99%の国民に対する嘲笑と見る方が賢明であろう。どのようにだらしなくとも野党の実態がそのまま「国民」の実態である。いつの間にか「黄門様」の立ち位置になっていると、愚弄される者が愚弄する者と一緒になって「高笑い」をしているという何とも滑稽なこととなる。そして、真っ先に「やられる」のはそのような者たちであるからますます笑えないのである。
2016 3/10
610.「特養入れぬ、日本死ね」にもなる
「保育園落ちた、日本死ね」はそのまま「特養入れぬ、日本死ね」にもつながってくる。特養とは、特別養護老人ホームであるが、現実的に認知症の老人がいる家庭では働きに出ることも買い物に出ることも、おちおち夜眠ることさえもできなくなり、家族の者はできればその認知症の高齢者を介護施設などに入れたいと思うのはごく普通のことであろう。しかし、その特養に現在50万人以上の高齢者が入れないで待機状態なのである。
その全員が認知症を発症しているかどうかは定かでないが、自宅での家族介護が不可能なのがその実情であろう。50万世帯以上の者が陥っている状態を救えないのであるから「日本死ね」と言われても仕方あるまい。こんな状態でいくら外憂を煽ってみたところでそれどころではない。それ以前に体力は使い果たし青息吐息で自ら立っているのもおぼつかないのである。この問題も後手の対応さえできていない詐術的事象である。「庶民」レベルでは、子供がいる者も、認知症の高齢者がいる者も食つなぐことさえ困難で、すでに「棄民」の適合者ということなのであろう。だから、「日本死ね」ということにもなるのである。「一億総活躍」とは言ってみれば「一億総白痴化」のパロディかパスティーシュであろう。さらに言えば、「一億」の「棄民」該当者のさらなる隷属化である。
働かざるを得なくなっても子供を預けるところもない、家には夜昼何をするかわからない認知症の高齢者、挙句の果てに何かあれば「監督義務」が問われる。このような世帯がどれだけあるのか、「支え合って」などという言葉がどれほど着飾った空疎な言葉かということをいやというほど思い知らされていることであろう。それは当然の成り行きで、支えようにも個人の限界を通り越しているのである。社会問題を個人の問題に収斂してどうするのか、「家族で支えあう」ではあるまい、このような問題は社会で支え合うのが健全な社会の在り様である。社会保障の名目で増税したものは一体どこに使われているのか、それも言わずと知れたことである。このままでは「庶民」の多くはこの先いくつもの地獄を経巡ることになるだろう。それは時間が経てば経つほどさらに悪化するだけなのである。
2016 2/5
追記:「保育園堕ちた、日本死ね」について、「何でも行政にせいにするのはどうか」、「自分で工夫すれば」等々の声もあるようだが政府関係者ではないかと思われるようなレベルである。自分の立ち位置もわからず、恐ろしく問題のある政府と一緒になっているのであるからオメデタイも通り超している。民主主義とは正反対の方向を向いていることも気が付かず、自分の問題と社会問題の区別もつかないのである。
中には「便所の落書き」などと同一視する杉並区議まで出て来る始末。事の重大さがまったくわかっていないのである。会派は「美しい杉並」だそうであるから恐れ入る。見識も政治センスもない何でこんな人間が議員をやっているのか不思議であるが、下心は見え見えである。ホスト、半グレなどの舌先三寸のやからと何ら変わるところがない。選んだ奴は誰だと言われても仕方あるまい。
609.「家族と支えあって」?
