89.「牡丹載せ 今戸に向かう 小舟かな」子規

 今戸橋をくぐれば河口から8キロメートル程の潮風を感じる隅田川に出る。往時の山谷掘りを感じさせるものはほとんどないが、この正岡子規の句だけが涼風とともに当時をよみがえらせてくれる。明治28年の作であるから子規が日清戦争に従軍記者として朝鮮半島に渡る頃であろう。同じ頃、樋口一葉はこの山谷掘りの到着点辺りにあった吉原遊郭近くで生活のため雑貨店を開いていた。時を経て、この界隈から隅田川をセーヌ川と重ね合わせて徘徊していた永井荷風が「墨東奇談」を書いた頃には山谷掘りの埋め立ては始まっていたようだ。その直前の山谷掘りは肥料舟が行き交っていたというから子規の興趣などどこへやら「肥料載せ 今戸に向かう 小舟かな」といったところである。「墨東奇談」に登場する「玉ノ井」は今戸から隅田川に架かる白髭橋を渡って1キロメートル位のところにあった。この白髭橋も作られたのは1914年で、それ以前は徳川の戦略上架橋は制限され、千住大橋を通るか白髭の渡しを使うしか対岸には渡れなかった。白髭の渡し付近には思川という川が隅田川に注いぎ、その川を少し遡ると泪橋(なみだばし)という橋が架かっていた。この橋の北側にある小塚原の刑場に連れてこられた者たちがこの橋で今生の別れに涙したというのがこの橋の名前の由来である。夏には思川は蛍も飛び交っていたようだが、この泪橋付近では小塚原で斬首され、葬ることもままならなかった死体の腐臭で夏の情趣、風物詩に浸るどころではなかったであろう。実際、死体はイタチ、野犬の類に食い散らかされ、空にはカラスが群れを成し、腐臭は辺り一面拡がりさながら地獄絵図であったという記述もある。因みにここで斬首されたものは20万人以上とされている。一言で罪人とは言っても江戸時代のこと、冤罪の比率もかなり高かったと思われる。ここはまた、杉田玄白などの蘭医の※「腑分け」や刀の「試し切り」などにも事欠かなかったようである。

 今、山谷掘橋を過ぎて今戸橋方向に見えてくるものは、例の「東京スカイツリー」であるが、このタワーに上って、上から下を見て何か見えてくるのだろうか。タワーと「一体化」して人々は一体何を見ているつもりになっているのだろうか。

 ※腑分けとは解剖のこと。玄白の蘭学事始に「千寿骨ケ原にて腑分けいたせるよしなり」とある。千寿とは今の南千住で骨ケ原とは小塚原の刑場のことである。

                                              2015 12/26

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