マララ・ユサフザイさんは世界の状況が生んだ「時代の人」というべきであろう。言ってみればジャンヌダルクのような女性でもある。彼女にはそのような人生を生き通せる力がすべてそなわっているように思われる。ノーベル平和賞受賞には「若すぎるのでは」、「将来、負担になるのではないか。」などのもっともらしい意見は飽くまで凡夫としての見解の枠を一歩も出ることはない。彼女のような「時に選ばれし人間」というものは凡夫などでは到底推し量れない「力」を持っているものである。タリバン過激派の暴力で頭部に被弾した際にもその立ち直りは極めて早い。彼女自身も自分の受賞を「若すぎるのでは」と呟いていたようだが、それは周りに対する配慮であろう。現に、もうすでに彼女は「これ(ノーベル平和賞受賞)は出発点である」と明言している。大の大人の過激な武装集団のタリバンが「17歳の少女」マララさんを怖がる理由がよくわかる。しかし、もはや何をやってもタリバンに勝算はない。「時に選ばれし人間」の登場がそれを如実に物語っている。それが時代の流れというものである。
マララさん登場の陰に、かの地では多くの「マララ」さんのような少女達がいることは容易に想像できる。その17歳の「少女」達の意識レベルはすでにマララさんに収斂されているようなレベルまで程度の差こそあれ達していると思われる。比較するのも気恥ずかしくなるが現在の日本で17歳の少女の意識レベルといえば「AKB」程度というのが「一般的」であろう。またそこに集う「『老』若男女」とて同様である。この歴然とした「違い」が今後もたらすであろう影響は想像を絶するものがあると思われる。日本の文化の低迷の原因は、言ってみれば、肝心なことに対して真摯にものを見ない、言わない、考えない、そのようなことに慣らされ、その積み重ねの中でいつしか培われてしまった「すべて」である。現にあらゆるものが「退廃」しているにも拘わらず「退廃の世」という意識すらなく退廃一般を「健全に退廃している」というのが実情でもある。これはもう異常を通り越している。やがて、その中から今度はまことしやかにマチス、ゴッホ、レンブラントさえも「退廃芸術」として「不用なもの」として排除する頭のオカシナ輩が現れないとも限らない。最近の活火山の山頂の感知器が故障していたなども象徴的な出来事で、やはり、日本列島は人々のどこかに憎悪を秘めた笑いの内に終末を迎えるのではないかと思われる。
因みに、私の17歳の時は手当たり次第に哲学書などを読み漁っていた。すぐに思いつくところではキルケゴール、デカルト、カント、ヘーゲル、スピノザ、ニーチェ、フロイト、そして、なぜか16歳の時に華厳の滝で自殺した藤村操の「巌頭之感」を諳んじてもいた。もし、そのような17歳を笑う者がいれば、藤村操の死後、例によってメディアなどが拾い集めた興味本位の記事について、漱石がある種の怒りを込めて述べたことをそのまま返すだろう。すなわち、要約すれば「下司下郎、人格的にも劣る者が嗤う(笑う)権利はない。」ということである。西欧文化、日本文化に対しても造詣が深く、文化の在り方についても真摯に受け止める姿勢で貫かれたほんとうの意味で「文学者」、「作家」といえる者の視座の根本軸はやはり揺るぎない。藤村操が華厳の滝に飛び込んでからすでに100年以上が経過しているが、根本的には何も変わってはいない。ただ、漱石のような作家も藤村操のような17歳もいなくなったことは確かである。
2014 10/11, 10/13