自分自身など他人に見抜かれるはずもないと思っているのは「おめでたい話」である。あたかも司法解剖でもするようににその人間の「為したこと」を拠り所にその人間の構成要素のすべてからその総体を解読することは可能であろう。それこそ腕のいい「司法解剖医」にかかったら本人すら知り得なかったことや「極秘事項」まで白日の下に晒されることになる。それは興味本位の単なる暴露趣味などの俗悪低レベルの領域ではなく、すべてがその人間の根幹部分に関係することでもある。あろうことか突然、誠実な「解剖医」のような者が現れ、「私はあなた以上にあなた自身を知っている」と言うことはあり得るのである。ただし、それは対象がそれだけの時間を割く価値がある者に限られるので大方の凡夫にはあり得ないことである。凡夫についてはそんな心配は必要ない程、すでに日々見透かされているのであるが、本人だけが知らないということに過ぎない。
原作者以上に原作とその作家を知り得る者はいつでも現れる。そして、「為してきたこと」がすべてである以上,それ以外のことについていくら述べても「実像」などとは乖離するばかりである。言ってみれば人間主義的な「虚像」などはいくらでもでっち上げられるということでもある。
一見、奇異にみえる「私はあなた以上にあなた自身を知っている」ということは実際に思っている以上に起こっているし、起こり得る。そして、知らぬは本人のみということもある。
2015 4/19