174.Adoとバンクシーと

 バンクシーについては、以前にも取り上げたことがあるので、詳細についてはここでは述べないが、すでに周知のことであろう。一方のAdoは、そもそもが、顔を出さずに活動する「歌い手」の文化に興味を持ったということであるから、目立ちたいだけの顕示欲の塊みたいな者たちとは出発点から一線を画しているのである。

 両者とも自ら人前に敢えて出ようとはしないという点では共通している。何が何でも目立つことばかり考えている者が多い中で、そのようなスタンスそのものが涼風のごとき爽快感を感じさせるのも頷けることである。目立ってナンボ、出てナンボ、有名になってナンボの世界が常態化して、ただそのことだけに躍起となることが当然の道筋だと思っている者たちが作り出す状況からは、「新たなもの」「創造的な」は生まれてこない。それは、そのようなところから離れた、外れたところからいつの間にか出てくる。換言すれば、資本から絡め取られていないところから自然発生的に登場してくるともいえる。自らが、人前に出ないということは、資本に絡め取られることから生じるあらゆる弊害から身を護ることにもなる。そして、常に自由でいられるということである。私は、彼らが必然的に編み出さざるを得なかった表現方法は、賢明な手段であり、生き方であると思っている。バンクシーのような単独作業が可能な人々、画家、文筆業、作曲家などは比較的容易であろうが、ステージに立たなくてはならぬ歌手はどうかと思っていたが、Adoはやり続けている。歌うことだけが好きという点に絞ればAdoのようなやり方もあり得るのである。「私こそ女のかたちをした声そのもの、生の源」と歌うタニア・リベルタ―に近いのかもしれない。

                                                            2024 9/24

アーカイブ
TOP