面白いものである。我々は自分の恥部をさらして歩いているのである。どのように取り繕ってもすべては顔に現れてくる。今までの人生のすべてがそこに現れているのである。亀井勝一郎であったかと思うが、彼もそのようなことを言っていた。我々は一番隠さねばならないものをさらして生きているのである。しかし、それと気づくものは少ない。昨今の女性のノーメイク姿も相当に自分自身に自信があるのか、すべては隠し通せると思っているのであろうか。折角ある偽装手段を放棄しているようなもので勿体ないような気もする。たとえ化粧をしたとしても顔というのはすべてを物語ってしまうものである。私の知り合いに声だけでその人間の「人柄」を言い当てる者がいるが、声の主を見ればさらにその「人柄」の具体的な微調整さえやってみせる。彼は時折、「よく役者などやる気になると思う。役者なら役柄ということで顔が発信するものと本人自身とは多少ズレが生じる時もあるが、テレビなど素に近い状態では本人は丸見えになっている。」というようなこと言っていた。彼のような人間はやや特殊な才能を持っているともいえるが、私は多くの者が彼に近いものを持っていると思っている。それは我が身は見えずとも人のことはよく見えるということが日常でも繰り返されているからである。
因みにA君の外科的顔分析の手法を知っている私は彼に写真の類を渡したことがない。もっとも私などはすでにその必要がない程彼に読み取られているのであろう。
すべては顔の「在り様」で見抜かれているともいえる。それは顔の美醜などという皮相的なことではない。顔の怖さを知らない者、すなわち顔に人生のすべてが表出していることがわからぬ者は「表舞台」などに立つべきではない。それは恥部をさらに拡大させて見せているだけのことである。そのようなことを承知の上でそれを売り物にしている者は別にして、知らぬは本人自身だけというのでは話にならない。しかしそのような者が多過ぎると感じるのは私だけではあるまい。要するに己自身を知らな過ぎるのである。
2014 10/26