起こるべくして起こっている「介護」についての諸問題、家族と支えあってもできないから起こっているのである。名古屋地裁、高裁の「監督義務」についての判決には介護の実情の無知さにあきれ返えるが、最高裁の小法廷での判決でかろうじて落ち着きはしたもののこのような事故、事件は今後も増えることはあっても決して減ることはない。93歳の要介護1の認定を受けている妻に、働かざるをえない長男に「監督義務」を負わせて760万円の賠償を命じたり、妻に360万円の賠償責任を負わせたりすることがどういうことなのか考えるべきである。夜昼関係なく行動する認知症の者を監督するには四六時中見ていなくてはならないのである。要介護の妻にも、外に出ざるを得ない長男にもそれはできまい。現実的にやれることは「開かずの間」を作るか、倉庫にでも閉じ込めて置くしか手はないのである。しかし、そのスペースすらない者には夜もまともに寝ることはできないはずである。やるべきこともせず社会保障費を削減し、起こるべくして起こっている問題を放置している責任はどこにあるのか、それは明らかなことである。
2016 2/4
608.詭弁と詐術の範を垂れる
一国の「長」が自ら率先して詭弁と詐術の範を垂れているにもかかわらず支持率が激減しないということは、衰退し続ける国の実情を見事に体現している。この反照としても国中に詭弁と詐術がはびこることは避けられまい。前代未聞の糊塗、ねつ造の常習、常態化、どこをとっても一つとして拾えるものはない。ただ唯一「取れる」ものは、その醜悪な実態の現前化であろうか。今後、各自がこれをどのように教訓化、経験化するかで決まってくるというのは言うまでもないこと。見れども悟らずという者は論外。それは言い方を変えれば、どのようなことがあっても悟れない者なのである。
いつまでも詭弁と詐術の範を垂れていれば、金になれば何でもするという根性の浅ましい連中はいくらでも増える。箱物ばかりはご立派で「内容」はお粗末で空疎なものは今でも巷にあふれている。要するに、そこで「やるべきもの」がない、例えて言うなら、オペラ劇場でカラオケ大会をやっているようなものである。それは実体のないものを詭弁と詐術でごまかしているすべての「もの」、「こと」と重なり合う。経済を破壊し、文化を破壊し、社会を味も素っ気もないものに変えようとする詐術行為をいつまでも許していればそれだけ回復時期は遠のくだけのことである。もし、それが「不治の病」であれば「復活」を期して死するより手立てはあるまい。
しかし、「体力」の衰退している時期というものは精神も脆弱化するものらしい。
2016 2/26
<番外日誌20160224>経済状態を悪くすれば支配しやすいというのも一理あるだろう。「ハイリスク、ハイリターン」の博打経済論、どちらに転んでも支配する側には持って行き方はある。ものの道理も知らで、見で、聞かで、言わで、黙々と働く民が相手であるからなおさらである。
607.笑っているのか怒っているのか
昔、笑いながら怒るということを器用にやってみせる形態模写風の役者がいたが、最近ではそれが一般的なってきているのか、笑っているのか怒っているのかわからないような人間が多くなっているように思われる。笑っているのか怒っているのかその内に「キレル」という何とも許容量のない防衛機制の「退行現象」のような「甘え」が現れる。この「キレル」という現象は「怒り心頭に発する」などとは
異質で、いともたやすく日常茶飯事に起こっている。それはこの言葉に引っ張られているかのようでもある。誰がこんな言葉で自分の心情を括ったのか知らぬが、「キレタ」ものは決して元には戻らないことを思い知った方がいいような場合が多過ぎる。そこには誰かが「キレタ」ものを修復してくれるだろうという幼児的な「甘え」のようなものさえ感じる。だから頻繁に繰り返されるのであろう。今までは何とかそれで済んできたのであろうが、やがて済まない時が訪れる。実際、時、場所によれば、「キレタ」瞬間に即生き死にが問題になることがある。それでも「キレル」のであればそれは簡単に収まらぬものがある時で、それこそ「怒り心頭に発する」といった具合であろう。喜怒哀楽などは人間の普通の感情の在り様であるが、怒ることが「キレル」ということであるなら「怒る」と言えばいいだけのこと。それはごく普通の人間の一様相である。その怒り方が自他ともに収拾がつかないような時に「キレル」などと遣ったのであろうが、もし「些細なこと」で感情のコントロールができなくなるのであれば、そこには知性、感性の許容量のなさ、退行としか言いようのない「甘え」しか見えない。この種の「甘え」は危険で、場合によっては本人の「意に反して」死地に追いやられることになる。「些細なこと」で生き死にまで行く、愚かとしかいいようがないが、それはすべてにおいて余裕がなくなっているということにもなる。
