これは大方の方々がご存知の例の大田道灌の「山吹伝説」である。あまり縁のなかった方々のために少し説明を加えると、誕生の地を訪れていた道灌が突然の雨に遭い、とある農家に蓑(みの)を借りようと立ち寄った際に、その農家から娘が出てきて一輪の山吹を差し出したという。その時は意味不明で腹立たしささえ感じていた道灌が後に家臣にそのことを話すと、家臣は後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(みの)一つだに なきぞ悲しき」という兼明親王の歌に掛けて、貧しい農家である故、蓑の一つもないことを奥ゆかしく断ったのだと教えたそうである。
有能な武将でもあった道灌が後に歌道に入るきっかけともなった出来事として取り上げられているが、伝説とは常にそうしたもので、それに敢えて水を差すつもりはないが、そもそも貧しい農家の娘に、あるいはその家族に後拾遺和歌集の兼明親王の歌に掛けて答えるだけの素養があったとはとても思えない。室町時代のそれも貧しい農家となれば最も文化には縁遠く、識字率も危ぶまれる階層である。しかし、この歌が当時広く人口に膾炙していて、貧農ですら知っていた古歌を道灌が知らなったとするなら、道灌の恥じ入ることもさぞ大きかったことであろうと思われる。ただし、突然の武士の訪問に歌の語句を掛けて伝える「奥ゆかしさ」など人口に膾炙していた程度のことではとてもできることではない。さらに,その歌が人口に膾炙していたとしてもその埒外の山間の貧しき農家の者にまで聞こえてきたとは考えられない。もっともこれも雪女の類かと思えばいかようにもなる。
しかし、道灌が歌の道に入るきっかけとしてこれに近いことはあったのであろうと思われる。そして、彼が優れた武将であると同時に歌の道にも通じていた文武両道の士であったことに変わりはない。
2015 10/24