77.感情的言語の呪縛性と進行・沈潜度

 言霊などという名辞を出さずとも、感情に身を委ねて発した言葉がその人間を執拗に呪縛することなどは周知の事実でもあろう。そして、一旦でき上がってしまった感情の伝達回路は自律神経系のごとく自分の意志ではとても修正できるものではなくなる。そこではいかに「反省」、「後悔」が虚しいかを思い知るだけである。要するに、そうなってしまってからでは一通りのことでは治しようがなく、すぐにまた文脈、状況が整えば繰り返されることになる。運が悪ければ行き着く先は死刑台か自滅の道である。そうでなければ単に運がいいだけのことであるが、それも長くは続くまい。

 例えば、ある文脈の中で「ぶっ殺してやる」という言葉が発せられれば、その人間の中では「殺意」は明確に伝達回路を形成したと見るべきで「脅しであった」などという詭弁は通用しない。そして、未完の行為は時間の経過と共に進行し、沈潜度を増していく。おそらくその本人ですらその進行度はつかめないだろう。劇画まがいの単細胞的な暴力的表現を日々繰り返していればどうなるか、それは容易に想像できることである。いつの間にか自らの内に作り上げてしまった修正不能の「自律神経」にがんじがらめにされ身動きもつかなくなっているのである。それはその生命体が機関停止をするまで止むことはない。何とも憐れで不自由な人生であるが、自業自得で同情の余地はない。

 そこまでは人間臭芬々たるものがあるが、さらに怖いのは「言」から「霊」を抜き去るような作業で作り出された言葉である。例えば、「殺すこと」を「ポワする」と置き換える類である。指示内容の重みから解放されたような錯覚をあたえるのであろう、便利に頻繁に遣われる簡略化された言葉、省略言語,冗語、美辞麗句などの置換言語がもたらす実態把握からの乖離は止めどもない。想像力の貧困化はそれにさらに拍車をかける。

                                                   

 

 

                                                                                                                                           2015  5/23

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