この「キレル」という言葉は、同時にある状態を象徴的に表している。それは、「喜怒哀楽」という本然的ともいえる感情表出が豊かにできないということである。「怒」といえばそのまま「キレル」という状態しか「作り出せない」ということは、当然「喜」も「哀」も「楽」も深浅自在な表現にはなり得ないのである。例えば、役者たちの変化に乏しいヒステリックなだけの攻撃的な表現、どれも形態模写の域を出ず、すぐに見透かされるほど底が浅い。これしかできないというのは何とも情けないというより役者という表現主体そのものの根幹に問題があることになる。おそらく、「怒る」といえば、彼らの中に具体的にイメージできるのは日常的に目にする単なる許容量のない、「退行」のような「キレル」状態の模倣でしかないのであろう。
今、いつからこのように「人間」の根幹部分に触れる領域が見る影もなくなってしまったのか改めて反芻している。「人間」そのものがもはや形骸化しているのか、死んでいるのか、そんなことはあるまいとも思われる。現に、ものに触れ、ことに触れて、つい「御身もまた人間か」という全身全霊の思いにかられることもある。人間もまだ捨てたものではないと思い返すこともしばしばあるのである。
2016 2/20
606.「隙間政治家」とは幇間政治家のこと
近くの文字が時折二重に見えて、つい「隙間政治家」を幇間政治家と読み間違えた。「未曾有」や「歯舞」を読めなかった天下の政を掌る諸君とは訳が違う。読めてしかるべきものが読めなかったのと、何気につい読み込みすぎた実情に合った勘違いくらいの差はあろう。昔、歌手の名前を間違えて左遷された司会者がいたが、天下の政とはその比ではないらしい。誰も恥じ入ることもなく平然と居直っていられるから大したものである。一事が万事。それにしても、税金を湯水のごとく使い、保身を最優先した上で、ダメだったから働けない者から早う死んでくれでは政の意味はあるまい。もともと幇間などは自分の世渡りで精いっぱいで、人のことなど二の次三の次なのである。そんな者が何人集まっても致し方ない。意識するしないに関わらず、もうすでに99%の人々の首に縄はかけられているのである。後はその縄をどうするか少しは考えられる道もあるという段階で、もし、このようなことを無視して「夢」、「希望」、「オイシイこと」を言う者がいたとするなら、それは巧言令色のニセモノであることを自己証明しているに過ぎない。その内に「福島原発」ですら「あれは時の政権の誇張、でっち上げ」、「実はなかった」などと言い出しかねないどこにでもいる寄らば大樹の陰に巣くう捏造専門業者の類と見て間違いあるまい。
2016 2/17
605.愚かさも 極まりけりな 空騒ぎ
愚かさも 極まりけりな 空騒ぎ ここに至りて 何をか言わんや
テレビなど観る機会も、観る気もないがたまたまボタンの押し違いでテレビの映像を開いてしまうことがあるが、そこに見るのは相も変わらない「空騒ぎ」と乱痴気騒ぎ、「ドラマらしきもの」も役者の一声でアウト。若い役者も演技の勉強を根本からやり直した方がいいと思われる者たちばかり。報道は最悪の自主規制。こんな世相を見てそれをネタに書くコラムニストもいくら「軟派」とはいえよくやっていられるなと思われる。一億総評論家などとはよく言われることであるが、一級の批評ができるのは現在日本では皆無に等しい。知性もない当然感性などもない他人によって「作られた」ことも気が付かない堕ち続ける「感覚」を頼りにしているようではいつまでたっても埒は明かない。腐り行く己の生理の域を一歩も出ることはない。要するに「オメデタイ人間」が「オメデタイ役者」を作り上げているのと同様に、「オメデタイ」選挙民が阿保な政治屋を選んでいるのである。「支持率」などを見てもつくづくそう思う。
今や、テレビの報道などが天気予報以上にあてにならず、流される映像は醜く、騒々しいだけであればテレビで知らされる内容は無視すればいいだけのことであろう。知りたければ自分で知らべればいいのである。テレビで何を言おうが「家はテレビがないので知りません」と平然と言えるくらいで丁度いいのかもしれない。都合のいいことしか言わない政府広報の類を参考にしても仕方あるまい。テレビについて「一億総白痴化」とはよく言ったものであるが、今まさにその効果が如実に一挙に現れてきている。「電波停止」やれるものならやってもらいましょうというくらいの気概がないから何もかも失うのである。「電波中止」もまた愚かさも極まりけりである。これはまたこれで、これがどういうことになるのか思い知らせるいいチャンスでもある。そう意味ではどんどんやってもらいたいと思っている。年間1ミリシーベルト以下というのが何の科学的根拠もないと言う環境相しかり、彼女たちは鬼女というより痴女なのであろう。都合が
悪くなれば「謝罪」である。それで済む問題ではなかろう。これで納得するのであれば御しやすいというより能天気なのである。もしそうなら、やはり病膏肓に入るということか。
2016 2/14
<番外日誌20160205> ツイッターの哀れさ
ツイッターには実に愚かしい、ただ目立ちたいだけというようなものも多いようだ。中には内容も不明で、何を勘違いしているのかと思われるような無様な自分の顔の大写しを載せている者までいる。顕示欲と自虐趣味などが混然一体となっているのであろう。哀れな姿である。