死の最初の止まり木、それは諦観である。諦観の本来の意味でもある、ものごとを明らかにさせるとはまったく逆の「断念」、「望みを捨てる」、などの意味である。時として激情のごとく湧き上がったであろう「あきらめる」ことへの「拒否」は、それが避けられないと知ると「観念」しざるを得なくなるが、それでも「死の受容」までには到らない。「人生をあきらめた」人の顔がすべて似通ってくるのはそうした「死の受容」の影が潜行しながら揺れ動くからであろう。それは「悟り顔」にも見えるが、何事も「明らめられてはいない」という意味でまったく異質である。それは死が最初の止まり木に止まっただけというに過ぎない。そして、その止まり木に止まった「死」をケージに入れて持ち運ぶか、常に見て見ぬ振りをするかによってもまたその人の「成仏」の仕方は違ってくるだろう。すなわち、生き方そのものが違ってくるのである。
2015 6/25