それはあって無きに等しいもの。「無きに等しいもの」を有るものの中で有るがごとくに捉えようとするるからおかしなことになる。了解し難いものについて「藪の中」などとしたり顔で言ってみたところで何ものをもつかみ切れていないことに変わりはない。芥川が「藪の中」で提示した客観性そのもの懐疑、その追究の経緯を省いた単なる情緒的なぺシミズムでは都合のいい我田引水の傍らに生い茂る「藪」を作るばかりである。しかし、実情は藪から棒に、棒ではなく「足」が出てくることもあるのである。それを的確につかみ取り、解明するのが「人間」として真に生きようとするものの自然な流れでもある。「心の闇」などということも同様である。そもそも「心」などというものが一つの有形なものとして捉え切れない、有形無形の混在、変幻自在、言ってみれば無の近似値のような心の在り様が「闇」を抱え込むこと自体さして不思議はない。一体、「闇」を持たぬ者がどこにいるというのか、現実的には「心の闇」は「心の病み」でもあるのである。何か不可解なことがあるとすぐに「心の闇」で括って間に合わせてしまうということの方がおかしなことなのである。これでは何か起これば神頼みをしたり、「たたり」扱いしてしまうのと大して変わりはあるまい。それにはそれなりの原因があるのである。
さりとて「藪の中」の総体を一挙に解き明かすことなどはいかなる大天才もできまい。ただし、様々な時間軸が交錯する中で解明の切っ掛けとなる「足」は必ず現れてくるということである。それを「藪の中」などという括り方で「散らして」いては解明の切っ掛けさえつかみ切れまい。さらに「藪からし」的存在もこの世界には実在するのである。そのようなファクターが加わることによって藪の中も照射可能領域が増え可視領域も拡がってくる。「心の闇」にしても、それによって起してしまったかのような犯罪について自らがその「心の闇」を記述した「自伝」などもあるようだが、そのようなことを明確に自らが書き記すことなど不可能であろう。もし、それがよくまとまっていれば起こった「出来事」以外は真実から乖離しているとみて間違いない。もし正直に書こうとすれば自己解体は免れず、題名すらまともには書けないはずで、出来事と直接関係ない題名が付くこと自体すでにそこには許し難い虚偽が入る込んでいる。いわんや一般受けするような「面白味」などとても及びもつかないというのが「心の闇」に迫ることの真実に近い。「私はあなた以上にあなた自身を知っている」という者にすでにその虚偽のすべては見抜かれているはずである。それは「心の闇」に振り回されることもなく、そのような次元から完全に脱却した者である。
2015 7/19